日本語教師似非エッセイ -Part 2- Home


2014.12.21 3組 佐々木 洋

「日本語教師」を誤解していませんか

日本語教師は国語教師になれない

 「佐々木さんは国語の先生だから良いですね。上手に読んだり書いたりすることができて。」といったように、「日本語=国語」と考えられているのが日本語教師の私に対して最もしばしば寄せられる誤解となっています。ここに書いているような下手っぴな国語文を読んでいただければすぐにお分かりいただけるのですが。「日本語教師」は「国語教師」と同じように見えて実は似て非なるものなのです。「国語教育」が“日本語が分かる人々”に対するものであるのに対して、「日本語教育」は“日本語が分からない人々”に対するものであるというところが根本的に違っているからです。もちろん、日本語教師にも相応の国語能力が必要とされます。例えば、単語の意味を説明する場合に例文を作って示すと効果があるのですが、このような場合に、即席で相手の日本語能力レベルに合った例文を作って提示することくらいはできなくてなりません。しかし、日本語教師は、自らの国語能力や国語教育能力が正式に認定されているわけではありませんので、“真正国語教師”にはなりえないのです。


“仲介”と“斡旋”の違いは?

 例えば、ハワイから日本に来て日本の不動産会社に勤めていた小柄でお淑やかな日系米国人女性のスーザン(愛称スーさん)の場合は、日本経済新聞を読んで情報を収集していたくらいですから、既に「国語」の領域に達する高度な日本語能力を身につけていたのですが、より一層日本語による情報収集能力を高めようとして師を求めていた矢先に“誤って”「日本語」教師の私と出遭ったのでした。実際に、日本語教育能力については公式に認定されているものの、「国語教師」としての正式認定を得ていない「日本語教師」にとっては、スーさんに対する日本語教育は大変チャレンジングなものとなりました。学校で学んでから社会人として実践することによって培ってきた自分自身の国語能力や、東芝での社会人生活を通じて得たビジネス慣行や専門的な用語に関する知識を総動員するとともに、自分の専門外の事柄については東芝内の人脈を辿って先ず自らが学ぶことによって対処していました。代表的な例は、スーさんからレッスンの場で「“仲介”と“斡旋”の違い」についての質問が出た時のことでした。この質問に対して“似非国語教師”の私は一瞬「ん?」となってしまいましたが、教師として、「さあ…?」では済みませんので、「“斡旋収賄”という言葉はあるけれど“仲介斡旋”とは言わないな」と考え、取りあえず「“斡旋”の方が自分の利益を追求するための積極的な介在である」という旨答えて、これを教師の宿題として持ち帰りました。そして翌日、当時まだ私が在籍していた東芝の法規担当部門の女性の友人にこの質問をぶつけたところ、今度は彼女が「ん?」となったので、後刻調べてもらったところ「法規上は明確に区別されていない」ということでした。この問題などは、おそらく、国語教育能力が認定されている“真正国語教師”にも対応するのが難しいのではないかと思っています。


国語教師も日本語教師になれない

 一方、国語教師だからと言って日本語教育ができるかと言えば決してそうではありません。私たち日本人は、赤ちゃんとして生まれてから、親や兄弟、友人たちに囲まれて育つ過程で“日本語を浴びながら”日本語の単語や文法を覚えていきます。ですから、「学校、行く、私」などという語順が無茶苦茶な非文法的な文章(「非文」と言います)を発することなく、意識せずに正しく日本語が使えるようになっているのです。「日本語には文法がない」などともよく言われます。しかし、これは単に「英語のような文法がない」と言っているのに過ぎないのですが、更に言えば、学校教育で限られた国語文法(学校文法とも言います)しか教えられていないからそう見えるだけなのです。要するに日本人に対しては、断片的な国語文法だけで十分であって、日本語文法を体系的に教える必要がないのです。逆に言えば英米人も同様で、ネイティブの英会話教師みずからが英文法を体系的に教育されているわけではないので、私たちが英文法について質問しても、満足できる答が返ってこないことがしばしばあります。文法教育に偏重すると、特に「話す」と「聞く」が苦手な日本語学習者を作ってしまう結果になってしまいますが、限られた期間内で効果的かつ効率的に、「書く」と「読む」も含めて語学をマスターするためには文法知識の習得を欠かすことができません。“外国人の日本語学習に適した文法”の指導能力がないことも「国語教師が日本語教師になれない」ことの一因になっています。


「動詞のテ形」ってご存知でしたか?

