音楽と情景 -5-   ロシアの作曲家 -最終回-
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 スクリャービンの項にサンプル楽曲を追加掲載しました
2016.03.02 4組 吉田明夫
今回でロシアは最後です。次回からは国別を止め、作曲家を主にしようと考えています。
各作曲家の略歴などはウィキペディアを参照しています。また、掲載音源は軽容量に加工してあるため音質が劣化していることをご承知ください。掲載楽曲♫〜♫を再生するにはQuickTime Playerが必要です。

① アナトーリィ・コンスタンティノーヴィチ・リャードフ(1855~1914)

 サンクトペテルブルクにおいて音楽家の一家に生まれる。マリインスキー劇場の初代首席指揮者を務めた父コンスタンティン・リャードフから、1860年から1868年まで非公式に音楽教育を受けたあと、1870年からペテルブルク音楽院でピアノとヴァイオリンを学んだ。やがて器楽演奏の学習を断念して、対位法とフーガの研究に熱中するが、それでもなおピアノの腕前は達者だった。リャードフの生まれついての楽才は、とりわけムソルグスキーから高い評価を受け、リャードフは「ロシア五人組」と関係するようになった。リムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置いたが、常習的欠席を理由に、1876年に除籍された。1878年には、卒業制作を完成させるべく、このクラスを再履修している。「ウイキペディアより」


  バーバ・ヤーガは、スラヴ民話に登場する妖婆。各種の民話で語られるほか、芸術分野ではムソルグスキー作曲の組曲『展覧会の絵』の1曲「バーバ・ヤーガの小屋」で知られる。


 右は「バーバ・ヤーガ」の画像




② セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(1856~1915)

 ヴラディーミル出身。5歳からピアノを習い始める。9歳の時、一家でモスクワに移住し、モスクワ音楽院でピアノをランケルとニコライ・ルビンシテインに、作曲をピョートル・チャイコフスキーに学び、1875年に金メダルを得て卒業。卒業後はピアニスト、作曲家として活躍。レオポルト・アウアーとデュオを組んで演奏旅行を行う。1875年11月には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のモスクワ初演でピアノを担当。1882年5月22日には同じくピアノ協奏曲第2番の世界初演を担当している。

1878年、モスクワ音楽院の和声および楽器法の教授となり、1881年には亡くなったニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も受け持った。そして1885年からは4年間院長も勤めた。彼の弟子にはアレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・グラズノフ、セルゲイ・プロコフィエフ、ニコライ・メトネルなどがいる。

対位法の理論家としても知られ、著書には「可動的厳格対位法」、「カノンの研究」、ブレッスラーの「厳格対位法と楽式論」の翻訳などがある。また、チャイコフスキーのいくつかの未完作品(『アンダンテとフィナーレ』など)を補筆している。

タネーエフ楽曲

 
 この交響曲第4番は、タネーエフが前作の3交響曲をさておき、この4番を「私の第1交響曲」と呼んだほどの最高傑作である。構成はベートーベンの第5交響曲に似て、第1楽章の冒頭部分は悲壮感に溢れた運命の動機が奏され、最終楽章では喜びが表現されて集結する。



③ セルゲイ・ミハイロヴィチ・リャプノフ(1859~1924

 8歳のときに天文学者の父ミハイル・リャプノフ(ロシア語版)がヤロスラーヴリで死去、母親に連れられ二人の兄弟とともにニジニ・ノヴゴロドに移り住む。同地に新設されたロシア音楽協会支部の公開講座に学び、ニコライ・ルビンシテインの推薦により、1878年にモスクワ音楽院に進学。フランツ・リストの門弟カール・クリントヴォルトにピアノを、セルゲイ・タネーエフに作曲を師事。

リャプノフ楽曲 中央がリャプノフ
♫交響曲第2番より第2楽章の冒頭部分(約1′10″)♫  
♫交響詩《ジェラゾーヴァ・ヴォーラ》 Zhelazova Volaの冒頭と最後の一部分(約2′57″)♫
 ジェラゾーヴァ・ヴォーラは「ショパン生誕100周年祭のために作曲。ショパンの「マズルカ・イ短調作品17-4」や「子守唄 作品57」からの引用あり。



④ ミハイル・ミハイロヴィチ・イッポリトフ=イヴァノフ(1859~1935

 ペテルブルク郊外のガッチナで生まれた。ペテルブルク音楽院でリムスキー=コルサコフに師事。卒業後はグルジアの首都チフリスに移り、新設された音楽学校の校長をつとめた。1893年からはピョートル・チャイコフスキーの推薦によりモスクワ音楽院で教鞭を執り、1905年から1922年まで院長を務めた。また1925年からはボリショイ劇場の指揮者としても活動した。主要な門人にセルゲイ・ワシレンコとレインゴリト・グリエールがいる。モスクワにて没。

