随    筆



 『寄』談義ふたたび・・・
2016.07.23
6組 榮 憲道

 梅雨晴れの6月26日(日)、私の生家・善榮寺(小田原市栢山)で母の13回忌が執り行われた。
 午後2時からの法要のあと、兄弟姉妹・親族らが打ち揃って母の墓前に香華を手向け、穏やかで優しく誰からも慕われた母を偲び合掌した。そして兄が庫裏の一角に建立した《宏禅堂》に設けられた御斎(おとき)の席に加わった。

 その折、法要において首座を務められた足柄上郡松田町寄の福昌院・龍王寺の住職である平賀康雄師に挨拶をしたが、師が大変郷土史に詳しいことを知って、たまたま持参していた小田高同期機関紙「11期WEB」の斎藤良夫さんの寄稿文「第3回小田原・足柄の歴史と文化を目で見て語り合う合同展示会」(6月中旬に開成町で開催)の記事を披露すると、
「足柄史談会や山北町地方史研究会の会長さんは共によく知っていますよ」

 そして《寄》に関する話となり、私の小学校の同級生が《寄》の虫沢に嫁いでおり、現在ミカン園を経営していること。《寄》は、幼いころから私は《ヤドロギ》と呼んでいたが、最近、高校同期のなかで《寄》の呼び名が話題になったことを伝えると、「そのことなら、私が以前書いておりますから後ほど送りますよ」、気軽に引き受けてくださった。

 帰宅後早速、私は佐々木洋さんの11期WEB通信「さくら狩人・湘南桜錯乱物語Part11・寄ヤドリキ(松田町)」(4月5日、辻秀志さん夫婦らテニス仲間との《寄》の四大しだれ桜探訪記。その冒頭に、《寄》の土佐原在住の安藤彬さんに電話した際、奥さんから「《寄》はヤドリギではなくヤドリキと呼ぶんですよ」と聞かされたとある)をアウトプットし、私の母の思い出を綴った2編のエッセイも合わせて投函した。

 すると数日後、平賀師から、ずっしりとした宅急便が届けられた。
 そこには、古墳時代からの寄地区の歴史・伝統文化を総合的に纏めた『旧寄村・来し方、その後』、西相模に散在する諸石像物の碑文解読を著した『西相模の碑文を探る』に、仏教の教えや自分自身の考え方を平明に綴った随筆・評論集『一炊居閑話』など平賀師の著作に、法事の際に師が読み上げた私の母を偲ぶ香語(七言絶句の法語)が添えられている。そして、檀徒向けの機関紙「福昌院・龍王寺/寺だより」第9号(1986-7-13)の中に《竹林随想》として、その《寄》の呼び方に対する師の考察が記されていた。
「《寄村》は明治8年(1875)に弥勒寺村、虫沢村、土佐原村、宇津茂村など東山家入り(ひがしやまがいり)の組合7ヶ村が合併して出来た村で、初代村長となった菅沼村の安藤安賀氏が「旧来から7ヶ村が協力し合い寄り合って生きてきた」として名付けたとのことである。その呼び名に関しては、地元住民は誰でもずっとヤドリギとかヤドロギの言い方をしていたようである。その後、昭和36年(1961)に出来た住居表示に関する法律で、地元の反対を押し切って、行政当局がヤドリキと統一した」のでヤドリキが公用語となったとあり、安藤彬さんの奥さんの言はこれに拠ったものであろう。

 しかし師は、「地名というのは、習慣的に長く多くの人に使われている呼び名を以って正式なものとするのが地名の常識である」とし、その上で、「ヤドリキというのは「やどった」という動詞的な言い方で、ヤドリとキが離れている場合なら良いが、一語として名詞的に呼ぶ場合は音韻上ヤドリギが自然である。植物の寄生木もヤドリギと濁って呼ぶ。源氏物語の巻名の一つ「宿木」もヤドリギと濁る。総括すると、《寄》の呼び名は、①ヤドリギが最も正統的である。②ヤドロギも現在多く使われて生きているので、これも間違いとはしない。③ヤドリキは仮に元そう呼んだことがあったとしても今は生命を失っており、呼び名としての資格はない」としている。

 ただ、「日本がニホンもニッポンも両方とも奈良時代から長く多くの人に使われており、どちらでも良いということで既に解決済みのことである」と締めくくっており、私は、絶対的正解は無理して決める必要なないのではという見解とも受け止めた次第である。
 博学多才な平賀康雄師の略歴をめくると、松田町文化財保護委員長と小田原少年院教誨師も兼ねており、また師は小田原高校19期生であり、なおまた早稲田大学卒という私の”後輩”であることが判明した。”縁”というものは不思議なものといえよう。

 ところで、私は定年退職後短歌に興味を持ち、「中部短歌会」という結社に属して名古屋の本部例会に毎回顔を出しているが、長男一家が茨城県守谷市に住んでいることもあり、その関東支部でもメンバーの一員となっている。2、3年前その例会が東京で開催された際、私のイバラギの発声に対して、茨城県つくば市在住の歌友から「イバラキですよ」と反論されたことがある。私の頭の中にはイバラキは大阪府の茨木との認識があるが、地元では茨城もイバラキと呼ばれているらしい。しかし濁音の地名は数多く存在しているし、小田原(オダワラ)を基点に、むしろ懐かしい”ふるさと”の香りが溢れ出てくる。東海道線では国府津、根府川、真鶴、湯河原。小田急線では足柄、富水、新松田、渋沢、秦野。御殿場線では下曽我、相模金子、松田、谷峨、駿河小山。大雄山線には緑町、井細田、五百羅漢、穴部、飯田岡、和田河原、相模沼田、大雄山・・・。  そして最後に、私の姓の榮はハナブサと読む。サカエでもハナフサではないことを記して、この「『寄』談義ふたたび・・・」なるエッセイを閉じたい。


 寄:やどりぎ、(松田町に吸収されるまでは上郡寄村であった。周辺の部落では別天地の意味で「チロリン村」と呼んでいる。(編集:吉田のお節介注釈)




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