小田原フィルハーモニー交響楽団


小田原フィルハーモニー創立当時と私
コンサートマスター  高3期  横山健治

 現在、小田原市民会館が立っている場所の一角に以前カマボコ型の小さな緑の建物があった。アメリカの雑誌やその他いろいろな本を紹介するための図書館であったろうか、戦後まもなく建てられ、一般市民に無料で公開されていたように記憶している。私なども高校生の頃、時々試験勉強に利用させていただいたものである。
その図書館の館長の肝いりで、毎週日曜日の夜、そこで弦楽を中心としたオーケストラの練習をしていたことがある。小田原フィルハーモニーの創立の少し前であるから、今から十数年も前の話である。

 指導者は、昔、日響(現N響〉に在籍されたととがあるというバイオリニストの田島己之助氏で、館長と田島氏の息子さんが人集めをなさっていたそうである。私も松尾先生(現小田フィル会長)や小島君(現小田フィルコンサートマスター) 、江良君(現在、オハイオ大学留学中) 、樋園君(小田フィル初期の有力メンパーの1 人)といった人達と一緒に勧誘され、いつのまにかカマポコ図書館に通って練習に励むようになっていた。

 その頃の私は真鶴に住んでいたが、放浪癖があった。仕事を持っていなかったからではあるが、その少し前から東海道を旧道に沿って東京から歩きはじめていた。毎日は出来なかったので、数日ずつに分割し、今回は保土ヶ谷から藤沢まで、次回は藤沢から平塚までといったようにして、箱根八里の難所も、夏の暑い日に真黒になりながら、薮の中で石畳の道を探し、丸二日もかかってようやく越えるという状態であった。

 丁度,オーケストラに参加した時には、吉原、富士のあたりまで歩を進めていた。自動車の騒音と排気ガスに悩ま
されなければ、京都まで行きついていた筈である。とにかく朝ぶらりと家を出て、夜どこかの駅のベンチで寝るとい
ったような日が少なくなかった。

 小田原にあっては、小島君ともう1 人の友人のF 君と3人で、真夜中までまだ出来あがっていなかった小田原城の天主閣の石垣の上で、長時間にわたってヴァイオリンの合奏をして、その近くで休んでいたアベックの耳を襲い、又は
変な女性の出没するイカガワシキ所をねずみの如くうろつきまわり、酒匂川の土手の近くの田園の中で、いつ果てる
こともないくだらない話に花を咲かせ、又、樋園君と宮小路の飲み屋に入り浸っていた。帰りに城跡公園の中を通っている時に、警官に痴漢と間違えられ、尋問され、さんざん油をしぼられたこともある。
 そんな調子であったから、オーケストラに参加していた一部の人たちの問で、私はひとりよがりの、礼儀知らずの
生意気な奴と思われていた。

 カマポコ図書館で何回か練習しているうち、私たちのグループと、その人たちのグループの問の溝は深まって行く
ようであった。表面上は、小田原でともかくシンフォニーをやろうという松尾先生を中心とした若手のグループと、
比較的やさしい曲をたんねんに練習して発表しようという一部の人たちとの音楽上の意見の相違であるが、私としては感情的な問題の方が大きかったように思えた。所詮、 この二つのグループは、初めから結びつく方がおかしかったのかも知れない。
 こんなむずかしい問題が出てきたのではと、館長さんがさっと手を引いてしまったので、財政的な基盤もないし、
頼れる精神的な支柱を持たなかったこのオーケストラは、たちまち解散ということになって、私たちは涙をのんだの
である。

 小田原のような小さな市で、オーケストラの分裂騒ぎを起していたのでは、私たちの望む交響楽運動は無理ではないか、そう見きりをつけた私は、東京のグループで演奏活動を続け、又、演奏旅行などしたりしていた。

 その後、その人たちのグループは小田原弦楽団を創立し、何回か演奏会を持ったようであるが、最近はあまり演奏会の話は聞かない。さびしいかぎりである。さて、今から丁度十年前、江良君と樋園君が突然私の家へやって来て、「実は今度、小田原フィルハーモニー交響楽団なるものを作ったから、ぜひ参加してほしい。指揮者には小船幸次郎氏を招くことに内定している。」 とのことでよく聞いてみると、いいかげんなものではないらしいので別に断る理由もなかったので参加を申し入れたのである。

 私が全然知らない聞に、分裂騒ぎで頭にきた人たちが積極的にメンバーを集め、指揮者を招く交渉をして準備をしていたらしい。この時から私と小田原フィルハーモニーとの関係が始まるのであるが、以後、十年間、ずるずるとこのオーケストラに引きずられ、やめたくてもやめられない、正にくされ縁の関係になってしまったのである。

 第1回の演奏会の苦労は、到底筆では書きつくせないが、しかし成功裡に終了し、私たちは疲れきっていたが、小田原にシンフォニーオーケストラが誕生したという喜びでいっぱいであったのである。
 今年は、あの時からかぞえて十年目であるという。最近私は小田原フィルの練習場へ行くと、伺か空しいような、
さびしいような気持になる時がある。あの時、二十代であった私たちは三十代になって、頭の毛も大分薄くなってきた。しかしそんなことではない。創立以来十年もたつのに、まだオーケストラの基礎が固まっていないからである。まだまだメンパーが足りないし、財政状態もよくない。創立当初のあのすさまじいファイトも失われてしまった。いろいろ考えると嫌になってくることばかりである。

 しかし、最近、若い人たちの中に 優秀な人がでてきた。パイオリンの中村、相木両君、フルートの武田君、チェロ
の高橋君、オーボエの米山君等である。私は明日の小田原フィルを背負ってくれるであろうこの人たちに期待を持っ
て、相変らず、十年前と同じように 、日曜日の夜には小田原フィルの練習場に出かけて行くのである。まさにくされ
縁の故である。




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