死神に嫌われた先輩たち Home



  2014.08.01     6組 榮 憲道

 私が所属している名古屋市瑞穂区の『歌曲の会』は、男女合せて20人ほどの”歌好き”のグループだが、昨春、80歳以上が会員資格の《エイティーズ》なる会が発足した。
 「平均80歳という歌の会が新聞に紹介されていたが、全員80歳以上の歌う会はどこにも見当たらない。我々で同年輩の人に元気を与えたい」

 昭和5年(1930)生れ、83歳を迎える会長の音頭で発足した『歌曲の会』の別働隊である。メンバーは男6人に女性2人、男性の方が多い。『歌曲の会』の男性は9人だから、3分の2が80歳以上ということになる。月に2回、その例会に引き続き30分ほど居残って、東山先生(名古屋二期会所属のソプラノ歌手で名古屋音楽学校講師)の指導を受ける。

 「オーバーエイティーの会」と私が口を滑らすと、「オーバーはいかん。エイティーズでいこう」と会長、意欲満々である。会長は地元の名士であり、政治経済界にも人脈は広い。
 その一つ、『愛知歴史研究会』では副会長を務め、先頭に立って香川県の金比羅さんや山形県の出羽三山(全て)の長い石段に挑戦している。”花より団子(酒)”の会長のこと、完歩したかは定かでないが足腰もまだまだ健在である。最近では愛知教育界の父とも言える日比野寛翁の承伝を上梓して、5月下旬にその講演会を開催している。私はその裏方として駆けつけたが、2時間立ちっぱなしでの熱演で衰えを知らない。

 この日比野翁、県外出身の私には初めて接する尊名であったが、慶応2年(1866)、尾張国中島郡大里村(現・稲沢市)に生まれ、東京帝大卒業後、農商務省を経て明治32年、33歳の若さで愛知一中(現・旭丘高校)の校長として就任、以来17年の長きにわたり「知育・徳育・体育」を教育指針として掲げて校風を確立、在任中に私財を投げ打って育英商業高校(現・東邦高校)を設立して自己の教育理念を貫徹させようとした。退任後は衆院議員として国政にも進出、また考案実践した日比野式走法は我が国だけではなく世界でも知られ、マラソン王とも称された傑物であったようである。会長はその直孫と一中で同期で競走部の朋友、その縁で資料を纏め、執筆したとのことである。

 同じ研究会に属するTさんは、真夏の35度の炎暑の中を18ラウンドのゴルフを悠々?楽しんでいるし、その他にも、毎朝一杯(どころではないと思うが)引っ掛けて例会に出てくるNさんなる猛者もいる。会が終われば今池の馴染みの居酒屋などで酒盃を重ねる。ビールは飲まない。日本酒オンリーの正に”酒仙”連中である。我が女房殿も会長とは少しだけ面識があるが、 「歌・映画に加えて囲碁・麻雀、酒にタバコにゴルフとは・・・。 
 並みの人ではとても太刀打ちは無理、あなたの老後には何の参考にならないわよ」 その《エイティーズ》は一 年が経過したが、腰折れどころかますますもって活況である。「お前は会の幹事だから、たまには見学しろ」との会長の仰せでときたま隅の方に坐って聴いている。練習曲は、会長の得意な戦前の歌謡曲とか日本民謡、さて は小唄や端唄かと思いきや、「マリア・マリ」「歌の翼に」と本格的な歌曲を真面目に歌っている。
 
 「おい榮、家に帰っても居場所がないだろうから特別許可する。お前もエイティーズに入れよ」 Tさんから声が掛かるが、「いや、私にはまだ早過ぎます」、丁重にお断りしている。先輩たちの日頃の行いからして、当然天国からはお呼びがかからないだろうし、地獄の閻魔大王にも嫌われているようだ。まだまだ会は長続きしそうである。

 私が《エイティーズ》の会員資格に達するのは7年先、そのときまだ『歌曲の会』に在籍し、元気に歌っていられるかとても自信がない。がとにかく、この元気過ぎて死神に敬遠されている先輩たちにあやかって、傘寿、いや、まずは4年先の喜寿を目指して頑張っていきたいと考えている昨今である。 
                           (2014年8月 記)


《一言メモ》
 全国高校野球の地方大会が大詰めを迎えています。神奈川県では東海大相模高が伊勢原の向上高校を破り、愛知県ではこのエッセイに登場した東邦高校(名古屋市名東区)が栄徳高校(長久手市)を破って甲子園に駒を進めました。この2校は私の家から東西の逆方向ながら、共に車で10分ほどのところにあります。両県の代表校はまた若いエースが大活躍、甲子園での進撃を期待しております。


                                       (完)

         
        1つ前のページへ