茶の湯に学ぶ Home



3組 山本悟正      gosei999@gmail.com
2013.08.01

 私が結婚し、子供ができ人並みの生活ができるようになった頃、縁あって大手企業系情報会社の設立に参画した。二年後会社案内の写真を撮ることとなり、お茶とお花の稽古風景を撮影しているとお茶の先生が「こんなところでシャッターを切らないでください、もっと正面から撮ってください」などと注意され、「お茶のいい写真を撮りたかったら、お茶の勉強をしなさい」と言われた。世の中の製造会社や先進技術の組織などは時代と共に衰退したり、消えていくのが多いが、宗教・大学・伝統工芸・郷土文化などは何百年も廃れずにあるのが不思議だったので、「伝統文化には興味はあります」と云ったら即、茶道:裏千家に入門させられてしまった。

 最初は正座すらできず、右手だ、左足だと立ち居・振る舞いからやかましく云われ、お茶は面白くも何ともなかった。「お茶は先生の言うことを素直に聞いてその通りやっていればいいのです、それが修行です」と言われ、やめられず時々サボりながら続けていた。やがて、何年かやっている内に少しずつ何かが分かり始めた。日本人の持つ「和する心」「他人をもてなす気持ち」「相手を思う謙虚な姿勢」「季節を愛でる感性」などである。少し面白くなってくると「道具の美しさ」「掛軸の禅語の意味深さ」「懐石料理やお菓子の素晴らしさ」も感じるようになってきた。

 先生に連れられ、いろいろな茶会や茶事に参加している内に「茶花の美しさ」「道具の銘や軸の言葉、それらの組み合わせの繊細さ」「茶室の構造の巧妙さ」「茶の湯所作の合理性」が少しずつ理解できるようになってきた。

 

 侘びの心は藤原家隆の「春をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」の一首に示されるという。辺り一面雪に覆われた冬の山河「静寂」な世界でも大地には春の息吹が躍動し始めている生命力「動」を詠ったものである。
 また「見渡せば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやの秋の夕暮れ」。花も紅葉も消え去り、何もない寂しい黄昏であるからこそ、川辺の小さな小屋に射す夕日の何と美しいことかと「寂」の精神を詠っている藤原定家の一首である。

 茶の湯の主役は軸であり多くは禅語である。軸は有名な書家や有名人が書いたものとは全く関係ない。禅寺で修行を積んだ高僧か家元が書いた「書」が良いとされている。字が上手い・下手とかの価値観ではないのである。長い年月苦行に耐えたお坊さんが選んだ言葉を解釈するのである。
茶会を開く時、亭主(主催者)が茶会のテーマに合った掛軸を選ぶのは難しくもあり一番楽しいことなのである。軸が決まると道具立て、床の間の花、菓子の銘、茶の銘柄、などの組み合わせが決まってくる。
 軸の禅語の解釈は説明されなくとも、自分で解釈し、亭主が客に何を言いたいのかを察するものでその人の人生経験と修行で様々であっていい。

 例えば、二双の軸(二つの軸を対に組み合わせたもの)で、一方は「松無古今色」・・松は古さ新しさの区別なくどの松も同じく緑で、四季を通じて色を変えない・・といい、もう一方は「竹有上下節」・・真直ぐな一本の竹でも上下の区別がある・・と説いている。松竹なので正月の茶会に好んで使われるが解釈は人夫々でこれが正しいという解釈はないのであるからその人なりの解釈で静かに謙虚に受け入れるのがいいようだ。    
 千利休の庭に朝顔が見事に咲いているとの噂を聞いた秀吉が 「その朝顔が見たい」と云うと、利休は夜明け前に弟子に命じ 咲いている朝顔を全部摘ませてしまう。朝早く秀吉が利休の庭 駆けつけると朝顔は一輪も咲いていないので不思議に思いつ つ、狭い躙口(茶室の入り口)を開けると床には見事な凛とし て咲いている朝顔が一輪生けてあり、僅かに差し込んだ朝日が 朝顔に射していた。

また、秀吉が桜の花見に行き、帰りに満開の枝を折り利休に
「この桜を生けてみよ」と命じた。利休は秀吉には待合(控え
の間)で待ってもらい、弟子に大きな水盤にたっぷりと水を張り床に置かせ桜の枝を左腕に強く叩きつけ花びらを散らせてしまった。花びらが水盤一面に浮かび、廻りの床畳にも飛び散ったまま秀吉を招き入れた。「いつまでもあると思うな仇桜 今夜嵐の吹かんとぞ思う」といったところだろうか、散り際の潔さ、散って尚美しい様を表現したのだろうか。秀吉は利休の機転と美感覚に感嘆しつつも気の抜けない相手に対抗意識を持ち、いつか利休を唸らせてやろうと思考を凝らしたという。