 例えば、動詞の活用形について、学校文法のように「未然・連用・終止・仮定・命令」などと教えたとしたら、外国人研修生にとってはチンプンカンプンになるだけで、その日本語学習の意欲さえ殺いでしまいかねません。国語文法の命令形「止まれ」に至っては実際には滅多に使われておらず、民営化した道路会社がお客様であるはずの自動車走行者に対して“命令”する場合に実用されているくらいですので、日本語研修生が自ら使うケースはゼロです。ですから、逆に、「“これ、コピーしてください”と言われた場合には依頼文の形をしているけれど実際には指示命令なんだよ」といった具合に“実質的な指示命令”を聞き違えないよう実践的に指導しています。
 日本語教育では、おそらく国語教師のほとんどがご存じではない「辞書形」、「テ/タ形」、「マス形」、「バ形」といった形で、例えば、辞書形「止まる」について「止まっ(テ/タ)」、「止まり(マス)」、「止まれ(バ)」のように動詞活用文型を指導します。特にテ形は「~テいる」、「~テある」、「~テおく」などといった形でも応用される「日本語文法」の重要アイテムですが、「国文法」では教育項目に入っていないはずです。初級クラスで「生き物には“いる”(例:「あそこに犬がいる」)物には“ある”(「あそこに郵便局がある」を使う」と教えられた研修生が「ランプがついて“いる”」という文章にぶつかって「ランプは生き物ではないのになぜ“いる”なんだろう?」と当惑するのはよくあることです。このような場合には「テ形に続く動詞(この場合は「いる」)は本動詞(この場合は「存在する」という意味をもつ)ではなくて補助動詞(この場合は「動作の継続」などを示す文法的意味をもつ)になる」という日本語文法の知識を教師としてもっていなければ正しく研修生を指導することができません。


日本語教育能力は努力しないと身につかない

 「日本人は日本語が話せるのだから誰でも日本語教師になれるだろう」というのもありがちな誤解の一つです。スポーツの世界で「名選手必ずしも名コーチならず」と言われますが、日本語教育でも同じで、自分自身が日本語を上手に話せたとしても上手な日本語教育ができるとは限らないのです。私はアルパイン社で、それぞれの部門で技術研修を受けている外国人に対する日本語研修を担当させていただいたのですが、教育指導に熱心な方がある部門におられて、“佐々木スクール”の他にご自分で毎朝自部門の技術研修生に対して日本語の指導をされていたことがありました。しかし、この場合も「日本語=国語」という誤解をされていて、ご自分の小学校3年生の娘さんが勉強している国語の教科書を教材として用いておられました。“日本語を知っている”ご自分の娘さんは決して作らない「学校、行く、私」などという語順が無茶苦茶な「非文」を作りかねない“日本語を知らない”外国人には国語の教科書は役立たず、更に、小学校3年生向け程度の内容(コンテンツ)では成人学習者の知的満足度を満たすことができません。教育指導に熱心な点は壮とすべきところですが、残念ながら学習効果はあまりあがらなかったようです。