イッポリトフ・イヴァノフの楽曲  
♫管弦楽組曲第1番『コーカサスの風景』より抜粋♫(9′10″)  
 ❶渓谷にて(2′11″)❷村にて(1′55″) ❸酋長の行列(2′40″) ❹グルジア行進曲(2′24″)
 コーカサス(カフカス)は黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の中のグルジア(今はジョージア)、アルメニアやアゼルバイジャン。楽曲はトルコに近いからかトルコ風な雰囲気もある。イッポリトフ・イヴァーノフはグルジアに長く住んでいたので、コーカサス地方の民謡やモンゴルから移動したタタール系のリズムやメロディーが強く感じられる。



⑤ アントーン・ステパーノヴィチ・アレンスキー(1861~1906)

 富裕層に生まれたために、恵まれた家庭環境の下、幼児期から音楽に取り組むことができた。1879年から作曲をリムスキー・コルサコフに師事し、また対位法とフーガをペテルブルク音楽院で学ぶようになる。1882年に著しく優秀な成績で音楽院を卒業すると、翌1883年にはモスクワ音楽院で作曲法の講師に招請され、1889年には教授に昇進する。在任中にラフマニノフやグレチャニノフなど多くの逸材を輩出しており、後に対立関係に陥ったものの、スクリャービンもアレンスキーに師事していた。

1880年代半ばに、(とりわけ結婚生活の不運が祟って)深刻な精神病を患う。1895年に教職をなげうってサンクトペテルブルク宮廷礼拝堂の楽長に就任し、1901年までピアニスト、指揮者としても幅広く活躍した。その後は豊かな年金を与えられ、公職に就かずに過ごした。最期は結核に命を奪われたが、晩年は飲酒や放蕩(博奕)が暗い影を落としていた。サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されている。

アレンスキーの楽曲  



⑥ アレクサーンドル・コンスタンティーノヴィチ・グラズノフ
  (1865~1936

 サンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家庭に生まれる(グラズノフの父親は、プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』の版元であった)[3]。9歳でピアノの、13歳で作曲の学習を開始。ロシア五人組の かつての指導者バラキレフは、グラズノフ青年の才能を認め、その作品をリムスキー・コルサコフに注目させた。「バラキレフは、14歳か15歳の高校生の作 品を、何気なく私のところに持ってきた。それがサーシャ・グラズノフの曲だった。あどけない手法で作曲された管弦楽曲だった。青年の才能は疑いようもなく 明らかであった」とリムスキー=コルサコフは回想している[4]。バラキレフは、その後まもなく1879年12月に、グラズノフ青年をリムスキー=コルサコフに紹介した。

リムスキー=コルサコフは、自分はグラズノフの個人教師であると考えていた[5]。「彼の音楽的な成長は、日ごとにではなく、文字通り時間ごとに進んだ」とリムスキー=コルサコフは記している。二人の関係も変化した。1881年の春までに、リムスキー=コルサコフはグラズノフを門弟としてでなく、年少の同僚と看做すようになった[6]。このような発展は、リムスキー=コルサコフの側で、同年春に他界したムソルグスキーの精神的な代わりを見つけなければならないという念願から起こったのかもしれないが、同時に、グラズノフの最初の交響曲の進展を見守っていて起きたのかもしれない。リムスキー=コルサコフはグラズノフの《交響曲 第1番「スラブ風」》の初演を指揮した。グラズノフが16歳のときである。なかんずくボロディンとウラディーミル・スターソフが作品と作曲者を激賞した。

グラズノフの楽曲  
♫バレーの情景の一部♫(56″)  
♫ヴァイオリン協奏曲イ短調第1楽章の冒頭♫(1′14″)  
 3楽章からなる協奏曲だが、連続して奏されるので、単楽章のように聞こえる。ベートーベン・チャイコフスキー・メンデルスゾーンの協奏曲と並んで有名な曲だが、ロマンティックな雰囲気は抜群である。



⑦ アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(1872~1915)

 モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。幼児期からピアノを始める。自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに、作曲科でアレンスキーに師事する。同級生にラフマニノフが いた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単 位を取得した。このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。ピアノ卒業試験においては、ラフマニノフが 1位、スクリャービンが2位であった。

スクリャービンの楽曲  
♫交響曲第1番第1楽章より冒頭部分と最終部分♫
この第1番は6楽章から成り、2人の独唱者と混声合唱が終楽章に導入された合唱交響曲である。



⑧ セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873~1943)

 1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[註 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[註 3]が受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしい。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、多感な子供時代を過ごした。

