小田原フィルハーモニー交響楽団


小田原フィルハーモニー交響楽団創立十周年を迎えて
会長   中14期 松尾芳郎

 小田原フィルハーモニー交響楽団も今年で、ちょうど10周年を迎えることになった。ふり返ってみると、いろいろのことが思い出されて、何から書きはじめてよいかわからない。「小田原でオーケストラを」 という音楽愛好家の熱望が盛り上って、いろいろの機会にアンサンブルができ、渇望がしだいに具体化して、小田原フィルハーモニーに結集されるまで……いろいろな苦しいいきさつもあった。それ以前は熱心な連中が、ハイドンの「おもちゃ」モーツァルトのドイツ舞曲から始めて、未完成、運命、田園、 ジュピター、青ダニ、皇帝円舞曲、びっくり交響曲、ベートーヴェン第1など写譜してはその一部を小型のアンサンブルで、わずかに 慰めていた。われわれの渇望を空聞に書いては消し、消しては書いてイメージをくりひろげてオーケストラのオナニー に耽ったものだ。小田フィルは1958 年12 月発会、練習をはじめる。それからの1 年間、第1 回の発表会を開くまでの苦心……「うまくまとまるだろうか」、「はずかしぐない演奏ができるだろうか」、宣伝は、入場券の売行は、などなど。メンパーはみんな若かった。あらゆる困難を乗りこえて、それが成功したのは第1 に、 メンバーの燃えあがり、焼きつくような強烈なエネルギーによるものであった。演奏会後なそれは自信となり、苦労は歓びに変り、限りない大きな希望がふくらんだのも、この頃のこと。特記しなければならないのは、創立以来、小船幸次郎先生を指揮者として迎えたことである。先生は終始変らず、きびしく指導され、メンバーのまとめと引上げに 努力された。そしてその人柄の魅力……音楽にはきわめて厳正で、それでいてメンバーをこよなく慈しまれ、いつも和気あいあい……思うにアマ・ オケの限界を知りつつ、その最大限を引きだそうとする最高の教育者であられたのだ。
 以後、地域の音楽文化の開拓が先生の多年の念願であることを知ると共に小田フィルが最も弱体であったにも拘わらず、先生が毎回指揮されるということになった幸せをわれわれはいつも思いつづけて来たのである。
 この10 年間、小田フィルは順調に発展しつづけたであろうか。そうではない。練習会場、楽器の不足、メンバーの
不足、資金難、赤字赤字の出血演奏会……それでも皆は挫折しなかった。他のアマチュア団体が、興りかつ滅び、めまぐるしく変転するなかで、一貫してクラシックのジャンルにその生命をもちつづける。
 一国の音楽文化は、オーケストラの数によっておしはかられるという。われわれは小田原に、小田フィルの存在することを最大の誇りと思っている。オーケストラほど、金のかかる賛沢なものはない。聞くところによると、他のアマ・オケは地方自治体の市などから、多大の援助をうけているものが多い。当小田原フィルは小田原市から年間数万の援助は受けているが、とうていそれでは足りない。将来、市当局の理解と援助によって、さらに大巾な財政補助が得られればと念願するしだいである。

 高価な楽器、バスーン、ホルン、オーボエなど是非欲しい。ただ今は他の楽団から楽器ぐるみエキストラで参加して貰うととで補っている。 もっとも近年ホルン、オーボエの奏者の入団があり、ティンパニィ、弦バスの楽器を手に入れたが、それだけでは不足なのである。近頃うれしいこと。それは練習会場が市の中央公民館に定着したことで、 こういう便宜を当楽団に提供された市当局、公民館長の御理解と御援助にたいし、心からの感謝をささげたい。練習会場がここに移ってから、メンバーの出足もよくなり、新らしいメンバーも続々加わった。平塚からも、山北からも参加している。
 今まで練習場は、小峯の山の上の小田高、音楽室でおこなっており、夜の練習など不適当だったし、 とかくメンバーに小田高卒業生が多かったので、「小田高色」 が強い傾向があった。今の会場は足場もよい、楽器や譜面台もティンパニィも置ける倉庫がある。セクショナリズムも解消された。小田フィルはみんなのオーケストラ、市民のオーケストラになっていこうとしている。

 この10 年聞にメンバーもずい分入れ替った。「 年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」である。卒業、職業
の変化、移転、結婚いろいろ原因があるだろう。条件がよくなったら、また復帰してもらいたいものである。
 しかし、一貫して第1回から頑張っている根幹の人々がいる。 先ず、副指揮者、コンサート・マスターの横山氏を
あげなければならない。常任指揮者の小船さんの都合の悪いとき、 17固と18回の定期では指揮棒を振って立派にその代役を果された。そのほか、メンバーのトレーナーとして、小田フィルの生えぬきとして小田フィルを心から愛して、献身的に努力され、またこれからも努力されることであろう。この外、みんな多忙な職業を持ち、家庭を持ち、それでも小田フィルのため日曜毎に、雨の日も風日も、東京から、横浜から、その他の地方からやってきてくれる熱心家・・・。これは並大低の事ではできない。そんな人々が大勢いる。

 そして小田フィルを支える縁の下の力持ちのメンバーの幾人かには頭の下がる思いである。いちいち名は挙げないことにしよう。第1 回から、順々に若い人に受けつがれてきたが、イン スペクター、 ライブラリアン、会計など蔭の力が無かったら小田フィルはこんなに続かなかったであろう。改めて感謝と敬意のことばを捧げたい。
 さて、 あちこちで「小田フィルの演奏を聞いてよかった」、「又聞きたい」という人々にぶつかる。その人々がしだいに増えつつある。これはやはり10年の実績かなと思う。これらの声援にわれわれは励まされる。世間は流行歌やエレキの氾濫であるとき、シンフォニィの滅多に演奏されない当地方では、小田フィルの果す役割りは大きいと、われわれは自負している。
 さあ皆で頑張りましょう。よりよき音楽を小田原の市民へ、そしてメンバーのひとりひとりが向上し、前進し、そ
れに相応しい演奏が出来るように努力しましょう。
  
    Art is Long, Life is Short !!


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