 プロ野球界の長島茂雄さんは“記憶に残る名選手”と評されていますが果たして同時に“名コーチ”でもあったのでしょうか。現役を退いた後に若手選手の打撃指導をするに当たって「ここでギュッと脇を固めてバシッと叩いて」などと擬態語や擬声語を多用していたところにも、長島さんの典型的な“感性派人間”ぶりが現れているように思えます。長島茂雄さんのような名選手は自己練磨によって感性を磨きあげて、ほとんど無意識のうちに好プレイができるようになっていたのだと思います。私たち日本人が日本語を使えるのもこれと同じで、長い年月の間“日本語を浴びて”育ってくる中で感性的に習得することができたから、意識しないでも日本語が使えるようになったのでしょう。しかし、短い時間で効率的に有効な言語を習得するためには、感性に頼るわけにはいきませんので、教師としては学習者に言語知識の形で意識させる必要があります。そして、そのためには先ず、教師自身が自ら無意識に使ってきた日本語を客観的に意識することが求められます。「日本語を客観的に意識する」ことこそが日本語教師としての出発点だと思っています。

 「日本語教師」という資格が定められているわけではなくて、日本語能力検定試験に合格していなくても日本語研修の仕事に携わることができます。しかし、日本語教育能力検定試験に合格しないまでも、必死にその受験勉強をするくらいの努力をしなければ、「日本語を客観的に理解する」ことができず、日本語教育能力が身につかないと私は思っています。実際に私も受験勉強のための通信講座を受講する過程で、それまで意識もしていなかった事柄について様々な「日本語再発見」をすることができました。そして、それが喜びとなって、受験勉強をすること自体が楽しくなりました。日本語能力を身につけるための勉強は、表面上は目立たないアヒルの水掻きのようなものですが、水掻きの努力が辛いだけで、前進する喜びが感じられないうちは本物ではないと思っています。「勉強」が“強いて勉める”から“楽しく勉める”「勉楽」にならなくては。


「尾鰭」は「おひれ」か「おびれ」か?

 例えば、通信講座を受講しはじめてからすぐに出遭ったのが「尾鰭」の問題でした。同じ漢字で表記されていても、「おひれ」と読むと“尾と鰭”という意味になり「おびれ」と読むと“尾のところにある鰭”という違う意味の単語になるというのです。更に、「おひれ」は「尾」と「鰭」の2語であるのに対して、「おびれ」は「尾」が「鰭」を形容した形の1語であり、このように「尾」に「鰭」がついて1語になるために「ひ」が「び」と濁るのを「連濁」というのだと解説されていました。そう言われてみると確かに、「三日月」の「づき」という言葉が単独で存在しないのと全く同じで、「びれ」という言葉は単独では存在しません。もちろん「連濁」という言葉を教えることはしませんが、日本語教師が連濁現象を理解していなければ、例えば、生徒から「三日月の月は、どうして“つき”ではなくて“づき”なんですか」という質問があった場合に即座に正しく対応することができません。日本語レッスンの現場では、思いもかけない質問が寄せられることがしばしばありますので、どんな場合でも即座に正しく答えられるだけの日本語教育能力が求められるのです。

「二」は<ni>に非ず 

 私が“二浪”した後ようやく合格した日本語教育能力検定試験にも「ナ<na>ニ<ni>ヌ<nu>ネ<ne>ノ<no>のうちで、一つだけ違う発音をする子音“n”は何か」という問いが含まれていましたが、皆さんならどう答えられますか?正解は「ニ<ni>」なのですが、この理由は後続の母音<i>の発音に備えて舌先が歯茎のところから上顎の硬いところ(硬口蓋)に後退するいわゆる「口蓋化」現象によるものです。つまり、「ナ/ヌ/ネ/ノ」は国際音声記号(IPA: International Phonetic Alphabet)でも“na/nɯ /ne/no”ですが、「ニ」は“ɲi”で、同じ鼻音ではあっても<n>とは発音が違う子音“ɲ”になっているのです。この問題などは、実際に<na><ni><nu><ne><no>を実際に発音してみれば正解に達することができますが、いちいちそのようなことをしていたら、膨大な数の問題に答える時間が足りなくなって、日本語教育能力検定試験合格はおぼつかなくなります。予め、「口蓋化現象は、サ行のシが<si>ではなくて<shi>、タ行のチが<ti>ではなくて<chi>にそれぞれなるように五十音図上のイ段の発音をする場合に起きる」という知識を持っていなければ即座に正答することができません。日本語教育能力検定試験は、日本語教育の現場で求められている“即座に対応できる能力”を試すテストでもあると理解しています。因みに、「ナニヌネノの子音は全部“n”だよ」などといい加減な教え方をしていますと、研修生の「日本」の発音は限りなく「ネホン」に近付いてしまいます。なお、英語の“ニッケルnickel”が限りなく「猫(ネコneko)」に近く聞こえるのは、英語ではIPAでも<ni>で、日本語の<ɲi>と違うためだと考えられます。


