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物言いに物言い

3組 佐々木 洋  2014.06.10



“髷つかみ”の物言いに物言い

 今年の大相撲夏場所は何かと「髷(まげ)」が話題になりましたね。まず、4日目(5/14)に、ようやく髷が結えるようになった(つまり、髷が結えるようになる前に前頭4枚目までスピード出世してきた)遠藤がモンゴル人の新横綱の鶴竜を寄り倒しで破って初金星を挙げました。すると今度は、その鶴竜が12日目(5/22)の関脇豪栄道戦で叩かれて転がって完敗したように見えたのですが、土俵下に勝ち残りで控えていたモンゴル人横綱・白鵬から「髷がつかまれていた」という物言いがついて、横綱として史上初の反則勝ちを記録するという珍事が発生。更にその直後の14日目(5/24)に、これもモンゴル人横綱日馬富士が、大関稀勢の里との2敗同士対決の一番で髷をつかんだと物言いがついて反則負けを喫する有様。“髷つかみ”に、物言いをつけたり、その反則で勝ったり負けたりと、モンゴル出身の3横綱が“髷つかみ”に絡み合う珍現象が起こりました。

 “髷つかみ”が反則とされている以上、物言いが付くのは当然ですが、「でもなあ、日馬富士にしても、豪栄道にしても一方的に勝負が付いた後の“髷つかみ”だったのになあ」と思うと複雑な思いがします。現に、日馬富士は、“髷つかみ”なしでも完勝していたはずの一番で“髷をつかんだ”ことについて、「指が(髷に)“入っちゃって”抜けなかったんだもんなあ」と呟いていたそうじゃありませんか。“入れる”は他動詞で故意の行為を示しますが“入る”は自動詞で、「反則」に当たるなどと“毛頭”意識することなく、偶然“入ってしまう”という残念な結果になる場合も含まれるのですよ。今回の2例も「髷をつかむ」という他動詞表現より「髷が触れる」という自動詞表現の方が実態に近いと思います。にもかかわらず、法律にも情状酌量というのがあるのに、“髷つかみ”の掟が画一的に一律適用されるというのは如何なものでしょうか。いっそ、掟をマゲて「“故意に”髷をつかむことによって“勝負を決する”ことは反則とする」と変えたらどうなんでしょうか。もし、現在のルールが変わらないのなら、夏場所を実質的には12勝3敗で終わった稀勢の里も、偶然指が入りやすくなるように髷をもっとデカクして反則勝ちの数を増やして待望の日本人横綱を目指せばいいんですよ。ま、遠藤の方は、髷をデカクすることがまだできないのですし、北の海理事長が指摘している通り「相撲力」もまだまだなんですから、横綱はまだまだ縁遠い(エンドウい)と、セッカチ日本人横綱待望論者も大目に見ていてくださいな。


“ハンド”の物言いに物言い

 “髷つかみ”とほぼ時を同じくして “ハンド”事件が起こりました。女子サッカーの「なでしこジャパン」は、AFC女子アジアカップの準決勝(5/22)で、過去8回の優勝を誇る中国と対戦し、澤穂希さんの見事なヘディングシュートで日本が先制し、このまま勝利かと思っていたところ、後半35分に中島依美ちゃんがハンドの“物言い”を付けられて、中国にペナルティー・キックを許し1-1に追いつかれてしまったのでした。ペナルティー・エリア内のハンドですから、“物言い”が付くのは当然ですが、本来、おそらく8-9割の確率でゴールが決まるペナルティー・キックは、ゴール寸前のボールをディフェンダーが故意にハンドで阻止するような場合にのみ与えられてしかるべきものではないでしょうか。 中島依美ちゃんのハンドの場合は、ゴールと程遠いペナルティー・エリアの端っこで、しかも偶然ボールが触ってしまったのですから、あのハンドがなかった場合、中国がゴールできたかどうか極めて疑問です。おそらく“髷つかみ”で反則負けにされた日馬富士や豪栄道が見ていたとしたら、「あんな“髷つかみ”なんかなくても、勝っていたのになあ」と思うのと全く同じように、「あんなハンドなんかなくても日本はゴールを許さずに済んだだろうに」と思ったに違いありません。なでしこジャパンの場合は、その後、延長戦へ突入してから、岩清水梓さんのゴールで中国を破ったから良いようなものの、この間「私のハンドのせいで苦戦を強いられている」と胸を痛めていた中島依美ちゃんの気持ちを思うと不憫でなりません。サッカーもルールを「“故意に”ハンドなどのファウルを侵すことによって“極めて可能性の高いゴールを阻止する場合は”重大な反則とみなして相手方にペナルティー・キックを与える」とするか、どうしても「ペナルティー・エリア内」にこだわるのなら、ゴールの可能性の高さに見合ったキッカー/キーパー間の距離を設定してペナルティー・キックさせるようにしたらどうでしょうか。今回の中国のペナルティー・キックなんか、通常の距離の3倍以上の距離にしてもおかしくないと思いますよ。それとも、ルールが現状通りなら、敵陣のペナルティー・エリアに入って攻めあぐんでいる時には、わざと相手方ディフェンダーの“手”にぶつけてペナルティー・キックを得るよう仕向けるという“手”もあるんじゃないでしょうかね。なでしこジャパンも中島依美ちゃんの受けた“手”痛い仕打ちの倍返しをしてやってくださいよ。

