随  筆


日本の城あれこれ
2015.07.21
6組 榮 憲道

 この7月、国宝の天守閣としてなんと63年ぶりに松江城が国宝に選ばれる。 
 20年ほど昔、米子に出張の折、仕事が済んだ翌日が休日だったので宍道湖や境港の地に遊んだが、松江城は見損なっていたので「しまった」との思いに駆られた。また国宝なる天守閣は、姫路城・犬山城・彦根城・松本城(順不同)に次ぐ5番目と知って正直驚いた。たとえば、現存する日本最古の天守のある城として知られる福井の丸岡城は、永平寺や一乗谷の朝倉遺跡を訪ねた折に妻と訪れているが、てっきり国宝とばかり思い込んでいた。改めて調べてみると、丸岡城はかっては確かに国宝であったが、昭和23年の福井大地震で全壊して修復したがため重文に変更されていた。
 城の象徴である天守閣は、明治の”ご一新”や失火、太平洋戦争時の空襲などでほとんど壊滅してしまった。私が今住んでいる尾張の名古屋城は、終戦近い昭和20年5月14日の大空襲で焼失してしまい、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建された城である(最近河村市長が「建て替えを木造で」と宣言しており、文化庁の後押しもあって、実現の可能性がにわかに帯びてきたが)。故郷の小田原城は明治に入って破壊され放置されていたが、昭和35年に再建された。ともに歴史的建造物としての価値はなく、国宝になることはないであろう。
 私はこれまで、かの国宝の4城はじめ、南は沖縄の首里城から北は盛岡城まで数十の城を訪れている。我が東海地方には城はいっぱいある。名古屋城・犬山城はじめ、秀吉が出世の第一歩となった墨俣(すのまた)一夜城も、織田信長が”天下布武”を旗印とした金華山の山頂に立つ岐阜城(330米)、天下分け目の関ヶ原の合戦の折に西軍が本拠とした大垣城、山内一豊の妻・千代の出生地として知られる郡上八幡城、三重県には亀山城、松坂城、伊賀上野城。さらには東に徳川家康の居城であった岡崎城や浜松城などが控えている。
 これらの城は、大体は戦国期の終わったあとの平城や平山城であるが、私には、余り訪ねる人もない草に埋もれた山城の城跡に興趣をそそる。織田信長が築いた安土城址(標高110米)、奈良の高取城址(580米)や山中鹿之介の籠もった島根の月山富田城址。石川の七尾城址など、小田原には、後北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて構築し、結局は敗れて廃城となった足柄城址(700米)や山中城址(580米)がある。日本で一番高い天空の城なる東美濃・岩村城址(800米)には2回ほど訪れているが、織田と武田のはざまにあって翻弄された女城主の悲劇の城として知る人ぞ知る城である。

 6月初旬、私が30年来所属する西宮タートルランナーズクラブの懇親会が滋賀・長浜であったので参加した。会の行程は比叡山延暦寺を訪れ、精進料理に舌鼓を打ってから長浜へ。一方、私は名古屋からひとり長浜へ向かったが余裕がある。始めは佐和山城址(230米)予定したが、小谷城に変えた。
 米原から北陸本線で五つ目の河毛駅の東方2キロ。戦国の豪将・浅井長政が、父(久政)への孝養と妻(お市の方)への愛の葛藤の末、織田信長勢との3年に亘る激しい攻防戦のあと、天正元年(1573)、朝倉勢の敗退と重臣の裏切りにあって陥落した日本三大山城の一つである。追手門口から出丸、金吾丸、小丸などの曲輪跡が連なる急峻な尾根筋を登る。よく整備された道だが、両側は断崖といってもよい険所である。標高400米にある大広間跡、大石垣が残る本丸跡に登り詰めたが、よくもこんな山頂に何千もの軍勢が長期間立てこもったものと感嘆せざるを得なかった。
 梢を渡る初夏の爽やかな風が心地よい。眼下には麦畑が黄金に実る湖北の村里、琵琶湖,竹生島、彦根城、姉川や賎ヶ岳の古戦場、比良・鈴鹿山系、伊吹山に西美濃、敦賀の山々が大パノラマとなって広がる。本丸から大堀切りを抜け、中の丸・京極丸を通って山王丸曲輪跡へ、さらに欲張って、谷一つ越えた標高500米の大嶽(おおづく)城址まで足を延ばした。帰り路は、急斜面の清水(きよみず)谷を一気に下る。本来は大手門口に当る虎ヶ谷道と知ったが、倒木に巨岩が続く難路で、山麓まで小1時間も掛かったが、誰一人出会うことがなかった。お陰で足腰は正にガクガク状態―ー年寄りに無理は禁物である。
 辿り着いた宿「豊公荘」は、なんと長浜城天守から100米も離れていない。相変わらず賑やかな《タートルの宴》のあとは”城を枕に”高いびきとなった。翌朝は6時に集合して湖畔を周遊。朝酒で気合を入れて、長浜八幡宮など随所に昔の町屋の残る長浜市街の名所を巡る。昼餐は、またまたジョッキ片手に、今が旬というビワマスに悪名高き?鮒寿司や名物のっぺいうどんなどを満喫、3時過ぎ、米原駅で再会を約して別れを告げた・・・。
 我が長久手市は、羽柴秀吉と徳川家康が対決した《小牧・長久手の合戦》の地で有名である。《古戦場公園》を中心に、あちこちに激しかった戦跡が残っているが、隣町の日進市に岩崎城なる三層のこじんまりした城があることは、地元以外で知っている人は少ない。私の家から3キロほど南に位置しており、小牧・長久手の戦いのとき、羽柴秀次を総大将とした2万の軍勢が、徳川本拠地の岡崎城への”中入り”を決行したが、その途中頑強に抵抗したこの岩崎城を攻めた。その守将が弱冠16歳の丹羽氏重といわれ、わずか300人の手勢で孤軍奮闘の末全滅した。しかし彼が時間を稼いだおかげで、長久手に陣を留めた羽柴勢に猛将本多忠勝以下の8千の徳川勢が急襲、散々に蹴散らした。

 さて、この狭い日本には砦なども含めると3万から4万の城があったとされるが、その中で一つ挙げるとすれば、尾張出身の猛将で築城の名人でもあった加藤清正の熊本城を挙げたい。西南戦争の折、剛健な薩摩隼人でさえ抜くことが出来なかった堅城であり、じっくり見たいと考えている。 

   城跡の石くれひとつ拾い上げ往古偲ばば湖北春愁

                                           (完)


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