小田原フィルハーモニー交響楽団


我が青春に悔いなし
  4期  小島 修

 苦節十年とか、十年一昔と言われるが、我々のオーケストラの十年の歩みは、 この言葉にふさわしい際立った足跡があるわけではないので、 これを感懐深げに浮彫りすることは針少棒大を免れず、最初から戸惑ってしまう。それは標準的な一生活人の十年の歩みとさして変りなく、ある日突然生れでて、以後世間一般(この場合は他のアマチュアオーケストラ)の人のしている様なことをやり、今日に至っただけのことで、取りたてて強調する何ものもない様な気もする。ともあれ、我々が十年間を活動し続けて来たと言うことはまぎれもない事実で、そこに視点を向けて何かを探りあててみたい。

 戦後、一応世の中が落着いてから、いろいろの大学とか、東京あるいは地方の同好者が集り、 この種の団体は雨後のたけのこほどではないが幾つか生れでて、各団体とも、べートーヴェン、モーツアルトを始めとして古今の名曲を手がけて来たのであるが、その活動内容は似たりよったりで、どの団体もさして変りはなかった。そして技術的に限度があるため、 1 回の演奏会を仕上げるまでにかなりの時間と根気が必要であり、何回かのトレーニングの後これを発表し、また次の回の準備にとりかかるというととの繰り返しである。その効果と言えば、それほど際立ったものでもないので、第3者の目から見ると、全く地味で割に合わないことをよく続けられるものだと思われそうな気もする。しかし、やっている当人はお互いにその中に没頭し、しかも相手は古今の名だたる作品、我々を惹きつけずにはおかないのである。

 仕事でも、芸でも、人間これに立ち向かい、諸々のエネルギーを注ぎ込んで、これを完成させようと努力する過程で、その人の内面或いは行動面で全人間的なドラマが展開され、そこに、その人が芸術的ならば、詩、音楽、建築等々、事業家ならば、一つの事業として表現される。これまで我々の十年間の活動が、 ともすると惰性で来たようなことを述べて来たが、 もう一歩突っ込んで考えてみるに、我々のオーケストラ活動に対する執念も、意識の底には、 これに似たものがある様な気もする。プロとアマということが言われる。 プロはそれを職業として飯を食べているというだけでなく、技術においても、精神力においても、 自己の仕事をいかなる時でも完壁に仕上げられる確かさと厳しさを持っており、その成果によってのみその仕事は評価される。これに反し、アマチュアには二つの要素がある様に思う。一つは、いわゆる趣味とか道楽とか称する遊びの要素、今一つは、自己の関心をもっている対象に純粋な衝動からそれにぶつかり、その成果など問題でなく、全力投球をし自己をその中に没頭するという精神の作用で、その態度は真剣そのものである。我々がこれまで、このオーケストラを支えて来た気持も、この二つがからみ合って今日に至ったもので、その限りにおいては年令に関係なく我々は「若い」と言えるし、それはオーケストラが我々に与えてくれた貴重な報酬であり、そのことに対してひそかな喜びを感じもする。

 いろいろ考えながら、十年目を契機に、オーケストラを通じてたどって来た自分自身の生活の歩みを顧りみると、
「我が青春に悔いなし」の感概も偽りではなく、こ れまで愛着を抱きつづけて来た小田原フィルハーモニーに別れる
ことは当分出来そうにない、 というのが今日の実感である。




          1つ前のページへ