悟正さんの随想


   空  海
2014.04.20
3組 山本悟正  

 私は昭和15年に東京・大森で生まれ、初参りは「川崎大師」だったと聞かされている。一年後に戦争 が始まり3歳頃、父が招集されたが、「蔵前高等工業学校」機械を卒業した経歴から戦地へ出兵せずに長 野県上田にある軍需工場へ徴用され、家族全員で長野県上田に疎開移住した。
 昭和20年戦争は終わったが、生まれた家は東京大空襲で焼け野原となっていて帰る家はなかった。 しばらく両親は疎開先の農家の世話になり畑仕事などを手伝っていたが、母は東京へ戻りたいと強く迫 っていたらしい。私の小学校入学間近になり、父が東京の様子を視に重い腰をあげた。 父の働いていた 大森の料亭「蟹・つるや」は無くなり熱海に「つるや旅館」を開業していることが分り、早速みんなで熱 海に引き上げることとなった。

 帰るその日、長野の「善光寺」をお参りし「無事を祈願」した。
高崎で一泊し、すし詰め列車にやっと乗り込めた。兄は弟を、 私は妹の手を引いての必死の引き上げだった。
 物凄い臭気の列車内で母は「お前は<お大師さま>を大事にしなければいけないよ」と言っていた真剣な顔を忘れられず、いつも <お大師さま>って何だろうと思っていた。
 熱海に住み着いてから<お大師様>のことは忘れていた。
 高校卒業と同時に上京し予備校へ通うことになり住込みの新聞店は自分の生まれた大森の住所の直ぐ近くだった。縁だろうか?
 間もなく熱海へ帰らざるを得ない事情が起こり戻ったが、初心を貫きたい気持で悶々としていた頃、 縁あって川崎の新聞店に誘われ置手紙を置いて家を出た。川崎に落ち着いて半年後母に居所を知らせる と「川崎かい、お大師さんの導きだよ」と返事が来た。正月、川崎大師に初詣し、幼い私の目を見てい た母の真剣な顔と「お大師さまを大事にしろ」の言葉を思い出した。
 遅い結婚をし、仲人が社長をしていた会社が新規事業を計画し、誘われて情報システムの会社の設立 に参画し、毎年年始めは「安全祈願」で川崎大師へのお参りに職場の代表で行かされた。会社は急成長 ・安定し、社員も増えて、福利厚生に力を入れ始め「茶道・華道」のお茶の先生を招き女子社員の為の 茶華道部ができ、その支援をするよう命じられ、お茶の勉強で禅・宗教などのことを聞かされ、空海が お大師様(弘法大師であることを知った。

 お茶の先生は「裏千家東京地区の支部幹事長」をしており、副支部長を高幡不動尊の管長がしている 関係から、高幡不動尊での茶会や茶道行事も多く、管長さんやお坊さんと接することが多くなった。
 高幡不動尊は多摩地区最大のお寺で、弘法大師のお寺でも有名であった。 家内の姉の長女が津軽・岩木山のお寺・求聞寺の住職 に嫁ぎ結婚式はそのお寺の本堂で行われ列席して仏式結 婚式を体験した。全山雪に覆われた古寺での結婚式には坊さんが20人くらい集まり大合唱の荘厳な式だった。

 参加した僧侶は智山派で皆空海の流れの弟子だった。その夫婦に生まれた長男が宗教大学を卒業し、高幡不動尊に修行僧として入山した。縁とはいえ、不思議た。
 中学校の同級生で長い宗教修行を積んで成田山・新勝寺 の高い位に就いて偉いお坊さんになったユニークな友人がいる。今は川越「成田山」の管長とのことであり、智山派・弘法大師の教えを広める高僧である。
 犬の散歩で毎日寄る近所のお寺「広福寺」には毎年大晦日に除夜の鐘を撞きに行っている。 最近は近所の参拝者が増えて鐘撞き待行列が長く連なり、108内の鐘を撞くのは難しくなった。 本堂に上がりご本尊に合掌し、犬の散歩で顔馴染みの住職のお母さんに挨拶をし、熱い<甘酒>をいただき、破魔矢を買って帰ってくるのを年越恒例にしている。お盆には「弘法大師盆祭」があり、近隣 の真言宗の僧侶が集結し、弘法大師を偲ぶ読経の後、弘法大師訓の話が聞ける。集まった檀家衆全員で 「南無大師遍照金剛」を七回唱え終了する。弘法大師は真言宗の開祖で大変偉大な僧であり、土木建築、 薬学、書などに長け、社会奉仕活動を広めた思想家であるが、本当のことはあまりよく知らず、とても私などの知り得る領域ではない。
 母は単純に私の初参りをした「川崎大師」にお参りをしなさいよと言っただけなのかも知れないが、 幼心に「お大師さま」という響きが妙に脳裏に残っている。

私が空海・弘法大師に縁があるのではなく、 弘法大師は日本中各地で多くの寺院開山や 社会事業・布教活動など社会貢献をして、 日本各地に多大な影響を残しているので何 処へ行っても「弘法大師」に接っするので あろう。母が「お前はお大師さまを大事に しなければいけないよ」と言っていたこと
を特に守ってはいないが粗末にはしていな い、気持に迷いが生じた時はつい「南無大師遍照金剛」と唱えてしまう。

お大師様が 山林修行したゆかりの辺地(へち)を、自分の脚で辿ることで、弘法大師の霊験にあやかりたい、という人々の願いから、八十八ヶ所をお遍路する人々が絶えないという。「八十八ヶ所お遍路」はお大師様の十大弟子のうち五人(四国出身)が、お大師様の教えを受けながら、この路を踏まれたのが始まりと言われている。

 現代は西欧の物質文明がもたらした経済繁栄と科学文明の行く先に翳りがさし、物質時代から精神・心の時代へ価値観が問い直されていると言われている。
現在地球上に残された自然「山川草木」を尊び、『空と海』とどのように対面していくかを考えるとき「真言密教」という芸術宗教を創出した「空海」の思想を探るのはいいかも知れない。


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