日本語教育における直接法と間接法

 「色々な国の人に教えるのですから色々な国の言葉を分かっていなければなくて大変ですね」というのも、最も繁く日本語教師の私に寄せられる誤解の一つです。しかし、中学校で学び始めて以来学校で何年間も勉強してきている第一外国語の英語さえブロークンな私が、第二外国語のドイツ語、更には全く習ったことのない中国語、はてはスウェーデン語、インドネシア語などが分かるわけはありません。また、共通言語として最も汎用性が高い英語を使った方が教えやすい場合も確かにあるのですが、特にアジア系の研修生の中には英語ができない学習者も存外多くて、実際にブロークン・イングリッシュを使って語句の説明をしてみてキョトンとした顔をされてしまったことが何回もあります。それに、英語ネイティブの日本語学習者であったとしても、私のようなブロークン・イングリッシュはNo Thank Youだと思えるに違いありません。これは、私たちが英会話を習っていた時に、英語ネイティブの先生にヘタッピな日本語を使われてヘキエキしたことがあるのを裏返してみればわかるような気がします。実際に、前述の“本格的”学習者の典型であるスーさんはまた典型的な「直接法」の選好者でもありました。実は、特に抽象度の高い日本語表現は、英語を媒介として解説する方が楽なので、私がその場しのぎのブロークン・イングリッシュを口にすると、スーさんから「先生、日本語でお願いします」と優しく“牽制”されたことが何回もありました。

 学習者の母国語や英語などの共通言語を媒介語として教えるのを「間接法」というのに対して、“直接”日本語で日本語を教えるのを「直接法」と言いますが、概して、“本格的”に日本語を勉強しようと思う学習者ほど直接法による日本語教育の方を選好するようです。私の場合は、仕事をする上で必要なビジネス日本語を習おうとする“本格的”学習者がほとんどで「直接法」を用いていましたので、私自身の外国語能力の乏しさは支障にならずに済みました。むしろ、私の担当していた日本語研修生には、来日する前に例えば中国語ネイティブの先生の中国語を介した「間接法」による初級日本語研修を受けてくる中国人が圧倒的に多かったのですが、口々に「これまでの日本語研修と全然違う。緊張感と集中力をもってレッスンに臨むことができて、研修意欲が格段と高まった。日本に来て日本人から日本語を習うことができて本当に良かった」といった旨のことを口々に語っていました。私たち日本人の多くが学校で英語を勉強していながら、言語四技能のうちの「読む」と「書く」はともかく「聞く」と「話す」のを苦手としているのは、場合によっては自分自身が英会話も満足にできない日本人の先生から日本語を介した「間接法」で教わってきたことが大きな原因になっているものと考えられます。逆に、大相撲の外国人力士の日本語能力が軒並み高いのは、日頃から辛い思いをしながら朝から晩まで「“直接法で”どやし続けられている」からに違いありません。


