戦前、天神山に瓜生大将が住んでいられたが、その夫人がわが国の洋楽開拓者の一人で、小田原の初期の音楽界にいろいろと蔭から力をそえてくだすったことは、今、知る方は少なかろう。
その初期というのは大正のはじめの頃で、共に音楽を語り、レコードを楽しんだ人たちに、故辻村伊助、二見公平
山田又市、大田黒元雄、鍋倉卯八の諸兄と、そして僕とがいた。辻村氏は非常によいレコードをもっておられたので、度々、僕の家の二階の大広間でレコードコンサートを開催したが、その時は必ず瓜生夫人も来られ、それと共に、故谷崎氏の作品「痴人の愛」 の主人公のモデル、ナオミさんもその日本人ばなれした姿で顔を見せていた。
こ れらの人たちのうち大目黒君のピアノと鍋島君のバイオリンは素人の域を脱していたが、山田氏もバイオリン、二見氏はクラリネット、僕はオルガンと、それぞれかくれた余技をもって楽しんでいたものである。
小田原で第1回の音楽会が大々的に 開かれたのは、大正3年で、辻村、二見の両君と僕と三人で、小田原フィルハーモニーという会を作り、この会の主催で、陸軍軍楽隊の隊員25名を招いて、当時の小田原中学校講堂でブラスだけによる演奏会を開いたのであった。当時のプログラムには、 ドナウ河の漣、ファウスト抜萃曲などのほかに長唄勧進帳、新内流しなどがあり、このブラスによる勧進帳が大喝采を博したということなど、現在の小田原フィルハーモニーの演奏曲目とくらべて誠に興味が深い。
その後は、弦も加わって、数回のコンサートが開かれたが、合唱の方はずっとおくれて、昭和23年に石黒脩三氏のプレアデス合唱団の演奏会が最初といえよう。これから後は、個人としてすぐれた音楽家が沢山出て来た時代になるが、ここにちょっと面白いことは、小田原はハーモニカの演奏者として有名な綿貫、雨宮両氏を出しているほか、綿貫氏の考察によるパイプハーモニカと標準音階による半音付きハーモニカ、故久保田氏によるエンフォニコン(共鳴板をつけたハーモニカ)などの優れたハーモニカを出していることで、ハーモニカ界では小田原は特異な存在といえよう。
戦後は一般のレベルも向上し、特に若い人たち、例えば高校生あたりの学生で、昔なら玄人の域に達しているような連中が多数いることには僕も心から感心している。そしてそれらの若い人たちに対して、ブラスの東氏、オーケストラの小船氏の両先生が熱心に指導してくださって、益々団員の腕前が向上して来たのも喜ばしいことである。
小田原フィルハーモニー交響楽団も結成以来10年になるが小船先生の熱意のこもったご指導により、年ごとに演奏のレベルも向上し、益々盛大になって来たことは、市民の一人として誠に感謝に堪えぬところである。