日本語教師似非エッセイ Home


2013.08.11   3組 佐々木 洋

はじめに
 2001年3月末に東芝を定年退職してから、妻方実家のある福島県いわき市に本拠を移して、2011年3月に東京電力福島原発事故発生によって研修生達が全て母国に帰ってしまうまでのちょうど10年間、そこでビジネス日本語の研修の仕事に携わってきました。いわき市在の屈指の有力企業であるアルパイン社に技術研修のために訪れる外国人に対して、技術研修を受けるために必要な日本語能力を身につけさせるというのが私の役どころでした。

 アルパイン社は、寧ろ海外でのシェアが高いカーナビゲーション・システムのメーカーですので、世界各地に現地法人を持ち、そこから技術研修生は派遣されていました。ですから、圧倒的に多かったのは中国人でしたが、ドイツ人、アメリカ人の他にスウェーデン人やインドネシア人などと、日本語研修を通して交流することができました。

 この10年間に各国からの研修生やアルパイン社の関係者の皆さんとさせていただいた人間的な交流も大きな喜びでしたが、「教えることは学ぶこと」ということを実感しながら、私自身が何度も何度も“日本語再発見”を経験することができ、そのことによって更なる自己啓発をすることができたのが何よりも嬉しいことでした。

 ここでは、放射能問題が一日も早く収束して、いわきでの充実した日々が再び戻ることを祈願しながら、そうした私自身の“日本語再発見”の経験を綴ってご紹介したいと思います。しかし、「教えることは学ぶこと」を実感しながら「学んだこと」は数々あったのですが、これから「学びたいこと」や「学ばなければならないこと」を山とすれば「学んだこと」は山中の一石にしかすぎません。ですから、偉そうに「随筆(エッセイ)」などと言えるものではありませんが、それでも少しは笑ったり関心を持っていただけたりする個所があるのではないかと思っております。小見出しをご覧になって、関心のある個所だけ拾い読みでもしていただければと願っております。

Part 1
外から見た「日本語」  

 20年前のオージー・ショック
 私が初めてオーストラリアを訪れたのは、今からおよそ20年前の1992年3月のことでした。「定年退職後は、海外で日本語を教えたい」と考え、日本語教師になるための準備を始めた私にとって、オーストラリアは“第一志望国”だったので、その現地視察を兼ねての家族旅行でした。そして、日本語教育需要が旺盛だと伝え聞いていたオーストラリアでは実際に、上手に日本語を話すオージーたちと随所で出遭いました。現在でこそ、上手に日本語を話す外国人力士が多数いますから感じませんが、日本語が達者なオージー達の私からの問いかけに対する反応が一様に「日本語の勉強は難しくありません」というものだったのは、当時の私にとってちょっとした衝撃でした。「日本語は習うのが世界一難しい言語」だと思っていたからです。


 偉大な仮名の発明
 オージー達が「日本語の勉強は難しくない」という理由の最たるものは、「ひらがな」の効能によるものだと思っています。特に、「英語では、”dog” とか”cat” とか、それぞれの単語のスペルを知っていなければ書けませんが、日本語では、それぞれ“い”と“ぬ”、“ね”と“こ”と書いて覚えることができます」と語っていた青年の一言が印象的でした。日本語には、この他に「カタカナ」があり、特に欧米系の人名・地名などの表記に便利に用いられています。「ひらがな」も「カタカナ」も、もとはと言えば、ともに漢字から作られたものですが、中国原産の漢字から“日本流”の仮名を作りだしたのは日本人による偉大な発明だと改めて思います。そして、後に、米国原産の自動車や電気製品に“日本流”の“改善Kaizen”を施し続け、その結果、日本製品が“津波Tsunami”の如く米国市場に押し寄せることになったのも、全く根は同じなのではないかとも。


 牛さんと馬さん
 中国人対象のレッスンで「ニュートン」が出てきましたので、これは中国語ではどのように表記されるのか尋ねたところ「牛頓」だということでした。そこで、「漢字が羅列する中国語の文章の中から、欧米人の名前を識別するのは大変だね」と“同情”を寄せたところ、「一般的にはそうですが、“牛頓”の場合は“牛”という中国人の姓があるので比較的分かりやすいのです」という言葉が返ってきました。そこで、「えっ、牛!?…日本にも牛島とか牛山といった姓はあるけど…」と驚いてみせ、次いで「動物の名前をそのまま名字に使うなんてヘンなの、中国語って」という言葉が口から出そうになったのですが、危うくとどめて喉に飲み込みました。丁寧に応対してくれていたのが「馬さん」だったかからです。


