私がソビエト連邦の首都モスクワを初めて訪れたのは1978年の8月であったと思う。この頃の共産圏諸国はパスポートに入出国のスタンプを押さなかったため、記録が残っていない。鉄鋼省から鉄鋼プランとの生産管理コンピュータの引き合いを受け、一人でモスクワへ出張した。交渉相手はユダヤ人だという男性と鉄鋼省のお役人である女性である。
彼らの交渉は面白い。最初に決めたいことを議事録にして持ってくる。会議ではその議事録を検討して、その字句に変更を加えるのである。間違いは起こらないが、新しい提案やアイデアを導入することは難しい。さらに厄介なことに会議は英語で行うのだが、ロシア語しかわからない人のために通訳を付けたところ、ドイツ語ーロシア語の通訳しかおらず、仕方なく英語ードイツ語通訳も入れた。英語を一言しゃべるとドイツ語とロシア語が流れる。ロシア語を一言しゃべるとドイツ語と英語が流れると言った具合である。
会議の結果彼らがやりたいことは何かをつかめたので、一晩で提案書を書いた。驚いたことに夜中の12時になっても窓の外は明るいのである。「白夜」という言葉はあるが、体験してみて漸く言葉の意味がわかった。翌日は寝不足気味になって会議に出席した。
私の泊まったホテルは「ホテル・ウクライナ」でクレムリンへ通ずるアルバート通りに面していた。ホテルは湾曲するモスクワ河のほとりにあり、地下鉄のキエフ駅に近い。地下鉄を利用してトレチャーコフ美術館や、ウスペンスキー大聖堂等を見に行った。当時外国人の行動は常に監視されていて、市外へ出ようとするとすぐに捕まると聞かされた。
町中の商店には品物が何もなく、ホテルの掃除係の女性にチップ代わりにナイロンストッキングを渡したら大層喜ばれた。ベッドは藁のマットを使っていて、体の形が藁に残るため寝難いことこの上無しであった。冬に行ったときはスチーム暖房が効かず、オーバーを羽織って寝たこともある。
商談が大詰めに近づいたとき、1979年12月にソビエトがアフガニスタンへ侵攻し、そのために破談となってしまった。足掛け3年を掛けた商談であったから、残念に感じた。
この間につきあったロシアの人々は、素朴でおおらかな人が多かった。会議の後必ずウオッカで乾杯するのだが飲み振りがすごかった。ウオッカをコップについで水を飲むごとく飲み干すのである。それと同じく、ロシアの人形は誠に稚拙で素朴なものであった。
2010年にモスクワを再訪したのだが、町には品物が溢れ、女性が美しくなったことに驚いた。