日本語教育能力は努力しないと身につかない
「日本人は日本語が話せるのだから誰でも日本語教師になれるだろう」というのもありがちな誤解の一つです。スポーツの世界で「名選手必ずしも名コーチならず」と言われますが、日本語教育でも同じで、自分自身が日本語を上手に話せたとしても上手な日本語教育ができるとは限らないのです。私はアルパイン社で、それぞれの部門で技術研修を受けている外国人に対する日本語研修を担当させていただいたのですが、教育指導に熱心な方がある部門におられて、“佐々木スクール”の他にご自分で毎朝自部門の技術研修生に対して日本語の指導をされていたことがありました。しかし、この場合も「日本語=国語」という誤解をされていて、ご自分の小学校3年生の娘さんが勉強している国語の教科書を教材として用いておられました。“日本語を知っている”ご自分の娘さんは決して作らない「学校、行く、私」などという語順が無茶苦茶な「非文」を作りかねない“日本語を知らない”外国人には国語の教科書は役立たず、更に、小学校3年生向け程度の内容(コンテンツ)では成人学習者の知的満足度を満たすことができません。教育指導に熱心な点は壮とすべきところですが、残念ながら学習効果はあまりあがらなかったようです。
プロ野球界の長島茂雄さんは“記憶に残る名選手”と評されていますが果たして同時に“名コーチ”でもあったのでしょうか。現役を退いた後に若手選手の打撃指導をするに当たって「ここでギュッと脇を固めてバシッと叩いて」などと擬態語や擬声語を多用していたところにも、長島さんの典型的な“感性派人間”ぶりが現れているように思えます。長島茂雄さんのような名選手は自己練磨によって感性を磨きあげて、ほとんど無意識のうちに好プレイができるようになっていたのだと思います。私たち日本人が日本語を使えるのもこれと同じで、長い年月の間“日本語を浴びて”育ってくる中で感性的に習得することができたから、意識しないでも日本語が使えるようになったのでしょう。しかし、短い時間で効率的に有効な言語を習得するためには、感性に頼るわけにはいきませんので、教師としては学習者に言語知識の形で意識させる必要があります。そして、そのためには先ず、教師自身が自ら無意識に使ってきた日本語を客観的に意識することが求められます。「日本語を客観的に意識する」ことこそが日本語教師としての出発点だと思っています。
「日本語教師」という資格が定められているわけではなくて、日本語能力検定試験に合格していなくても日本語研修の仕事に携わることができます。しかし、日本語教育能力検定試験に合格しないまでも、必死にその受験勉強をするくらいの努力をしなければ、「日本語を客観的に理解する」ことができず、日本語教育能力が身につかないと私は思っています。実際に私も受験勉強のための通信講座を受講する過程で、それまで意識もしていなかった事柄について様々な「日本語再発見」をすることができました。そして、それが喜びとなって、受験勉強をすること自体が楽しくなりました。日本語能力を身につけるための勉強は、表面上は目立たないアヒルの水掻きのようなものですが、水掻きの努力が辛いだけで、前進する喜びが感じられないうちは本物ではないと思っています。「勉強」が“強いて勉める”から“楽しく勉める”「勉楽」にならなくては。