“自動車運転物言い”に対するウップン

 ところで、どうして私がこのように画一的な物言いに対してムカッ腹を立てているのかというと、昨年私自身が自動車運転のスピード違反で物言いを付けられてアワレナ目に遭わされたことを根に持っているからです。それは、橘ICから西湘バイパスに乗って平塚に向かう時でした。いきなり、追い越し車線に出たのですが、“走行車線がいつになく混んでいた”ので、走行車線に入れるスペースを求めて“ほんのわずかな間だけ”少々先を急いでいた時にスピード違反が計測されたのだと後になって分かりました。後ろから、赤いルーフ・ランプを点滅させて走ってくる黒塗りの車を見て、緊急車両だと思って道をあけようにも、なおも走行車線に入ることができず、かと言って、7okm制限の西湘バイパスでそれ以上スピードを上げることもできないので困っていたのですが、実はその黒塗りの車が違反者の私を追跡してきた覆面パトカーだったのです。

 “ほんのわずかな間だけ”とはいえ実際に制限速度を超えていたのですから“物言い”が付けられるのは当然です。しかし、私はその間に決して危険運転をしていないということを天地神明に誓って言うことができます。思えば、この時に限って“走行車線がいつになく混んでいた”のも、ネズミ取りが行われていることを悟ったわけ知りのドライバーたちが“いつになく”制限速度内で走っていたために、ネズミ取りの裏事情を知らない私が、結果的にまんまと罠にかかる形になって、年金生活に響く罰金18,000円なりとゴールド免許剥奪という罰を受ける羽目になってしまったという可能性が大ありです。実際に、西湘バイパスを100キロ超のスピードで走っている車はざらに見かけることですし、現に、私の取り調べを終えて覆面パトカーが立ち去るやいなや、“普通どおり” 100キロ超のスピードで走る車が、再びネズミ取りされて免停になるのを恐れ制限速度70km内でノロノロ走る私を次々に追い越して行きました。制限速度70km超のスピード違反に対して“画一的な物言い”さえできていない一方で、車間距離を詰めて高速運転している“危険なネズミ”は野放図になっている状態です。

 そもそも、“危険運転”を取り締まるのが、国民の命と財産を守る警察のなすべき仕事なのではないでしょうか。こんな私のような“捕まえやすい安全運転ネズミ”だけとらえていても道路上の安全は保てるはずがありません。せめて、スピード違反を画一的に取り締まるなら、公平にやってほしいものだと思います。2007年に水口幸治、中澤秀夫、山本哲照との“小田高同期渡り烏カルテット”で「ヨーロッパ三感トリップ」をした際に(http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/EuropeTrip.htm)、フランスの道路をドライブした時には、スピード違反を写真判定され、罰金の請求者が郵便で送られてきたものでした。日本でも、道路上の安全確保に寄与しない警察官の雇用やそのための無駄な覆面パトカーの配備のような国費の無駄遣いは止めて、欧州流の画像伝送システムと郵送請求システムを整えて、スピード違反の罰金を公平に徴収するようにすれば、警察が” ガッポリ儲かる”ようになると思いますよ。それとも、罰金徴収の作業が忙しくなりすぎて、「やはり、西湘バイパスの一律70km速度制限は行き過ぎ」と気が付いて、「速度制限100km区域の設定」などという動きにつながってくるかも。

