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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2014.01.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第6回 ドイツ・アーヘン編」
アーヘン(1991年)

 1983年に南アフリカで自動制御学会のワークショップがあった時に、夫婦で参加したアーヘン工科大学のP教授と懇意になった。その後数回にわたり、P教 授が米国へ行く途中で、日本に立ち寄って講演をしてもらった。講演会の主催は研究所にお願いして、聴講者は研究所ばかりではなく、工場からも募った。当時 ワークステーションが出現し,米国のアポロ社がトップメーカであったのだが、P教授はアポロ社に関係していて、ワークステーションに関する最新技術を紹介 してくれたのである。

 P教授は謹厳実直な典型的なドイツ人で、私よりも1歳年上であったから兄貴分として付き合っていた。ある時、自分が教えている学生が、海外でインターン シップを取りたがっているので、あなたの会社で引き受けてもらえないだろうかと頼まれた。研究所に相談すると、単身寮を貸してあげるということになり、夏 休みを研究所で過ごすことになった。

 来日した若者は、大変素直で好感が持てる若者であった。彼の話を聞くと、教授には娘さんが一人居て親しくしている、ということだった。休みの日には寮の周 りの町を歩いたり、東京へ遊びに行ったり楽しんでいる様子であった。当時家内は数人の仲間と英会話教室に通っていたので、その仲間とドイツ人の若者を我が 家に呼んで、昼ご飯でも食べようということになった。若者に取ってはおばさんばかりの昼食会は面白く無かっただろうが、それでも片言英語で話しかけるおば さん達の相手になってくれた。

 会話がはずみ、しばらく経ったとき、若者が真っ赤な顔で私のところへやってきた。どうしたと聞くと、トイレへ行きたいのだが、おばさんにそう言うと全く違 う話をしてトイレの場所を教えてくれないのだ、と言う。おばさん達には、全く英語が理解できていなかったのだ。その若者がお土産に持ってきてくれたのが写 真の飾り皿である。この皿を見るたびにトイレのことを思い出す。

 1991年10月に オーストリアのクレムスという町で自動制御のワークショップが開かれることになり、その途中でアーヘンに立ち寄り、久しぶりに教授と再会した。教授はベン ツの真新しいスポーツカーを持っていた。素晴らしいとほめると、是非運転してみろという。なれぬ海外で馬力の大きなスポーツカーなど運転できないので、鄭 重にお断りした。その車でアーヘンの町を案内してもらったが、街全体が大学かと思うほど町と大学が一体になっていた。

 クレムスはドナウ河の河畔にある人口2万人ほどの小さな町であった。ドナウ河は毎年氾濫するので、去年はここまで水が来たなどと町人が教えてくれた。汽車 の駅にスロベニアのK教授が出迎えてくれて、次の日からワークショップを開くことになっている教室へ連れて行ってくれた。1991年6月にスロベニアは ユーゴスラビアからの分離独立を宣言し、共に独立を宣言したクロアチアはユーゴスラビアと戦争になっていた。薄暗い教室で私とK教授は長い間クロアチアと ユーゴの将来はどうなるのだろうか、戦争ほど悲惨なことはない、と語り合った。

 帰国してしばらくしてから、P教授から悲痛な手紙が届いた。奥さんが年下の男と駆け落ちしてしまったのだという。手紙には「なぜ妻が私を捨てたのか理解できない、自分は妻を愛していたのに。」ということが連綿と書かれていた。私はせっせと慰めの手紙を書いた。

 2年近く経った時に今度は再婚相手が見つかった、という知らせが届いた。そしてアーヘンを去ってスペインで暮らすことにしたという続報があり、私は再婚を祝ってプレゼントを送った。だがそれからぷつりと音信が途絶えてしまった。2回目の結婚が成功したのだろうかと気にかかっている。

 

ドイツ国歌

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