ビジネス用日本語とサバイバル用日本語

 しかし、日本人は概して英会話力を身につけることに対して熱心ですので、英語ができる外国人はビジネス用日本語を勉強しなくても英語を使って仕事をすることができるケースが多く、従って、買い物や旅行などで用いる日常の生活のための日本語(サバイバル用日本語)さえ勉強すれば十分だということになりがちです。このような場合に教師に求められるのは、日本語教育能力より英語によるコミュニケーション能力の方になります。実際に、アルパイン社でも、サバイバル日本語の学習を目的とするドイツ人研修生に対して、自身の日本語教育能力を身につけるため一生懸命自己啓発していたボランティア講師が日本語指導に当たっていたのですが、少しも英語によるコミュニケーション能力ができないので研修生がフラストレーションを起こしていました。そんな時に急遽ピンチ・ヒッターならぬピンチ・ティーチャ―として起用された私が“持ち前の”ブロークン・イングリッシュを駆使しての「間接法」に切り替えたところフラストレーションがおさまり、当該のドイツ人青年の学習意欲を高めることができました。ですから、その後欧米系の学習者が急激に増えて、アルパイン社が新任日本語教師を採用する際に採用面接に立ち会わせていただいた私は、英語教師上がりの女性を、「間接法によるサバイバル日本語教育」に限って「日本語教育能力あり」と“検定”したのでした。

 教育熱心なアルパイン社は、この新任女性講師に対しても、日本語教育能力検定試験受験のための通信教育受講料を全額負担するという並大抵ではない厚遇ぶりを示しました。私も、日本語教育能力検定試験の受験勉強の過程で学んだ事柄を日本語研修の実践に役立てる方法を伝授したり自分自身が受験する際に大いに役立った参考書3冊を貸与したりしてアルパイン社の日本語講師育成策を支援しました。しかし、この女性は、なんとか通信教育だけは履修し終えたものの、日本語教育能力検定試験を受験する意図がないことが暫くしてから分かり、相当時間が経ってから、私がお貸した参考書1式も、ほとんどページが開かれることもないまま空しく返されてきました。尋ねてみたところ、「もういい加減トシなんですから、こんなに細かいことはとてもメンドクサくて覚えきれません」というので、「ああ、この人は“間接法によるサバイバル用日本語教育専任担当講師”どまりなんだ」と彼女の日本語教師としての成長をあきらめていました。

 ところが、今度はサバイバル用日本語学習を目的とする欧米系学習者が急減することによってこの女性教師の仕事がなくなるに及んで、直接法によるビジネス用日本語研修で私とワークシェアリングすることになりました。私が結果を懸念して反対していたにもかかわらず、僅かな“間接法によるサバイバル用日本語教育”の経験があるだけで、「日本語教育能力あり」と日本語研修担当事務局が“検定”したからです。実際に、女性教師による直接法によるビジネス用日本語研修の担当が決定した際に、私が使っていたテキストを紹介したところ、「このテキストを先に読んでおけば教えることができるわね」とノタマワレタ時には、「いったいこの人は日本語教育能力というものをどう考えているのだろう!」と呆れるとともに、結果に対する懸念が一層募ってきました。そして、この懸念は不幸にして現実のものとなり、この女性教師が担当する研修生から、直接間接に私に対して、受けている日本語研修についての不平や不満、苦情が相次いで寄せられるところとなったばかりでなく、代々の日本語研修事務局の皆さんとともに築き上げてきたアルパイン社の日本語研修体系が滅茶苦茶になってしまいました。恐らく、「英語を教えることができたのだから、母国語の日本語を教えることなどたやすいことだ」と日本語教育能力のことを見くびっていたのでしょうが、こんな調子なら英語教育能力についても軽視していて、英語教師時代にも大した英語教育実績を残せなかったのではないかとさえ思えてきました。


陥りやすい講師選定の誤り

 このように、日本語教師や日本語教育能力についての誤解が多く、また、自分自身の日本語教育能力に無頓着な日本語教師もいることから、日本語教師の選定を誤って、そのために日本語研修生が不幸な目に遭っているケースが多いように思えます。当然、外国人の日本語能力を高めることによって業務を効率化・円滑化することを期待して日本語研修に注力している企業も同様に不幸な目に遭っているということになっているわけです。このような不幸な事態を避けるためには先ず、かつて世界市場で日本製品を”Japan as No.1”の地位に押し上げた経営思想TQC(Total Quality Control)で学んだ「次工程はお客様」と「顧客満足度極大化」いう考え方を採り入れる必要があります。日本語教師にとっての“次工程”は日本語研修生であり、その“お客様(顧客)”の満足度を極大化することが日本語研修の成功の必須条件となるからです。上記の女性教師起用によって起きた悲劇も、「顧客満足度極大化」より「講師間の仕事量の平準化」を優先させ、経験と努力不足のため「顧客満足度極大化」を実現する能力のない講師との間で不適切なワークシェアリングが行われたためでした。


