音楽と情景 -4-   ロシアの作曲家 -その2-
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2016.01.21 4組 吉田明夫
ルビンシュテインと5人組
 ロシアの作曲家は非常に多い。やはり西欧に隣接しているからだろう。前回のグリンカと同じ「国民楽派」といわれる民族主義的な作曲家を今回は取り上げてみた。作曲家の他に軍人、医学者、化学者を兼ねている人が多い。チャイコフスキーと同時代で在るが、西欧風なチャイコフスキーと異なり、どちらかというとスラブ的な色が濃い。

アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン(1829〜1894)

 ロシアを含むヨーロッパやアメリカで精力的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博してロシア・ピアノ流派の祖となった。また、1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設し、1859年にはロシア音楽協会を創設した。それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動に交響曲や管弦楽、室内楽曲などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。チャイコフスキーの師であり親友でもあった。また、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が出来上がった時にケチを付けたという言い伝えもある。

                 ルビンシテインの楽曲の一覧


② アレクサンドル・ボロディン(1833〜1887)

 サンクトペテルブルクにて、グルジアの大貴族のルカ・ゲデヴァニシヴィリの非嫡出子として生まれる。ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人の名を使った。しかしながらボロディンは、ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻した。転じて、サンクトペテルブルク大学の医学部に入る。最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張した。この頃、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。ピサ大学では臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見した。26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はサンクトペテルブルク大学医学部生化学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。 作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。以上、Wikipediaより

主な作品

⓵ 交響曲は1番と2番の2曲、3番は未完成
⓶ 歌劇「イーゴリ公」
⓷ 交響詩「中央アジアの草原にて」
⓸ 弦楽四重奏曲1番、2番(夜想曲で有名)

               ボロディンの楽曲の一覧

① 交響曲第2番

弦楽四重奏曲2番より第1楽章の一部

オペラ「イーゴリ公」より「韃靼人の踊り」

 交響曲第2番も韃靼人の踊りもモンゴルから1300年代にロシア西部へ移動した韃靼人(タタール人)の生活や闘争が連想させられる。連想といっても具体的事実とは無縁のもので、映画や本・絵画から想像される情景である。
 弦楽四重奏2番は、ロシアのどこかの湖や河面のさざ波とそこへ写る木々の囁きが聞こえて来る逸品である。



③ チェーザリ・アントーノヴィチ・キュイ(1835〜1918)

 ロシアの作曲家、音楽評論家・軍人で、母はリトアニア人、父がフランス人の混血である。五人組の中ではもっとも目立たないが、10曲のオペラを残したほか、ピアノ曲『25の前奏曲』など素朴な作品もある。
 1857年に軍役に就く。数十年にわたって数多くの門弟を育成し、その中にはニコライ2世のように、皇族ロマノフ家の一員も含まれていた。堡塁建築の専門家として、ペテルブルクの3つの陸軍士官学校で教壇に立ち、1880年に教授の、1906年には将官の肩書きを得た。キュイの堡塁建築の研究は、露土戦争(1877〜1878年)の最前線の任務に就いた成果であり、キュイの活動の中で最も重要なものであった。

露土戦争(ろとせんそう)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ。  キュイの楽曲一覧



④ ミリイ・アレクセエヴィッチ・バラキレフ(1837〜1910)

 18歳でサンクトペテルブルグに上京、大学で数学を専攻した後、ミハイル・グリンカの面識を得る。バラキレフを中心にチェザーリ・キュイらが集まって、1862年に無料音楽学校が設立される。1869年にバラキレフは、帝室宮廷礼拝堂の監督と、帝国音楽協会の指揮者に任命される。指導者やロシア音楽のまとめ役としての発言力から、新たな運動の発起人という役割を得た。「五人組」ばかりでなく、チャイコフスキーもいくつかの標題音楽や《マンフレッド交響曲》の作曲に、バラキレフの助言や批評を仰いでいる。

               バラキレフの楽曲一覧

 交響曲第2番より第4楽章

 冒頭の金管のファンファーレはチャイコフスキー的だ
。というよりチャイコフスキーがバラキレフに影響を受けたのだろう。やはりどこかの部族の踊りも紛れこんでいるように聞こえる。ポロネーズやマズルカに似て。



⑤ モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー(1839〜1881)

 「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされる。
 尚、「展覧会の絵」はラベルが管弦楽用に編曲したものも有名である。

               ムソルグスキーの楽曲の一覧


 Russian Easter Festival Overtureロシアの復活祭



⑥ ニコライ・リムスキー・コルサコフ(1844〜1908

 ノヴゴロド近隣のティフヴィンで、軍人貴族の家庭に生まれる。幼児期より楽才を顕すが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学し、ロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験した。1859年からピアノを始め、1861年にバラキレフと出会って、ようやく真剣に作曲に打ち込むようになる。バラキレフは、リムスキー=コルサコフが航海演習のない時に作曲の指導をして、励ましてくれた。バラキレフとの出会いによって、後の「五人組」の同人となる他の作曲家とも面識を得た。ペルシャの王妃シェヘラザードが王様に聴かせるお伽噺の交響組曲「シェヘラザード」がポピュラーである。

            リムスキー・コルサコフの楽曲の一覧

 熊ん蜂の飛行の一部  サルタン王の3つ不思議な話

 サルタン(スルターン)は王を意味するので、上記題名の「王」は不要の筈である。王に仕える兵士達の可愛い行進曲に聞こえる。お伽の国の音楽ですね。現在では。サルタンは使わず、スルターンと言われる。


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