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 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2014.02.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第7回 モントリオール編」
モントリオール(1995年)

 カナダへは3回行っているが最も印象に残っているのは、1995年にモントリオールのN社を訪問した時である。当時私はMI社のフレームリレー・ネット ワーク建設の責任者であった。米国が1993年に情報ハイウエイ構想を発表し、インターネットの開発が急ピッチで進められた結果、日米の通信会社が従来の アナログ電話網をディジタル化しようと必死になっていた時期であった。N社はアナログ電話交換機では世界市場を制覇した巨大な会社であった。だが、ディジ タル技術で交換機を作るベンチャー企業が続々と現れ、なかでもStratacomの交換機は安定して良い製品だと言う評価が定着していた。

 当時ディジタル通信網の交換方式には、ひと世代前のX.25、新たに出てきたフレームリレー(FR)およびATM(非同期転送)があった。FRは 1.5Mbpsの伝送路を効率よく使う方式として開発された。ATMはもっと帯域幅が広いT3(45Mbps)以上の帯域を目指して開発された方式であ る。

 MI社の親会社であるM社はそのころ、電話交換機のビジネスに参入しようとしていて、N社とビジネス契約を結んでいた。当然MI社のネットワークに導入す る交換機は、N社の製品を使えと迫ってきた。私は機能/性能ともにStratacomが上であるから、N社の製品は使わない、と突っぱねたのである。そこ で、M社の代表とMI社社長および私がN社を訪問し、今後の開発計画と品質管理方針を聞こうということになった。

 合同ミッションが米国に到着し、サニーベールのM社事務所で打ち合わせを始めたとき、日本で大地震が発生したという情報が入ってきた。ニュースをやってい るというのでテレビを付けたが、真っ暗な中で、所々火の手が上がっているのが見えるばかりであった。M社代表は神戸から来ているので急遽帰国することに なった。

 残りのメンバーはモントリオールのN社を訪問し、開発計画や品質管理方針を聞いた。しかし、私は納得できないので、交換機3台の借用を申し入れた。そして その交換機をサニーベールへ持ち込み、日本から若いエンジニアを2名呼び寄せ、3ヶ月にわたり試験をおこなった。その結果2千件を超えるバグや仕様との食 い違いを摘出し、N社に改善を申し入れた。

 その結果まずStaratacomの交換機でネットワークを建設し、N社の製品が完全な物となった暁にはATM交換機として導入する、ということで決着し た。だが、このために私はM社の交換機担当役員と対立を深めてしまった。技術に忠実であることは、時には渡世の妨げになる。もっとも私が技術に忠実で人と 対立したのはこの時が初めてではなく、過去にも何度か繰り返してきたことだから、悔やむこともなかった。

 このときの思い出の品が、N社から贈られた銀のスプーンである。黒く変色しているところを見るとクロームメッキでは無かったようだ。模様はハイダ・イン ディアンのデザインだそうだ。彼らは船を操ることに長けていて、海上の戦闘で白人から軍艦を奪いその大砲を使いこなしたという。スプーンの柄の部分はトー テムポールの彫刻と同じになっている。
カナダ国歌

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