世界の庭園


 ウズベキスタン桜植栽プロジェクト
2015.06.26
第33期  小林欣也

 2002年、「ウズベキスタン桜植栽プロジェクト」の責任者としてJICAからウズベキスタンに再び派遣された。前年の2001年に、首都タシケントに日本庭園を建設したのがきっかけだった。このプロジェクトの発起人は在ウズベキスタン日本大使館、中山恭子大使(現維新の会参議院議員)とご主人の中山成彬先生(元文部科学大臣)だった。桜植栽プロジェクトはウズベキスタンに日本の桜を植えるというお祭り的なものではなく、実はウズベキスタン国内9か所にある日本人抑留者の墓地に故郷の桜を植えるという中山先生や遺族の方々の熱い思いによるものだった。

 植栽する場所はまずはタシケント市内の抑留者墓地、慰霊碑、日本庭園、中央公園、そして抑留者が建てた日本人の遺産とも呼ばれる有名なナヴォイ劇場、そしてウズベキスタン国内にある他8箇所の日本人墓地だった。全国一斉に行うため、地方の担当者が事前にタシケントに集まり、植栽のレクチャーを行った。そしてその時に桜の苗木を持ち帰ってもらい、後日盛大な植栽が全国一斉に行われた。僕はウズベキスタンで活動中のJICA専門家とともに当日植栽の中心地となる中央公園で市民や学生たちに手伝ってもらい数百本の苗木を植えた。

 
日本人抑留者が建てたナヴォイ劇場と桜
 
タシケント中央公園での植栽レクチャー
 
タシケント日本人墓地の墓守2002年
 
タシケント日本人墓地の桜2006年

 タシケントでの植栽が終わると、僕は地方にある日本人墓地数ヶ所を回った。桜がきちんと植えられているのかどうかの確認である。その他の地域はムシャヒディンの不穏な活動もあり政情不安で行くことが出来なかった。
地方の墓地へ行ってみるとそれぞれの墓地には墓守がいた。誰に雇われているわけでもなさそうだった。どうやら先祖を大切にするウズベク人の慣習によるものだろうか。また、日本人抑留者が抑留されていたにも関わらず、勤勉に働く姿などウズベク人にとってとても良い印象を残していたからかも知れない。


   
アングレン日本人墓地の墓守
 
ブハラの日本人墓地の墓守の老婆
 
塩が吹き出た大地と桜の苗木 ブハラ

 桜は生き生きとして植えられていた所もあったが、南部のブハラの墓地では一面雪が積もったように塩が吹き出ていて、すでに葉の輪郭部は塩害で茶色く枯れ始めていた。アムダリヤ・シムダリヤ河から強制的に綿花畑に大量の水を送り込んだために、浸透圧で地中の塩分が地表に吹き出てしまったらしい。広大なアラル海を枯渇させ、大地を塩害で壊滅させてしまった旧ソ連の馬鹿力である。日本から遠くやってきた桜が間もなく塩害で枯死してしまうだろう様子は見るに堪えなかったが、そこに眠る抑留者のことを思えばさらに複雑な気持ちになった。
 そして桜の根元が水に浸って色が変わっているのを見るにつけ墓守の老婆のしたたかさに胸が熱くなった。

 
コーカンドの日本人墓地と鳥居
 
コーカンド日本人墓地の墓守

 東部のコーカンドの墓地はフェルガナ盆地にあった。緑豊かな肥沃な地域だった。ここの墓地にはなんと鳥居が建っていた。墓地に鳥居?おかしな取り合わせなうえ、鳥居の形は少し変わっていた。戦後、50年近く一般の日本人が立ち入ることが出来なかったわけで、この鳥居は墓守が言い伝えや写真などを見て建てたものだと想像が出来た。ウズベク人の抑留者や日本人に対する思いがそこにはたくさん詰まっていた。