4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

ラフマニノフの楽曲  

♫シンフォニック・ダンスより「1番冒頭(1′14″)、2番冒頭(1′00″)、3番最終部分」(1′13″)♫

♫ピアノ協奏曲第2番第1楽章の冒頭(1′09″)、第3楽章の最終部分(1′09″)♫
♫死の島(1′24″)♫
 ピアノ協奏曲第2番であるが、直接第二次世界大戦とは関係ないが、アディンシルの「ワルソー・コンツェルト」を連想させるようなナチス支配下のワルシャワの情景を浮かばせるような名作である。また、「死の島」はスイスの画家アルノルト・ベックリンの同名の油彩画に基づく標題音楽である。海の上を黒装束をまとって小舟を漕いで行く先は墓場とされる死の島である。この小舟の進む雰囲気を見事に出している曲の冒頭を載せてみた。



⑨ イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882~1971)

 1882年6月17日、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生れた。ウクライナ系またはポーランド系ロシア人の父フョードルはペテルブルク・マリインスキー劇場のバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていた。

イーゴリは法律を学ぶために現在のサンクトペテルブルク大学に入学した。しかし在学中に作曲家となる意思を固め、1902年から1908年まで、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、仲介してもらったという。1906年には、 従妹エカチェリーナ・ノセンコと結婚。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かる。作曲家のスリマは末子。

1908年に、自作曲『幻想的スケルツォ』と『花火』が初演される。ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフに認められる。『花火』はもともと師リムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いたものであった。

1910年には、ディアギレフの依頼でロシア・バレエ団のための第1作『火の鳥』を創作し、パリのオペラ座で初演、大成功を収める。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が委嘱され、これも成功を収める。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演される。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。同時期、デザイナーのココ・シャネルと不倫関係になったとされ、2009年の映画『シャネル&ストラヴィンスキー』は『春の祭典』初演後から再演前までにおける両者の不倫を題材にしている。
 1950年頃より、これまで否定的だった十二音技法を採用して新たな創作の可能性を開く。『七重奏曲』、『エレミアの哀歌による「トレニ」』、『バリトンと室内オーケストラのためのバラード「アブラハムとイサク」』、『J.F.ケネディへの哀歌』などを作曲。

1959年、来日し、日比谷公会堂、フェスティバルホールで演奏会を行う。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。

1962年、ソ連を訪問する。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。

1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没する。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬された。

ストラヴィンスキーの楽曲  
♫バレエ音楽「火の鳥」より「地獄の踊り」の1部(41″)♫
 この「地獄の踊り」もエキゾティックでありドラマティックである。我が国の喜劇ドラマでもよく使われる。喜劇では題名と一致せずおどけた表現をたくみに出せる。



⑩ セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891~1953)

 現在のウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人。帝政期のロシアに生を受け、サンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。

ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。彼の作品の中には下記のサンプルの他、「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」、「ピーターと狼」その他交響曲等膨大な曲数がある。

プロコフィエフの楽曲  
♫キージェ中尉より「キージェの誕生」の1部(2′45″)と「トロイカ」の1部(2′40″)♫
♫古典交響曲より1楽章の1部(38″32)、3楽章の1部(40″52)、4楽章の1部(1′00″)♫
 「キージェ中尉」は同名の映画の為に作られた曲である。ロシアの作家ユーリイ・トゥイニャーノフの同名小説(元はキージェ少尉)を風刺的・喜劇的に映画化したものである。現在、映画は紛失したようだ。
 「古典交響曲」は実際には第1番であるが、作風が古い型式であるため敢えて「古典」とした。



⑪ アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903~1978)

 トビリシに生まれたアルメニア人で、甥に作曲家カレン・ハチャトゥリアンがいる。モスクワで音楽を学んだ。レーニン賞など多数の賞を受け、高い評価を受ける一方、自作の指揮者としても活躍。映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞した。作品の中でも、バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中では「剣の舞」が、アンコールピース、オーケストラ入門曲、映像BGMなどとして知られる。民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた作風であり、異色の光彩を放っている。仮面舞踏会はミハイル・レールモントフ(1814~1841)の演劇「仮面舞踏会」がモスクワのヴァフタンゴフ劇場で公演されるのに合わせて作曲された。虚飾と欺瞞に満ちた帝政ロシアの貴族社会における悲劇として描かれた。アルメニアで発行されている50ドラム紙幣に肖像が使用されている。

ハチャトゥリアンの楽曲  
♫バレエ組曲「ガイーヌ」から「ゴパック」(1′24″)、「剣の舞」(53″)、「バラの娘達の踊り」(1′12″)、「アルメンのバリエーション」(1′15″)、「レズギンカ」(1′03″)合計(5′50″)♫
♫仮面舞踏会より「ワルツ」(1′17″)♫
 「剣の舞」は非常に有名だが、「レズギンカ」もロシア系の作曲家がよく用いる型式である。「レズギンカ」はコーカサス地方の民族舞踊・伝統音楽である。テンポが速く打楽器と管楽器のコンビが素晴らしい。
 仮面舞踏会の「ワルツ」はフィギュアスケート等でよく使われるが、最後の部分を掲載してみた。


