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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2013.12.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第5回 シドニー編」
 ● シドニー(1993、1997、1998年)

 シドニーを初めて訪れたのは1993年で、自動制御学会(IFAC)に出席するためであった。次に訪れたのはインターネットによるIP電話の商談で1997年に3回、1998年に3回行っている。シドニーは今までに旅行した都市のなかでも一番好きな町である。こじんまりとした町と海とが調和し、人々の暮らしがゆったりとした時を刻んでいるかのような感じを与える。

 1993年のIFAC大会では、自動制御システムの目標を設定するための方法論を発表したのだが、そこで非常に衝撃的な論文発表を聞いた。日本経済は2030年には世界で40位以下に転落するという推定を発表した人がいたのである。口頭発表であり、予稿集を買わなかった所為もあり、発表者の名前を忘れてしまったが、モデルシミュレーションの結果その結論に至ったのだという。今はまだ日本の経済規模は世界第3位だが急速な人口高齢化を考えると、あながちこの予測は間違いではないかもしれぬと最近感じている。

 この学会の記念にもらったのが写真のブーメランだ。表面の絵はアボリジニの典型的な絵柄を手書きしたものである。白豪主義により弾圧され、一時は絶滅寸前にまでになった人々の芸術がこのような形で残されてゆくのは、良いことなのか悪いことなのか複雑な気分になる。

 1997年と1998年にはOzEmailという名前の会社が開発したIP電話をビジネス化しようとして、オーストラリア・日本を始め、韓国、香港、シンガポール、台湾、米国、等のISP(インターネットの接続サービスをする会社)があつまった。IP電話の利点は、インターネット網を通る音声は電話に比べるとただ同然に近い料金しか掛からず、両端の電話線に掛かる国内通話料金だけで済む点である。このサービスを使えば国際電話料金が従来の十分の一以下になる。しかしながら難点は、ネットワークが混雑するとつながらなかったり、切れたりすることであった。

 日本で1997年にサービスを開始すると、ブラジル、タイ、中国、韓国など海外から日本へ働きにきていた人たちに大変重宝がられた。しかし、交換局を運営していたOzEmailは十分利益を出すことが出来ず、数年で撤退してしまった。多くの顧客を抱えながら、サービスを止める訳に行かず、代わりのサービス会社を探し出し、通信機器をその会社の仕様に会わせて取り替え、なんとかサービスを継続したが、まもなくSkypeのような無料サービスが出たり、電話会社自身がIP電話サービスを始めたりで、ついには日本のVoIPサービス会社は少なくなってしまった。しかし、IP技術を電話の世界に広げるために、VoIPサービスは大きな働きをしたと思う。

 つい最近LinkedInというSNS上で、当時OzEmailの社長をやっていたS.H.氏に巡り会った。彼は当時まだ私より若く、スポンサーが付いていて羽振りが良かった。集まったISP会社の関係者全員をシドニー湾クルーズ・ヨット上でのパーティに招待してくれた。だが、メールによると今は病気を患い、一部脳に影響が出ているという。病名は書いてなかったが、脳溢血の様な病気だったのだろうか。
 病にも関わらずS.H.氏は「もしオーストラリアへ来る機会があったら、声をかけてほしい。自分の持つ施設を無料で提供する。」と言ってくれた。ありがたく思っている。

 インターネットは社会を変えた。素早い情報の伝達は世界中の人々の関心を引きつけ、小さな活動に大きな力を与えた。その力によりベンチャー事業が急速に発達したり、政治の体制変革を引き起こしたりした。通信技術は当初とくらべ飛躍的に発達した。考えて見ると私がインターネットのビジネスに入ってから、既に4半世紀が過ぎようとしている。当時の幼稚園児が立派な大人になるほどの時間が経っているのだから、インターネットの技術が大きく変わり、発達していても当然のことなのだ。
 
 オーストラリア国歌

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