届かぬ市民からの物言い

 西湘バイパス上で、老ネズミ市民の「危険性なきスピード違反」に“物言い”を付けた2警察官には、少しも国民の安全に寄与したところがないにもかかわらず、それぞれの“業務実績”として「速度違反運転検挙件数1件」がカウントされていることでしょう。一方、日本では、市民からの“物言い”が警察に届きにくくなっているということに注意する必要があります。市民が困った問題に対して “物言い” を持ち込み、一種の駆け込み寺の機能をはたしていた交番も大半は警察官不在の空き交番になってしまっています。市民生活に溶け込んでいるところがPolice Boxと違うということから”Koban”がそのまま英単語になっていたのですが、いまや交番は「かつて日本の市民とともにありしもの」になってしまっているのです。

 更に、私たちが子供の頃には「そんなことをしたら“おまわりさん”に言い付けてやる」などという言葉が普通に交わされていたことが示しているように、市民の“物言い”が正義の味方である巡査に持ち込まれる仕組みになっていたのですが、巡査が「巡(見回り歩く)」ことをやめ、“おまわりさん”の姿が市民の生活の情景の中に見えなくなってしまっています。市民に頼られ親しまれていた“おまわりさん”や、これも死語となってしまっている“駐在さん”は、日々の“業務実績”は乏しいものの、その存在が大きな犯罪抑止力を発揮して国民の生命と安全に寄与していたものと考えられます。なぜ“おまわりさん”がいなくなってしまったのかというと、これは決して警察官の絶対数が減ったためではないようです。

 少々旧聞に属しますが、次女が自宅近くの路上でヒッタクリ事件に遭ったことがあります。急いで自宅に帰って110番通報するも20分間ほどは電話がつながらず、ようやく警察官がやってきたのはヒッタクリ事件発生後かれこれ40-50分後のことでした。しかも、訪れてきた警察官一同の数は7-8名で、たかがヒッタクリ事件にしては勿体ないほどの“警察官大動員”でしたので驚くとともに「この人たち警察署内で何してたんだろう」と訝ってしまいました。このように、犯罪に対する抑制力も検挙力も発揮することなく警察署内でたむろしていた警察官の一人一人には「事故発生事情聴取件数1件」が“業務実績”としてカウントされたのでしょうが、こんなことではヒッタクリ犯人逮捕という本来期待されている“業務実績”など挙がるわけがありません。案の定、大勢で念入りに事情聴取したにもかかわらず、以降警察側からの連絡は一切なく梨の礫になってしまいました。

 近年「予め警察に連絡しておいたのに」犯されてしまった殺人事件の類が増えてきているようです。すべてがそうだと言うつもりはありませんが、「警察の市民離れによる犯罪抑止力と検挙力弱体化」によるところが存外大きいのではないでしょうか。「集団的自衛権」などといっていますが、国民の生命を「自衛」することさえできていないのですから、自衛隊の時代遅れの“軍事”訓練の武器や弾薬のために巨額の国費を空費することをやめて“警察”力強化の方に振り向けるべきではないでしょうか。古ぼけた警察無線を更新して警官一人一人が随時自在に情報をやり取りできるようにしたり、“おまわりさん”に定番の自転車をバイクに代えて機動力を高めたりすることによって、警察官を再び市街に送りだして市民生活の中に溶け込ませるようにしたら、かつての「安全な国・日本」に戻れるのではないかと思います。自衛隊員にしても、本来の存在意義は「国民の生命と財産の安全確保」にあるはずですから、“軍事”演習は必要最小限にしておいて、天然災害時ばかりでなく、市街パトロールなどの“警察”活動に加わる必要があります。尖閣湾についても、“警察”の機能を果たしている海上保安庁に、海上自衛隊から装備を移譲すれば事足りる話です。「正当防衛」と「緊急避難」の目的に限定していたら、たとえ武力を行使したとしても、“軍事”紛争に拡大することはありません。安倍晋三首相は、かつて「尖閣諸島に自衛隊を常駐させる」構想を口にしていましたが、どう見ても“軍隊”にしか見えないものを“警察”に代えて配備したら、それこそ宣戦布告するようなことになります。これも「届かぬ市民からの物言い」でしょうが、中国側で事に当たっているのも軍隊ではなくて「中国海警」だということをくれぐれもお忘れなきように。

