小田原フィルハーモニー交響楽団


第1回演奏会まで
  高6期  渡部 真

 あれは昭和33年初秋の夕暮れ時だったと記憶しています。小田原駅前のパスの中で、通称ヒーさんこと樋園泰栄君と私とは、東京から小田原までの電車の問中、飽きることなく話し続けて来た音楽談義の行きつくところ、ぜひ小田原にもオーケストラを創ろうではないかという、どちらからともない発案に意気投合してすっかり興奮しきっておりました。当時の私たちは大学を卒業したばかりで、それぞれ新しいことを始めてみようという意気に燃えていたわけです。ことに、樋園君はその春まで活躍して来た大学でのオーケストラ生活を忘れかねて、いわばオーケストラの醍醐味に飢えていた状態。私とても、松尾先生の寛大な手びきのお蔭で、数年前まではただ遠くの憧れに過ぎなかったオーケストラも、今ではチェロの末席に坐ることが出来るようになってアンサンプルの魅力、いや魔力に、 すっかりとりつかれていた頃でした。

  ともかく、今までは夢物語として冗談半分の話題になることはあったこの問題も、今度こそは本気で松尾先生はじめいつものアンサンブルの常連と話しあってみようというわけで、間もなく当時駅前にあった松尾先生のお宅へは、先生の呼びかけに応じて、自他ともに気狂いをもって認ずる面が馳せ参じ、夜な夜な小田原評定を始めることになりました。いずれも、小田高時代に松尾先生の薫陶を受けてアンサンプルの楽しさに開眼し、在校中は小田高弦楽団の主力メンバーとして、またその後もそれぞれ大学や専問のオーケストラで活躍しながら、折ある毎に松尾先生の召集令状に応えて小田高の文化祭や近在の催しにアンサンプルを組んで出演して来た楽器の虫ばかり、すなわち、横山さん、小島さん、中村さん、江良さん、小暮さん、寺田さん、原さん、松本さんら諸先輩と、田近、樋園、渡部といった我々同期生、それに当時小田高在学中の諸君でした。この趣旨には誰も異存なく、「小田原管弦楽団」ではなく「小田原フィルハーモニー交響楽団」という本格派を気どった呼び名が簡単に衆議一決したのも、一同の並々ならない意気込みの表われだったのでしょう。

 メンバーの中に人材を得て、ひとりひとりが、職業や経験や特技を生かして仕事を分担しあい協力しあうことが出来たのも幸いでした。大学時代に合唱団のマネージャーとして鳴らした寺田さんはインスペクターとして率先して計画を進め、銀行員の小島さんは会計として健全財政?を守り譜書きの速い原さんはL ibrarian(司書)にまた地元に顔の広い松尾先生、中村さん、松本さんらはお役所との折衝を、各大学オーケストラや横響に顔のきく小島・樋園の諸氏はいわゆるトラ狩りに、という具合でした。印刷所や輸入楽譜屋にツケがきくという理由で私はその関係の仕事を分担することになりました。在庫の中で一番安い交響曲をというので、ベートーヴェンの1番ハ長調とシューベルトの「未完成」、それにシュトラウスのワルツものを最初に仕入れて来ました。もっともその払いは演奏会の券の売り上げ待ちということで、その悪習はその後もならい性となってしまったため、末だにその本屋のおぼえがめでたくないのは私として弱ったことです。

 このようにして、その年の暮までには発会、練習開始とまず好調にスタートした私たちも、その後、指揮者や練習場の問題、また管楽器や打楽器のメンバー不足などの難題には、土地柄まさに小田原評定を重ね、最初の演奏会の見込みもたたないままに練習の中だるみが続くこと一年近く経ち、ようやく34年の10月から小船先生を指揮者に迎え、また横響の主力メンバーの応援を得ることになって、はじめて第1回定演のための練習に本腰を入れることが出来るようになったのでした。「横浜・川崎・横須賀・藤沢に次いで県下で5番目の市民交響楽団が誕生」と写真入りで紹介してくれた当時の新聞の切抜きも、今とり出して見るとかなり赤茶けて、小田高上庭グランド南隅の当時の音楽室での小船先生を囲んで総熱30人ばかりの練習風景からは、 ちりめん模様のついた合奏の音と共にギシギシいう板張りの床の音や、窓の外のサッカーのかけ声が聞えて来るようです。12月6日の演奏会を前にして、いかに 安上りでその割には見ばえのするポスターやチラシ、券やプログラムを印刷するかで印刷所へ毎日のように通った苦労や、広告集めのいささか不愉快な思い、当日の朝から会場の本町小学校の講堂に椅子を並べ、ステージのための机を運びこみ、その上コントラバスやティンパニーを担ぎまわった後の腕の痛み、開演ギリギリになって、それ花束がない、記念写真を頼まなければと暗い通りへ走り出したあわただしさ、今ではどれも懐かしい思い出ばかりです。ステージの上で第1交響曲胃頭のあの属7の和音を弾いた時、思わず涙が溢れて、小船先生の顔がかすんで見えたとは、感激屋のヒーさんの述懐ですが、誇張ではなくそれは等しく私たちメンバー総ての感慨でもあったと思います。

 あれ程熱中していたヒーさんも私も、その後5、6年して小田原を離れ、それぞれの仕事に忙殺されるようになる
と、小田フィルともご無沙汰し勝ちになり、 もう創立10周年になるのかと今さら驚いている次第です。それにつけても、発会以来今日まで生みの苦しみから育ての苦労までずっとかわらず耐えて来られた松尾先生はじめ諸先輩の皆さん、また途中から力を添えて小田フィルを一層立派に養い続けて下さった多くの方々、本当にご苦労様でした。小田フィルの演奏するシンフォニーは、今第1楽章を終えていよいよ雄大な次の楽章へと進んで行くこ とでしょう。序奏を弾いただけでオッコチテしまった私も、いずれまたどこかにきっかけを見つけたなら入るつもりで、その折を楽しみにしております。




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