小田原フィルハーモニー交響楽団


小田原フィルハーモニー交響楽団創立エピソード
高6期  田近廣生


小田原フィルハーモニー交響楽団の創立(1976年の時点)

 小田原という地方の小都市に交響楽団が生まれてからもうすぐ18 年になります。それがどのようにして生まれ、今日までどう歩んできたか、また、その存在が地域社会の中でどのような意義をもち、あるいはもちうるかをここに書きしるしておこうと思います。小田原フィルハーモニー交響楽団(これが正式の名称ですが)正式に発足したのは昭和33年の12 月です。 しかし交響楽団なるものが、そう簡単にある日突然に出来あがるわけがありませんし、小田原フィルも成熟までの長い時が必要でした。その小田原フィル前史とも言うべき時代のことからふれてみたいと思います。
 それは小田原高校室内楽団のことです。当時、同校教諭の松尾芳郎先生は音楽にひとかたならぬ情熱をもち、自身、弦楽器(特にチェロ)をよくされ、同好の生徒を集めて弦楽合奏団を組織し、さかんにアンサンプル活動をおこなっておられました。この頃すでに先生の胸にはシンフォニーオーケストラの夢が宿っていたのでしよう。昭和26 年、小田高は創立50 周年を祝いましたが、その記念文化祭において、この弦楽合奏団を主体として、卒業生・教員・その他の人々が加わってオーケストラが組織され、シンフォニーが演奏されました。小田原の地で、アマチュアの手によってシンフォニーが演奏された最初のことであり、思えばここに小田原フィルが胚胎したとも言えましよう。と言うのは、その時のメンパーが結局、小田原フィル創設時の主要メンバーになっていったからです。 さて、松尾先生を中心としたそれらのメンバーは、その後もことあるごとに集ってアンサンブルを楽しんでいました。こうした状態が4 、 5 年続いたでしょうか。しかし、いつまでも小型アンサンブルで満足できるわけがありませ'ん。 行きつく所はシンフォニー・オーケストラへの夢でした。その間には、ともにアンサンプルを楽しんだ人々の一部が松尾先生から離れていくという不幸なできごともありました。

 しかし,先生を中心とした若いメンバーは、その夢の実現に向かって会合を重ね、 熱っぽい語らいに時を忘れる日を送ったのです。やがて昭和33 年、時満ちたと言えましょうか、 若いメンバーは、大学を率業したり、 またはその直前の時代でした。メンバーの何人かは既に大学でオーケストラ生活を経験していました。自信もついてきたわけです。 思いきってはじめようと衆議一決しました。こうして、この年の12 月、ついに小田原フィルハーモニー交響楽団が誕生したわけです。10 余年におよぶ長い夢の実現でした。そしてその創設のメンバーは松尾先生を中心として、横山健治・寺田豊・江良皓・小島修・中村瑛・松本肇・原弘一・樋園泰栄・渡部真等の諸氏でした。

 さて,発足したものの、実はこれからが大変でした。まず団の組織づくり、会長には松尾先生、副会長には古くから音楽もたしなんでおられた工芸家の小暮次郎氏、顧問として小田原出身の音楽家石黒修三氏および小田原の音楽文化の先達関重広氏に指導をお願いし、コンサートマスターは横山さん、インスペクターに寺田さん、その他それぞれメンバーが、その特技を生かした仕事を分担して出発しました。指揮者には、小島さんの骨折りで、小船幸次郎先生に来ていただけることになりました。次にメンバー、弦楽器は最初からわりあいにそろっていたのですが、管楽器や打楽器奏者が不足、その状態は数年続き、初期の小田原フィルの最大の悩みとなりました。ともかく、こうして発足し練習を開始したものの、実にさまざまな難問が待ちかまえていて、 目ざす第一回の演奏会は容易に行きつけぬ状態でした。翌34 年の秋に、ようやくめどがたって本腰を入れて練習にとりかかることができたわけです。 そして12月6 日、第一回の演奏会が本町小学校の講堂で行われ、ほぼ満員の会場にベートーヴェンの第一交響曲が流れたのでした。もちろん、 この演奏会は多くの方々、特に横浜交響楽団の全面的な応援によって成り立ったものですが、ともかく、長い夢が真に実現した小田原フィルにとって忘れることの出来ない日でした。この日の感動はとうてい筆舌に表わすことは出来ないというのが、その時の団員の等しい感想でした。ともあれ、 ここに、小田原で市民によるシンフォニーオーケストラが真に誕生したのです。そして、それは神奈川県下における5 番目の市民オーケストラの誕生でもあったのです。