ドミートリイ・ボリーソヴィチ・カバレフスキイ(1904~1987)

 サンクトペテルブルクの数学者の家庭に生まれる。父親から数学に進むように激励されたが、早くから芸術に魅了されていて、詩や絵画を創るかたわら優秀なピアニストに成長し、後にサイレント映画の伴奏演奏家を務めるほどだった。1925年に父親の意に背いてモスクワ音楽院に進み、ニコライ・ミャスコフスキーに作曲を、アレクサンドル・ゴリジェンヴェイゼルにピアノを師事。同年、学生作曲家創造集団(Prokoll)に入会。
 第二次世界大戦中は、多くの愛国的な歌曲を創り、1940年にはソ連共産党にも入党した。戦時中に運営された『ソビエト音楽(Sovetskaya Muzyka)』誌の編集者も務めている。また、サイレント映画のための演奏者を務める傍ら、劇場音楽にも手を染めている。1948年にアンドレイ・ジダーノフがソビエト音楽のとるべき進路についての決定を宣言する際、当初カバレフスキーは、形式主義者の一人として名が挙がっていたにもかかわらず、当局とのコネのおかげで自分の名前を消してもらうことが出来た。一説によると、カバレフスキーはソビエト連邦作曲家同盟の指導的地位にあったがために、要注意人物とされたにすぎないという。
 第二次世界大戦中は、多くの愛国的な歌曲を創り、1940年にはソ連共産党にも入党した。戦時中に運営された『ソビエト音楽(Sovetskaya Muzyka)』誌の編集者も務めている。また、サイレント映画のための演奏者を務める傍ら、劇場音楽にも手を染めている

カバレフスキイの楽曲  
♫組曲「道化師」より第2番「ギャロップ」(1′34″)♫  
 ギャロップは馬術における全速力の指示襲歩(しゅうほ)ともいわれる。力強く大きな歩幅でスキップし、両足が前後になった状態で揃えるという一連の流れのステップ・ダンス。


ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)

 ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名。シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』が出版されて以後、ショスタコーヴィチは皮肉や反体制といったイメージによって塗り替えられ、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」として西側諸国における演奏の機会も急激に増加した。

ショスタコーヴィチの楽曲  
♫交響曲第5番より「第1楽章の1部」(3′21″)、「第2楽章の1部」(1′11″)、「第4楽章の1部」(2′31″)合計(7′04″)♫
 日本(および韓国、中国)ではこの作品の副題を「革命」としている場合があるが、ショスタコーヴィチ自身はそのような命名は行っていない。「革命」はソ連が成立したことを指し、ソ連を賛美するものだと言われていたが、どうも彼の晩年のエピソードではそうではないらしい。彼の息子「マクシム・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ」は1975年からソビエト放送交響楽団の主席指揮者に就任したが、1981年にアメリカに亡命した。ドミートリイも本心は反共産主義であったようだ。この第五交響曲はソ連内よりもむしろ欧米で絶賛されたという。



⑭ ロヂオン・コンスタンチーノヴィチ・シチェドリン(1932~)

 モスクワの音楽家の家庭に生まれる。父親は音楽理論の教師であり、また作曲家であった。モスクワ合唱教室に学んだ後、モスクワ音楽院でユーリ・シャポーリンとニコライ・ミャスコフスキーに作曲を、ヤコフ・フリエールにピアノを学ぶ。1958年に7歳年上のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤと結婚。

 作曲家としての目立った活動に加えて、ピアノやオルガンのヴィルトゥオーゾとしても活動しており、自作の6つのピアノ協奏曲のうち半数は自ずから人前で初演した。ソ連崩壊後は、国際的な演奏旅行や協同制作の機会を利用しており、現在では、年間の活動の拠点をミュンヘンとモスクワに分けて過ごしている。作曲家としての長年の功労に対して、1989年にベルリン芸術アカデミーより正会員に任命され、1992年には当時のボリス・エリツィン大統領よりロシア国家賞を授与された。

シチェドリンの楽曲  
♫バレエ音楽「アンナ・カレーニナ」より、冒頭、中間部、最終部の1部(11′26″)♫
 トルストイの「アンナ・カレーニナ」を音楽化したもの。登場人物はアンナ、夫のカレーニンそれとアンナに想いをよせる青年将校ウロンスキー。所謂不倫の三角関係である。1′41″から4′50″の間は競馬場の様子が描写される。次に騎手として乗馬しているウロンスキーが落馬し、アンナはウロンスキーを愛していることを夫に告白する。7′55″頃から再び競馬場の様子が描写される。10′00″頃からアンナの死の予告が、10′57″に列車に飛び込む情景が奏される。この曲は私の所有するLPレコードから1部を使用したが、全曲(ハイライト版)は47′20″である。


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