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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2013.11.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第4回 台北編」
 ● 台北(1981年)

 1981年8月真夏の日を受けながら、高雄の飛行場に降り立った。既に台湾入りして中国鋼鉄(CSC)のスラブハンドリングラインの現地調整を行っていたK氏から、客先との間で納期問題が起きてしまい、交渉支援に来てほしいとの連絡があったため急遽やってきたのだった。

 機械メーカーS社がプライムコントラクターとなり、当社はサブコントラクターであったが、S社が海外ビジネスに不慣れであったためか契約内容は穴だらけであった。特に納期遅れに対するペナルティ条項が厳しく、「遅れが出たなら如何なる補償にも応じる。」といった書き方になっていた。

 設計段階から仕様決定が遅れ始め、ペナルティを取られないように、とにかく収められる部分から納入しよう、と内部では打ち合わせていたのだがやはりクレームが付いてしまった。

 現地に着くとK氏から状況報告があり、Y社がペナルティとしてコンピュータを1台取られたとか、S社はクレーン1台をとられたとか、大変な話ばかりだった。我が社は入出力の点数が決まらないためCPU部分は正規の仕様で納入したが入出力架はキャビネットだけの空の箱を納入していた。

 早速電気担当のCSC担当者O氏と会い、入出力を早く決めてほしいと頼んだのだが、O氏は今から1週間夏休みだと言う。
 2ー3日後は機械・電気合同の打ち合わせがあるという。対策を日本側と打ち合わせるために用紙の長さが1メートルを超える様なテレックスを毎晩やり取りした。当時の通信手段はテレックスといって遠隔でタイプライターをうつような装置が使われていた。通信速度は8−9文字/毎秒 であるからゆっくりした代物だった。漸く対策を立て、合同打ち合わせに臨んだ

 CSCのプロジェクト責任者はH組長といって、相撲取りのような体格のよい迫力のある人だった。凄まじい形相で、納期が守れないならペナルティを取るという。O氏には可哀想だったが「我々が必死に努力しているにも関わらず、貴社の責任者が夏休みを取ってしまい、入出力を決めることが出来ない。これでペナルティを取るというのなら国際裁判にかけても良い。当社は正当であると言って争う。」と要求を突っぱねた。

 O氏不在の間CSCの若い担当者は大変気を使ってくれて、休みの日に我々を仏光山へ連れて行ってくれた。仏光山はCSCのある小港区からは直線距離で20Kmほど離れている。伽藍は巨大で、壁一面にはめ込まれた仏像に圧倒されてしまった。しばらく寺院の床に座り込み、「なにとぞ交渉が無事終わりますように」と祈った。
 仏様のご利益があったのか、CSCとの交渉は結局我々の言い分が通り、ペナルティは取られずに済んだ。

 帰路台北で買った小さな壷が写真の壷である。壷は小さいが思い出は深く大きい。
台湾国歌

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