有縁・奇縁 - 9 - Home



  2013.12.20     6組 榮 憲道

 我が音楽史 -5-  「音楽まんだら その6」 仙台慕情

 ♪ 広瀬川流れる岸辺 思い出は帰らず・・・
  瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない

「青葉城恋唄」は、杜の都仙台を舞台に、結ばれることのなかった青春の残影を切々と歌った名曲である。青葉城の本丸跡には伊達政宗公騎馬像が建立されているが、近くに「荒城の月」を作詞した土井晩翠の詩碑がある。そしてその下には広瀬川が流れ、東北大学の緑濃いキャンバスの先に仙台の市街が広がっている。
私は、小学校時代の初恋の人の残影を捨てきれずにエッセイや短歌に託して、「本当に未練がましいのね」と女房や娘に蔑まれている。《初恋は実らない》を地にいった人間であるが、小田高同期のなかで同級生同士で結ばれたカップルを二組知っている。

 5組のYさんは、高校卒業後、どういう経緯か定かでないが、大変仲良くなってお互いの家を往き来、お互いの結婚式に祝辞を述べ合っている。中学三年のとき、私の隣のクラスで彼が委員長で彼女が副委員長、美男美女の似合いのカップルであり、確か彼は白山中学吹奏楽部のひとりでもある。

 そしてもう一人は私と同じ6組のIさんである。彼は東北大学に進学し、サークル(ESS)で出会った彼女と広瀬川の畔りで愛を育んだようで、今は年に一度、宮城県の両親の墓参に揃って訪れているという。カラオケで「青葉城恋唄」をよく歌うそうだが、歌と違って《あの人といつも一緒に居る》幸せをかみしめているという・・・なんとも羨ましい限りである。

 東北大学出身といえば、《歌曲の会》の大先輩(前号の写真では前列左から2番目の人)にもおり、また私が入社したとき独身寮の隣の部屋に入ったのが東北大ボート部のコックスをしていたというTという男。研究所で大豆タンパクの開発に没頭していたが、非常に個性的でまた愉快な男であり今も交友を続けている。大阪・名古屋・大阪と西に流れた私なのに、不思議と東北は縁が深い場処である。

 実は、この仙台は私の妻の故郷である。太平洋戦争の末期、仙台で招集された義父は豊橋において終戦を迎えたそうである。その後、東京・文京区で小さな紙工所を興し、軌道に乗るまでの間、妻は母の実家(仙台市泉区)で小学校5年生頃まで育った。
 そんな関係で、今でも仙台のいとこたちとは深い付き合いが続いており、私も何回か仙台に訪れている。そんな彼女とは東京赤坂でたった一度の偶発的な出会いで結ばれたが、喧嘩しながらも半世紀近くを、まあそれなりに仲良く歩んできた。人生には時として不思議な巡り合わせがあるものである。

 そして・・・
 このエッセイを纏めているうちに、来年の“挑戦”は、新潟の最北端・村上市に住み、“鼻曲がり”で有名な三面(みおもて)川の鮭獲りと碁三昧という大学時代の友を訪ねて、村上名物“さけびたし”を味わい、素人6段の腕を持つ彼から囲碁の指導を受ける。更には、かって妻と訪ねた女川や石巻といった東日本大震災の被災地と、仙台に眠る妻の両親のお墓に献花を捧げて冥福を祈り、郡山に住む中学時代の親友を訪ね、最終目的地の茨城の息子の家を辿る東北歴訪ドライブを敢行するつもりになってきた。

 ♫ いざ行かん思い出づくりの旅ごろも遊行期なれば悔い残すまじ
                               完   (2013年12月 記)


 (追記)
 我ながら少々冗長なこのエッセイを、最後まで読んでいただきありがとうございました。そして、勝手に登場させていただいた諸兄にはご迷惑をおかけしたかと思いますが、どうか寛大にご勘弁いただけたら幸いです。

 今年もあとわずかです。内外ともに相変わらずいろいろな問題をかかえて年越しとなりそうですが、皆さんには、どうか御身ご大切に、明るい新年を迎えられることを祈念しております。来年もまたよろしくお願いいたします。

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