“国際”に届けよう日本からの物言い

 国際司法裁判所が、日本が南極圏でしてきた調査捕鯨に物言いを付けました。私は、国際司法裁判所が存在していることは知っていたのですが「形としてあるだけで少しも機能していない」と思い込んでいましたので、「鯨と国際司法」の奇抜な取り合わせの報道に接して「へえっ、国際司法裁判所も活動していたんだ」と驚くとともに、「よりによってこんな問題で、“鯨・イルカ大好き諸民族”の尻馬に乗る形で、多勢に無勢の日本に物言いを付けることないじゃん」と反発を感じました。鯨の命を守ることも必要ですが、人類同士が命を奪いあっている民族間紛争の方にこそ国際司法の目を重点的に向けるべきではないかと思ったからです。特に、日本は国際司法裁判所から物言いを付けられるだけではなくて、当面している国際問題について、国際連合を通じて国際司法裁判所に対して物言いの“倍返し”をする必要があるのではないかと強く思いました。

 国の領土や領域などの国境の線引きは、長い歴史の過程を通じて力関係によって決まってきたものですから、ヤクザの縄張りと事情が変わるものではありません。それぞれに「我こそ正当」とする言い分があるのですから、誰か第三者が仲立ちして“手打ち”に導くことがなければ、敵対するヤクザ同士がお互いに「オトシマエを付けてまえ」と勢い込んで武力抗争に立ち立ってしまうのが必定ということになります。安倍晋三首相は事あるごとに「“国際法”に則って」という言葉を吐いていますが、この“国際法”なるものの実態が何であって、どのような範囲に効力があるのかご存知の上での発言なのかどうか。排他的経済水域制度などを定めた「海洋法に関する国際連合条約」(略称「国連海洋法条約」)も、『今後の解釈・適用をめぐる国家実行の集積を通じて実質的に確定されるという、一種の力学性(dynamism)をもつ部分』を多く含んでいるので、『現代海洋法秩序は依然として未完成である。あるいは発展途上といってもよい。』のだそうではありませんか。そんな『国連海洋法条約がもつ曖昧さによって、中国には海洋権益をさらに拡大する余地があるため』、『動態的に展開する現代海洋法秩序に敏感に反応し、中国は権益追求の姿勢を貫いてきた。』のだそうです(以上の『引用』は、同志社大学助教・毛利亜樹氏著「現代海洋法秩序の展開と中国」を原典とするものです)。

 過去の歴史をひもといてみても、どこかの国が「我こそは不義なり」と名乗ってうって出てきたためしはありません。日本は日本の、中国は中国の、「正義」をそれぞれかざして対峙しているのが尖閣列島の場ということになります。アメリカは、国連海洋法条約については日本と同じ考え方なんですから、オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安全保障条約の適用対象」と言うのは至極当然で、こんなことで「アメリカから言質も取った」などと喜んでいるのは愚の骨頂です。やはり日本は、「世界の警察」と言われながら、誤った武力行使を繰り返してきた結果、求心力が衰えてきたアメリカの意をうかがいながら動くのをいい加減にして、国際連合や国際司法裁判所が真の機能を発揮するよう、飽くなく物言いを続けていくしかありません。そうすることが、有数な国連国分担金負担国である日本の権利でもあり、平和憲法によって世界に戦争放棄を宣言した日本の義務でもあると思っています。安倍首相の靖国神社参拝について、アメリカは日本に「物言い」を付けてきたではありませんか。日本からも、アメリカに非があったら日本からも「物言い」を付けてあげなくちゃ。忌憚なく「物言い」をつけあえることが「清く正しく美しい同盟関係」の基礎だと思いますよ。

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