日本語教育を経験してみませんか

 プロ野球の野村克也さんは、みずからを「生涯一捕手」と称して、晩年までプレーを続けておられていました。おそらく“捕手稼業”が楽しかったからだと思います。私が「生涯一日本語教師」として、いわきに愛すべき外国人の日本語研修生が戻ってくる日に備えて、日本語教育能力と体力の維持強化に努め続けているのも、特に「教えることは学ぶこと」の喜びを満喫することのできる“日本語教師稼業”が楽しいからです。いざ日本語研修を経験してみると、教える過程で講師自身が日本語を新たに学ぶだけではなくて、自分がその研修生の母国について如何に無知であったり、誤解していたりしているか思い知らされることがよくあります。


昔の日本と今の日本

 例えば、中国について、現在でも日本のマスメディアが当然のように喧伝している「中国では反日教育が行われている」という“常識”を私も持ち続けていました。しかし、「具体的にどのような反日教育が行われていてどのような効果が上がっているのだろうか」という疑問を併せもっていましたので、お花見に連れ出した際に李博さんにさりげなく聞いてみたところ、即座に「確かに反日本帝国主義教育は受けていますが、反日教育は受けていません。ですから、昔の日本は嫌いですが今の日本は大好きです。日系企業に就職したのもそのためですし、日本に来たくても来られない同僚も多いんですよ。」という答えが返ってきました。そして、「今の日本が大好きになったのは、中学校時代に全国テレビ放送されていた“一休さん”と“ドラえもん”のお陰です。」と付け加えてくれました。李博さんの話によると、昼休みには「ドラえもん」の漫画本が奪い合いするような形で読み回しされていたのだそうです。その後、他の中国人研修生にも何回か聞いてみたのですが、反応は同じようなものでした。マスメディアの報道を鵜呑みにすることの危うさを身にしみて知らされると同時に、かつての“先進工業国”のイメージになり代わって、今や“アニメ文化”が外国人の注目を日本に向けさせる大きな要因となっているということを改めて教えてもらいました。


 一方、日本に来ていながら日本語を学ぶ機会が得られず困っている外国人が数多く存在しています。そうした外国人たちを助けながら、自ら日本語再発見と知られざる外国事情理解の喜びを得られる日本語教育を経験してみませんか。市役所などへ行けば、日本語教育ボランティア協会などといった窓口があって日本語教育受講を希望している外国人を紹介してくれるはずです。また、日本語教師育成講座なども開かれていて、熱心なボランティアの先生たちと混じって受講して日本語教育を身につけることもできると思います。最初は、身振り手振り(「ボディ・ランゲージ]と言います」で十分だと思います。なにしろ私たちには、この日本で生き続けてきたという外国人には得がたい体験があるのです。謙虚に「自分にはまだ日本語教育能力がない。学習者とともに日本語を学び直していくのだ。」という意識さえ持ち続けてさえいれば、サバイバル用日本語学習者に歓迎されること請け合いです。更に、ビジネス用日本語の学習を希望する外国人に巡り合うようなことがあれば、私たちの積み重ねてきたビジネス体験から得た知識が大いに物を言うでしょう。教育技術にたけてはいるが全くビジネス経験のない女性教師が「手形を落としたら警察に届けましょう」というように指導したという実話が伝えられています。日本語教育能力のうちでも、教育技術については発展途上にしても、もっと重要な教育内容(コンテンツ)はしっかりと身についているという自負をもって、“知られざる外国”から来ている“日本語難民”の皆さんに接して、「教えることは学ぶこと」の喜びをともにしていただければと願っています。何よりもボケ防止に役立つことは必至です。ダマサレタと思って日本語教育ボランティア協会などを気楽に訪れてみて下さい。

                                        以上


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