 「話す」と「聞く」に適した言葉
 もう一つ、日本語が習いやすい理由は、話し言葉に用いられる日本語が、撥音「ん(N)」などを除いて、音声のほとんどが一つ一つの開音節で成り立っているところにあるようです。開音節というのは、例えば、前述の日本語がそのまま英単語になっている「改善」と「津波」について言えば、それぞれ「か(k+a) い(i) ぜ(z+e) ん(N)」、「つ(ts+u) な(n+a) み(m+i)」と、母音a/i/u/e/o)が伴っている音節のことです。このため、一つ一つの音を、例えば「い・ぬ」、「ね・こ」のように分離して聴き取ったり発音したりしやすくなっているので、「話す・聞く・書く・読む」の言語四機能のうちの「話す」と「聞く」が非常に楽にできるわけです。日本人との間で共通語となりえる英語を使えず、日本語を学ぶしかない環境におかれた外国人力士たちにとって、この点は大いに助かっているところだと思います。一方、私たち日本人が長年にわたって勉強していながら、英語の特に「話す」と「聞く」がなかなか上手にならないのは、例えば、(street)のように子音が三つも続いたりするように、閉音節が英語の中で幅を利かせているところにも一因がありそうです。


 馴染みやすいラテン語系言語
 同じく開音節が主体になっているイタリア語やスペイン語などのラテン語系言語も、日本人にとって「話す」と「聞く」が学びやすい言語であるとされています。実際に、私の友人は、イタリア旅行する前に1週間ほどイタリア語を勉強していったのですが、日本に帰って来てから、「勉強していった単語は全て現地で聴き取ることができた」と言っていました。この点は、勉強してはいても聴き取り難い単語が多い英語と大きく違うところだと思います。私は、東芝在籍時代に、ニューヨーク州北部にあるレンセラー工科大学の教授による社内セミナを受講したことがあります。この時の教授殿がイタリア系アメリカ人で、時間が押し迫ってきたりすると発音が、例えば、”important person” が「インポル(ru)タント(to) ぺ(pe) ル(ru) ソ(so) ン」となるように、急に“イタリア語っぽい”英語になってしまうのが愉快でもあり親しみやすいところでもありました。


 外国語からの単語の「輸入」
 更に、これも“ついでながら”ですが、私はかねて、ニューヨーク州の北部にフィッシュキル(Fishkill)、キャッツキル(Catskill)といった ”kill” を含む物騒な地名が多いのが気になっていましたので、セミナの昼食時の雑談の中で、ここに本拠を構えるレンセラー工科大学の教授殿にその謂れを尋ねてみました。お話によると、ニューヨーク州の北部は、かつてオランダ人が入植したため、オランダ語の地名が数多く残っているということで、この”kill”もオランダ語の単語で「渓谷」という意味があるのだそうです。このことを知る前に、米国企業のビジネスマンから差し出された名詞に”Gaskill”という名前が記されていたのを見て、「gas でkill なんてアウシュビッツみたいな名前ですね」という旨、ブロークンな英語で失礼なことを言ってキョトンとされてしまったことがありますが、思えば、あの米国ビジネスマン氏もオランダ系であって、清らかな「渓谷」をイメージさせるご自分の姓を存外お気に入りだったのかもしれません。

 これは、オランダ語が英語の中に“輸入”されている(外来語になっている)例ですが、東インド会社が長崎の平戸で貿易を開始して以来、日本との交易関係が深いこともあり、オランダ語から日本語に“輸入”されている単語もかなりあります。「ガラス」、「コップ」、「コーヒー」、「ビール」などが代表的なものですが、なんと、あの「お転婆」という日本語の単語が、“手に負えない”という意味のオランダ語” ontembaar”が輸入されたものと知った時には、私も少々ビックリしました。日本語における「婆」と、前述の英語における ”kill” は似たようなものではないかと思っています。


 「読む」と「書く」の厚い壁
 ある時、出張してきて、初めて日本のエレベーターに乗ったアメリカ企業のビジネスマンが、怪しげな象形文字のような漢字を手書きして示しながら、「どうして”open”と”close”をこんな同じ漢字で表すのか」と尋ねてきました。要するに「開」と「閉」を識別することができないのです。このように、主に漢字を「読む」と「書く」の要素が加わった時、日本語の勉強は「難しくない」が「大変難しい」に変わります。
その点で、漢字圏民族である中国人に日本語学習上利点があることは否めません。事実、日本能力試験2級を受験したインドネシア人研修生のクリスチャンは、「試験会場にいたのは中国人ばかりだった」と言って、暗に、非漢字圏民族にとっては日本語の「読む」と「書く」の壁が如何に厚いかということを示唆していました。
 一時、「声をかけても応えない無愛想な牛乳配達人が増えた」という風評が立ちましたが、その多くは「話す」と「聞く」は全くダメでも、表札に書かれている漢字を「読む」ことだけはできる中国人が登用されているケースでした。しかし、その中国人といえども、実は正しく「読む」ことができているというわけではありません。


