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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載します
2013.08.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第1回 テヘラン編」
 ● イランーテヘラン(1978年)

 1978年の夏、私はテヘランを訪れた。テヘランはほぼ東京と同じ緯度にあり、標高は1200メートルと高い。しかし、夏の気温は42-43度に達するので暑い。鉄鋼プラント用コンピュータ制御の引き合いを受け、急遽テヘランを訪れたのであるが、現地につくや否や商事会社の駐在員が直ちに打ち合わせに行ってくれという。スケジュールが変更になり、今から打ち合わせがはじまるのだという。

 汗だくで車に乗り込むとクーラーが効いていない。窓を開けようとするとドライバーから止められた。外気が暑いので、窓を開けると一層暑くなるのだそうだ。30分ほどで打ち合わせの会場に着き中に入ると、既に顧客のメンバーがずらりと並んでいる。ほとんどが男であったが、中に一人際立った美女が座っていた。これがペルシャ美人かと内心驚嘆した。
 これが災いして、説明に入ろうとしたところ言葉が出てこない。ただでさえ下手糞な英語が、美人にいい格好しようと思った途端に出てこなくなったのである。打ち合わせを這々の体で終わり、ホテルに戻った。

 翌日1日だけ空きができたので、タクシーに乗り市内見物に出かけた。ドライバーに「王の宮殿へ連れて行ってくれ。」というと、ドライバーが「俺たちの国には王様(King)など居ない。」とぶっきらぼうに答えた。「王様でなければ皇帝(emperor)がいるだろう。」とさらに尋ねると「居ない」と答えるばかりであった。

 イランは第一次大戦以前、実質的にロシアの支配下にあった。1921年レザ・シャーが英国の企てたクーデターで、コサック部隊を引き連れテヘランを占領し、1923年には新政府の首相になった。1925年にはアフマド・シャーをクーデターで追い出し、自ら皇帝位についた。そして在位16年間にイラン近代化を図ったが、1941年英国とロシアの圧力により、息子のモハンマド・レザ・パーラビーに皇帝位を譲り亡命した。1978年当時はパーラビー皇帝が父の意志をついで近代化の努力をしていたころである。しかし、イスラム文化を無視し、西欧化を図るパーラビー皇帝に国民の反感が高まっていたのだった。

 町の中で美人画を一枚買った。象牙の板に、つぼを担いで立つ美女とそれを座って見上げる鬚の男、を線彫りした図である。作りは粗末だが、絵は気に入っている。
 その後1979年にはイラン革命が起こり、この商談はつぶれてしまい、パーラビー皇帝は亡命した後に癌で亡くなった。

 絵をみてはあの美女を思い起こし、彼女は革命の中無事であっただろうかと案じた。日本へ連れてきた絵の中の美女には、革命の影響は全くなかったが、西欧教育を身につけた生身の美女にとってイスラム革命は厳しい運命であったろう。

イラン国歌

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