 さて、このようにして生まれた小田原フィルは、さまざまな問題をかかえながらも年に二度の定期演奏会を目標に、休むことなく今日まで活動を続けて来ました。その活動も、単に定期会演のみではなく、町の文化祭、成人式等に招かれて演奏したり、静岡県の音楽協会の演奏会に賛助出演するなど、地域の音楽文化に少しでも役立とうと努力しました。また、昭和35 年の秋には、県立音楽堂フェスティバルの行事の一つである五市交響楽団合同演奏会に初めて参加し、県下の市民交響楽団との交流もはじめました。その翌年には、小田原市の市民文化祭にはじめて参加し、これも今日に至っています。昭和37 年には、待望すること久しかった市民会館が完成し、発表の舞台を本格的な会場に移すことが出来ました。また、第一回定期より、ずっと御指導いただき、小田原フィルの基礎を築いていただいた小船先生にかわって、 17回定期演奏会より横山さんが指揮者に就任し、今日まで指導を続けていただいています。 昭和43 年には、創立十周年の記念演奏会を開き、今までの活動をふりかえり、新たな飛躍への道を求めて今日までともかく歩いてきたわけです。 今ふり返ってみると、さまざまな感慨が湧くのを禁じ得ません。 喜びとともに苦難の多かった長い道のりが思い出されます。 しかし、これは当然のことでしょう。一つのオーケストラが生まれ育ったこと、それはやはり大変なことだったのです。 ここで、その苦労のいくつかをふりかえってみようと思います。まずメンバーです。 オーケストラのいちばん重要な要素はもちろんメンバーです。 オーケストラにはさまざまな楽器パートと多数の人員が必要で、そのどれも欠けてはならないのですが、小田原フィルは最初からそのメンバー不足に悩まされました。前述のように弦楽器は比較的充実していたのですが、 フリュート・クラリネット・トランペットを除いた管楽器や打楽器奏者がほとんどいない状態でした。オーケストラである以上、 オーボエ・ファゴット・ホルン・トロンボーン等を欠くことはできません。そうした不足メンパーは、やむなく他のオーケストラからの応援で間に合わせて、やっと演奏会が開けるというありさまでしたが、ふだんの練習時にはとても困ったものです。 毎回募集広告を出し、団員探しをするのですが、なかなか集まりません。 発足後4 年目にしてやっとトロンボーン奏者が一人入団し、 5 年目にしてはじめてホルン奏者が生まれ、オーボエに至っては創立9 年目にやっと団員をもつというようなありさまでした。ともかくある程度のメンバーがそろいはじめたのはごく近年のことです。 それとてもまだまだ不足で、今後とも続いて行く大きな課題かもしれません。 楽器についても多くの苦労を重ねました。特にティンパニーには因りました。近所で所持している所もないし、購入する金も無く遠く横浜や横須賀からお借りしてくるほかありません。 しかしその運搬が大変です。 最初の頃は、あの重く大きなものを電車とタクシーを利用してやっとの思いで運んだものでした。もちろんオーケストラには沢山の楽器が必要です。 個人で持つにはあまりにも高価な楽器が多くて、 これらを団で所有する必要があったのですが、当初、何よりも先にティンパニーを欲しいと痛切に思いました。その望みがかなったのもようやく8 年目にしてでした。それも松尾会長が個人で購入し、それを団が借りるという形でした。尚その他の楽器ということになると、財政上購入はとても望みがない状態が続きました。ファゴツト・トロンボーン、その他二、三の楽器を購入出来たのは、これもごく最近になってからのことです。 会場・練習場についても苦労したことが思い出されます。演奏会場は最初、本町小学校の講堂でした。ここでは演奏会の前に会場を整えるのが当日の大仕事でした。ステージが狭いので、まずそれを作らねばなりません。 当時、すぐ隣りにあった城南中学校から理科の大きな実験机を借りて、それを運んでステージを作りました。それが済むと今度は客席にイスを並べる仕事、さらに雑布がけといった具合で、演奏前に体力をかなり消耗してしまうという始末でした。ですから、市民会館が出来上がると聞いてわれわれが何よりも喜んだことは、これでやっと会場作りの苦労から解放されるという点だったのです。 練習場も現在の中央公民館に落ちつくまでにはいろいろとありました。最初は小田高のグランドの片すみにある音楽室を借りて練習していました。音楽室と言っても物置小屋のような建物、かってはボクシング部の道場に使われてもいた所で、練習中にはさまざまなスポーツのかけ声も聞こえてきたり、まことにのどかな風景でした。しかしやがてここが使えなくなり、それからしばらく、練習場を求めて各所を転々としたわけです。

 財政についても苦しみました。 慢性の欠乏症と言ったところで、事態がいくらか好転するのにはかなりの年月がかかりました。なお、その他さまざまな困難に出合いましたが、言い続ければきりがありません。しかし、こうした苦労のかずかずにもかかわらず、今日まで続けさせて来られたのも、それは団員の情熱と多くの方々の協力、それ以外にはありません。 今、小田原フィルにつながる多くの人々のことが思い浮かびます。 まず、会長の松尾先生、これほど音楽ヘ一貫して情熱を傾けてこられた方はありません。先生の情熱、それが結局、小田原フィルを生み、育てて来たものです。

