随  筆 Home



 記憶は物とともにあるシリーズは、全8回(8カ国)に渡って連載しています
2014.03.15    今道周雄

記憶は物とともにある「第8回 アメリカ編」
アメリカ(1967〜2006年)

 米国へ初めて行ったのは1967年でM社へ入社後4年目であった。目的は米国のW社から購入した制御用コンピュータP-550の教育を受けるためである。 米国は1965年にベトナム戦争に突入し、その年には黒人のモスリム指導者マルコムーXが暗殺された。1966年には全米でカラーTV放送が主要時間帯で 行われるようになり、ボクシングのヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが良心的徴兵忌避を宣言した。1967年にはデトロイトで人種差別反対の暴動が起 こった。このように社会情勢が不穏である一方、第二次大戦の終了から20年余りであるから、日本人に対する感情も良くはなかった。レストランに入れば背後 で「ジャップ」とののしる声が聞こえ、教育を受けているスクールメイトからは、首に日本軍の銃弾を受けた傷跡を見せつけられた。

 だが、私はこのように騒然とした雰囲気とはかけ離れて、アメリカの持つ可能性と新しい技術とに魅せられていた。一緒に教育を受けに行ったK氏と、ピッバー グの近郊であるウイルキンスバーグに小さな部屋を借り、共同で一台の車をリースした。週末には必ずドライブ旅行に出た。バッファロウ、ニューヨーク、ボル チモア、シカゴ、フィラデルフィア、ワシントン、コロンバス、シンシナチ、ルイスビル、などを見て回った。その時に頼りにしたのが、Rand MCNallyのRoad Atlasである。最初に買ったのが第43版で、その後第51版、第70版を買った(写真)。始めの2冊はぼろぼろになるまで使った。

 1967年当時、ひと月の生活費は決まっていて、しかも外貨持ち出し制限が厳しい時であったから、ケチケチしながら金をつかった。それでもたまに食べる1 ドルステーキや24時間営業のレストランの食事の量に感激していた。米国人は日本人のように残業しないと聞いていたが、実は 24時間働ける環境がそろっていて、工場は24時間フルに稼働していることに驚いた。

 1995年になってMI社の通信とインターネットのビジネスを手がけてから、頻繁に米国へ通うようになった。SC社にコンサルティングをお願いしたのだ が、その事務所はパロアルトにあり、所謂シリコンバレーの中にあった。シリコンバレーとはサンフランシスコ湾の西岸に広がった工業地帯をさし、インタース テート101号線とエル・カミーノと呼ばれる旧道が並行してその中を通っている。

 パロアルト出張に際してネクタイに背広姿で行ったら、インターネットビジジネスではTシャツがフォーマルだと教えられ驚いた。米国東部の会社ではその当時でも、ネクタイに背広が当たり前であったし、ファーストネームで上司を呼ぶ習慣も一般的ではなかた。

 インターネット成金が大勢居て、某社の営業部長はクラッシックカーを6台も自分の家のガレージに持っているとか、誰とかはすごい豪邸に住んでいる、と聞か された。これなら自分も百万長者の仲間入りができるかなと思ったのだが、そうは問屋がおろさない。休みも取れない滅茶苦茶に忙しい生活が始まった。

 これからはインターネットの時代だと確信し、MI社に頼んで課長級1名と入社したての新人女性1人を出してもらい、DTIというベンチャー企業を立ち上げ た。それが1995年11月のことである。当時はインターネット接続業者(ISP)の評判は、ネット接続スピードとつながり易さで評価されていたから、直 接日本と米国をつなぐ回線を持つことが重要であった。そこで、1996年1月に米国MCI社と交渉し、1Mbpsの海底ケーブル回線を借りることにした。

 ところがインターネットのトラフィックが見る見るうちに増加し、ひと月も経たぬうちに回線がパンク状態になった。そこで海外回線を次々に借り増し、また、アクセスポイントを全国各地に増やして行った。

 サーバーは最初サンワークステーションを8台使ったのだがこれもすぐ足らなくなり、ラックマウント型のサーバーを次々に増やした。そのうちに赤坂のオフイ スのコンピュータルームが満杯となり、電源容量が不足してきた。かくては成らじ、とデータセンターへの移転を行い、赤坂から太田区へサーバー類を移転し た。広々としたフロアーをみて、これがよもや満杯になることはあるまいと思っていたのだが、それも間もなく狭くなった。そこでブレード・サーバーと呼ばれ る薄型ですべてのサーバーを置き換えた。

 方や顧客管理用のシステムも拡張に追われた。米国のインターネット会社から購入したシステムでサービスを始めたのだが、2年目で早くも機能が追いつかなくなり、自社開発ソフトを使うことで切り抜けた。
 ビジネスの規模がこんなに早く拡大することは嘗て経験したことが無く、予想することも難しかった。ひたすら顧客の要望に応えることを考え、品質を落とさずに規模の拡張を追い求めた5年間であった。

 ビジネスには地図がない。ナビゲータも無い。企業は作るよりも、経営し永続させることの方がよほど難しい。これが私の感想である。
アメリカ国歌

          1つ前のページへ