 
タジキスタン国境 ベガバッド日本人第一墓地
 
墓守と桜の苗木

 タシケントやアングレン、コーカンド、ブハラなどは長方形の墓石が等間隔に地面に張り付いたように並んでいたが、タジキスタン国境にあるベガバッドの墓地二か所は土饅頭の上に小さな鉄のプレートが立っているだけだった。桜を植えると同時にこの2箇所の墓地を今回整備することになっていた。僕はベガバッドの担当者と打合せその場で簡単な平面図を描き、施工はタシケントで日本庭園を一緒に建設したロシア人のアントンとミーシャがすることになった。
 ここにも墓守がちゃんといた。数か所を回って気がついたのだが日本人墓地のすぐ隣にはドイツ人とイタリア人の墓地があった。彼らも同じ時代に抑留されたのだろう… 。

 
タジキスタン国境 ベガバッド日本人第二墓地2002年
 
墓守と桜の成長した様子2006年

 4年後の2006年僕はウズベキスタンに植えられた桜の調査に行った。時間も限られていたので、墓地整備を行ったベガバッドの2か所とキルギスタン国境に近いアンディジャンの墓地2か所を回った。ベガバッドの墓地はきれいに整備され墓石がきちんと配列されていた。そして桜も4mほどに育っていた。アンディジャンの墓地は今回が初めてだった。ここは当時政情不安で行くことが出来なかった場所である。そのうちの一か所はまだ、土饅頭の上に鉄のプレートが打ち込まれているだけの墓地だった。もう一か所は小さな墓地だったが90歳近い老夫婦が墓守をしていた。こんなに日本人に手厚い国民は世界中どこを探してもいないかもしれない。

 僕はアンディジャンからキルギスタンへ国境を越えた。オシュの町へ着くとそこにはカシュガルまで300Kmという標識が出ていた。中学生時代に見ていたNHKのシルクロードという番組で遙か彼方のカシュガルがもう目と鼻の先にあった。心が躍った。
 オシュから首都ビシュケクを抜けてカザフスタンのアルマトゥへ向かった。アルマトゥには日本人墓地があるという情報を得ていたからである。日本人墓地を見つけるのはそんなに難しいことではなかった。しかしそこは墓石は整備されていたものの草に埋もれて誰にも世話をされていない様だった。国が違えばこうなってしまうのかと残念に思った。 日本から遠く離れた中央アジアの地に眠る抑留者の方々。年老いていく遺族の方々。戦後70年近く経っても日本人抑留者の墓守りをしてくれているウズベク人。
 ほとんどの日本人が知らない抑留者の過酷な史実。遠く離れた中央アジアに日本人抑留者が眠ることさえ、いつか日本人の記憶から、日本の歴史から消え去ってしまうのだろう…

 
老夫婦の墓守
 
アンディジャンの日本人墓地と桜 2006年
 
抑留者が働いていたチルチック工場跡と桜
 
チルチックの日本人抑留者が掘ったとされる運河

 昨年(2014年)の春、中山成彬先生、恭子先生からウズベキスタンに植えた桜の便り(写真)を頂戴した。ウズベキスタン桜植栽プロジェクトから12年経たったが、一部の地域とはいえ日本から1300本送られた桜の多くがすくすくと成長していることがわかった。樹高が1m足らずの苗木が12年の歳月で5m以上に立派に育っていた。
まるで子供の成長を見るような思いだった。 涙が出るほど嬉しく、懐かしかった…
ウズベク人の手厚い管理もあり、これから数百年も中央アジアの地に根を下ろすだろう長寿の品種もある。
異国の地で眠る抑留者の方々のもとでいつまでも桜の花を咲かせて欲しいと願う。

 
2014年春、中山成彬先生、恭子先生ご夫妻からいただいたウズベキスタンの桜の便り

小林さんの携わった日本人墓地のある町

ウズベキスタン(O'zbekiston

 
ナヴォイ劇場の桜植
 
ベガバッド第二日本人墓地整備後
 
タシケント日本人墓地桜植栽
 
タシケント桜植栽プロジェクト 2002年
 
タシケント日本人墓地の桜 2006年
 
ピートモス搬入状況
 
タシケント桜植栽プロジェクト 2006年
 
ブハラ日本人墓地桜植栽.
 
キルギス国境アンディジャン日本人墓地
 
チュアマ日本人墓地

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