 訓読みと音読み
 漢字原産国である中国からの研修生達も、特に、漢字を同じ意味の日本語に置き換え、必要に応じて仮名で補って読む、いわゆる「訓読み」には大苦戦しています。同じ漢字でもいろいろな意味を持つ場合があるため、それに応じて様々な形で「訓読み」されることがありますから学習の難しさが倍加します。代表的なのは「生」という漢字で、「いきる」、「はえる」、「なま」、「き」、「うむ」、「うまれる」、「いかす」など無慮100通り以上の「訓読み」の仕方があります。
 更に、「音読み」にしても、中国語起源の読み方には違いないのですが、当該の漢字熟語が日本に伝わってきた時期によって漢字の読み方が呉音、漢音、唐音と違っていて、しかも、ほとんどの場合、現代中国語での読み方と異なっていますので、漢字熟語の「意味を読みとる」ことはできたとしても日本語式の発音で「声に出して読む」ことは至難事になっています。例えば、「行」という漢字は、修行、行者などのように呉音では「ギョウ」ですが、旅行、行進などのように漢音では「コウ」、更に、行燈、行脚などのように唐音は「アン」になっていて、いずれも現代中国語での読み方「シン(中国語の音声を表すピンインでは ” xíng” になっています)」とは異なるものになっています。


 「漢字仮名まじり文」の効能
 1991年に雲仙の普賢岳が爆発した時には「火砕流」という言葉が新聞紙面を賑わしていました。この言葉は英語ではどのように表現されるのか興味を持ってDaily Yomiuri を見てみていましたところ、最初のうちは「水蒸気やガスを含んだ火山からの溶岩の流れ」といった主旨の句の形で表現されていたのですが、そのうちにようやく” pyroclastic flow”という専門用語が使われるようになりました。その時私は「こんな新聞の編集部でさえ当初は知らなかったような専門用語を知っている人はどれくらいいるのだろうか」と思い、「そこにいくと日本語は、正式な定義は別にして、“火”“砕”“流”の漢字から専門用語の“火砕流”の何たるかがイメージできるから本当に助かる」と思いました。
 
 そこで、英国人の友人のPeter Riches さんに、「英語は大変だね。アルファベットが羅列した” pyroclastic ”という単語を知っていなければならないんだから」と“同情”したところ、「一般的にはその通りだが、この場合は” pyro ”がギリシャ語から来た接頭語で“火”ないし“熱”という意味を持つから、おおよそのところはイメージできる」とのことでした。日本語学習の上の大きな難関ではありますが、学習が進むに従って、表意文字である漢字と表音文字である仮名を併せて用いる日本語独特の「漢字仮名まじり文」の効能に気付いてくるようです。


 ひらがな表記の問題点
 漢字仮名交じり文の中では一般的に、名詞や動詞などの語彙的な意味を持つ単語に「漢字」が用いられるのに対して、「ひらがな」は助詞・助動詞・語尾などの文法的な意味を持つ言葉や漢字で表しにくい副詞などに用いられ、「カタカナ」は欧米系の人名や地名、欧米語系からの外来語の表示に用いられます。そして、一つの単語ごとにスペースを開けて書かれる(“分かち書き”と言います)英語と違って連続して単語が書き連ねられる日本語にあって、「漢字」と「カタカナ」が単語を識別するのに役立つのに対して、「ひらがな」には単語の語頭がどこにあるのか分かり難いという難点があります。
 東京電力福島原発事故発生によって研修生達が母国に帰ってしまうまで、私が本拠としていた「いわき」市は、1966年に平市などの5市と近隣の市町村が合併して誕生したのですが、5市の中に「磐城市」が含まれていたため、公平を期するために「いわき」になりました。これはこれで親しみやすくて良いのですが、文章に表す場合には一苦労します。例えば、ここでも「 」を用いずに「私が本拠としていたいわき」や「公平を期するためにいわきになりました」と書いたとしたら、お読みになる方が「いわき」を識別するために一苦労されることでしょう。私の場合は他に、「福島県いわき市」や「東北の湘南いわき」などと漢字表記の“枕詞”を用いることにしています。

 また、漢字仮名まじり文でも、句読点の位置によって意味が違ってくることがあります。老舗の釣り針メーカー「がまかつ」の糸付き釣り針のケースに「1本ずつ楽に抜けてもつれない針」というキャッチコピーが印刷されていた時期がありました。読点の入れようによっては「もつれない針」が「つれない針」になってしまうのにと他人事ながら心配していたものです。「縺れない」と漢字表記すれば「釣れない」と間違えられなくて良かったのですが、この漢字自体が読みにくいので「ひらがな」表記せざるを得なかったのでしょうが、このような場合には日本語における“分かち書き”のための手段でもある句読点を正しく使って、「1本ずつ楽に抜けて、もつれない針」とすべきだったのではないかと思っています。

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