 初期のメンパーのほとんどは先生の弟子でした。指揮者の小船先生、創立時から先生にご指導いただいたことは小田フィルにとって何と幸運だったことでしょう。どうなることかと危ぶまれるような曲も、先生に振っていただくと何とか出来あがってしまうのは不思議でした。先生はプロの指揮者としての活躍のほかに戦前から横浜交響楽団の指揮者として、 アマチュアオーケストラの育成に情熱を注がれておられました。8 年間にもわたって遠く小田原までいらしていただけたのも、アマ・オケに対する先生の深い愛情だったのかもしれません。 横山健治さん(2014.09.18逝去)、 コンサートマスターとして団員を引っ張って来られましたが、小船先生のあとをついで現在は指揮者として活躍。 一貫して小田原フィルの大黒柱となりつづけているのは、 まさにこの方です。 寺田豊さん、創立時のインスペクターとして、草創の重荷を負われた一人、横須賀から休むことなく練習に通われました。5 年前、急逝されましたが、実はその前日にも練習に来られたのです。小島修さん、「 青春を小田原フィルに捧けつくした」と述懐されていますが、忙しい銀行勤務のかたわら横浜から通い続けられました。 第9 交響曲を小田原市民の力で演奏する夢を熱っぽく語られた江良さん、弦楽器のあらゆる種類を器用にこなされた原弘ーさん、第二代のインスペクターとして活躍された中村瑛さん、小田原フィル創設の推進役として大きな働きをした渡部真氏と樋園泰栄氏、小田原フィルの草創期はこれらの人々の情熱にささえられました。また,第三代のインスベクターとして、非常に凡帳面に仕事を果された中村毅氏、今ではたった一人、第一回公演から欠かさず出席し、また常に縁の下の力持ち的に団をささえてこられた杉原正明氏、指揮者として、また管楽器のリーダーとして若い団員の信頼を受けている関野昌紀氏、団員相互の親睦に骨をおっていただいた吉田明夫氏、そのほか、柏木憲一、中村明美、小暮克彦、徳沢姫、吉田龍夫、米山安喜彦などの諸氏によりて守成の時代がになわれ、さらに原田敏彦、佐藤雅実、坂田一郎などの諸氏、その他、新しい人々の活躍によって現在、新しい発展をとげつつあります。プロで活躍している人も何人か出ました。作曲家として、またピアニストとして、現代音楽の分野で精力的な活動を続けておられる竹内孝次さん、都響で活躍しておられるフルートの湯川和雄氏、現小田原フィルのコンサートマスターで、読売交響楽団に入団された白井英治氏、 フルートの武田又彦氏も北九州のオーケストラで活躍されています。

 また他のオーケストラの方々にも随分お世話になりました。前にも記したよう、最初の数年間は横浜交響楽団に、
援助をたまわりました。また、いろいろな大学のオーケストラのメンバー、その他、多くの愛好家の援助を常にうけてきました。なかには団員のごとく、小田原フィルを愛してくださった方も何人もいました。市民の方々の協力、 これも忘れてはなりません。 いや、聴衆の方々こそ、小田原フィルをささえた最大の力かもしれません。

 さて、 このようにして小田原フィルは今日に至ったわけですが、これまでのわれわれのオーケストラ活動は何のためだったのでしょうか。「楽しみ」「 慰戯」……もちろんそれに相違ありません。しかし、かくも多くの情熱、労苦をささえてきたもの、 そこには、単なる「なぐさみ」といったもの以外の、何か別のものがあるような気がします。それは多分、われわれの多くは特にそれと意識しなかったにもかかわらず、ある種の「創造」への密かな意志というようなものであったのではないかと思います。もっとはっきり言えば、文化をつくりだすこと、音楽を「われわれのもの」とするという試み、そういうものではないでしょうか。

 例えば、小田原フィルが30 回を越える公演で演奏してきたものは、西洋の近代音楽です。ほとんどの曲は、西洋の19 世紀の文化が生み出してきたものです。日本人にとっては無縁のものとして退けることも出来ますが、逆に「自分のもの」として「所有」することも許されます。むしろこうして異質のものを取り入れることによって文化は豊かになります。日本の文化の歴史はそのことを教えています。

 では「所有」するにはどうしたらよいのか。それは、外から眺めているだけの受け身の姿勢をとらずに、能動的にぶつかること以外にありません。 例えば西欧の近代音楽が、その中心的な形態として作りあげてきた管弦楽の音楽、これを自ら演奏することは、長いこと専問家以外には閉ざされていた道です。 しかし、そうした音楽を自分たちのものとして「所有」するには、自らそれを演奏するのが一番よいのであり、一般の愛好家にも許されている権利なのです。 そして、 このように誰でも近づけるものとして広くひろがる時、初めてそれが国民の文化となったと言えるでしょう。

 小田原フィルの20 年、それは以上のような意味における文化創造の営み、小都市の市民によるささやかな試みの姿と言っては高慢にすぎましょうか。



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