茶席の客と亭主は互いに感性を鬩ぎ合い、「これがわかるかな」/「うーん、敵もやるな」と心の交流の緊張感を楽しむものであるようだ。

茶の湯では季節・時候をとても大切にする。季節を少し早めに表現し、やがてやってくる時候を感じさせるのである。

 茶道具や菓子はみな銘(名前)がつけられていてその銘が季節を表す物が多い。三月中頃、「ひな祭り」では既に遅く、「吉野」、「初心」、「春風」などもうじき桜が咲き、一つの時代が過ぎ新しい命が芽吹き始める季節を感じさせる演出をする。季節に関係なく付けられた銘もある。還暦を祝う茶会、掛け軸が「知足」、茶杓(抹茶を掬うスプーン)が「福寿」、お菓子が「熟し柿」、茶碗は「無心」など円熟した人生を思わせる「銘」の取り合わせなどどうだろう。

 茶室では政治談義、商談、日常生活の噂話、不幸な出来事、縁起の悪い言葉などは禁句である。すべからく季節の情感、夢のある話、建設的な話、楽しい想い出、茶会のテーマや設えを褒める言葉など同席している全員に共通の「なごむ」話題がいい。
 茶会は美術鑑賞の場でもある、美術館でガラスケースに入れられているような国宝級の茶碗でも手に乗せ、直接口を付けてお茶を飲み、人間国宝が作った工芸品でも直接手で触れて造形を鑑賞する独特の鑑賞法だ。何の変哲もない大きい耳かきのような古い竹の茶杓も由緒があり「何百年も大事にされ受け継がれてきた」由来を知り、大切にする心を養う。    
 茶席では時計、指輪、ネックレスは出された大切な茶道具を傷つける恐れがあるので外し、茶碗を廻し飲みするので濃い口紅もいけない。

 茶花は何でもいいわけではなく、わざわざ呼ばれて遠方から来た客に綺麗だからとどこにでもある花を見せても感動は得られない。珍しい花、まだ観ることができない早咲き、見事なできの花など驚きがある方が楽しい。基本的に和花でこれから咲く寸前の蕾がいいとされている、椿、梅、ムクゲは不朽の定番である。薔薇、チューリップ、蘭など立派で豪華でも洋花は適さない。匂いの強いもの、大柄の花なども避けたい。楚々と咲く野の花や山草がいいようだ。

 懐石料理の食べ方も厄介だが慣れるとごく自然で当たり前の納 得できる作法に気付く。湯を沸かす炭に香を焚き神聖な空気を演 出するので客は香水を遠慮するのがマナーだ。絹の上等な着物で 正座する茶室の畳はよく拭き清められているから客は清潔な白足 袋を履くが洋服の場合も白いソックスに履き替え畳を汚さない配慮が必要だ。

 
 
 茶会に招く客のメインを正客 といい、正客が連れを二~三 人選んで一緒に招待を受ける。 茶会の主催者:亭主は何ヶ月も前から、その日の為の花を育て、庭の手入れをして準備を始める。茶会の「テーマ」を考え、客に合わせた軸を選び、道具立て・懐石料理・お菓子など「驚き」を演出するの を楽しむ。正客は茶会の前日に亭主の家を訪れ、招待の礼を述べ、連客(連れの知人)の人となりを紹介し、了承を得て、訪れる時刻を確認する。近年は電話で済ますことが多いようだ。当日、客は少し早めに訪れる。玄関に打ち水がされていれば「用意が整っている」合図だ。入り口の扉は僅かに開けてある<手がかり>から無言で入っていく。
 閉じた扉は入ってはいけない合図だ。主催者側の出迎えはない。茶室の手前の控えの間も手がかりに扉が指一本位開けてあるので無言で入る、最後の人が<トン>と扉をしめるのが全員揃ったことの合図だ。やがて手伝いの者が<薄味>の飲み物を出してくれる。それを飲み終わり、気持ちも落ち着いた頃合いに茶室へ案内される。茶室でしばし待つと、亭主が静かに入ってきて茶釜の火に炭を足し、初めて「挨拶」の言葉を交わし、客は招待の礼と準備の労を感謝し、茶会の設えを讃える。
 家人と玄関や庭で出会うことは無く、客が最初に口をきく相手は亭主であって、使用人や手伝いの家臣とお喋りをすることはないのである。

とても厄介で面倒臭く、堅苦しいと思うが現代生活でも知人の家から特別招待を受け、よく掃除された部屋に上がり、高価なお茶と珍しいお菓子を出され、楽しい話をし、立派な絵、貴重なアルバムや愛蔵品を見せてもらい、大切な器で手作りの料理と特別な酒をご馳走になる日のことを考えてみれば、配慮すべき基本的礼儀は茶会と全く同じである。
「茶の湯」は宗教的作法であるから「神に捧げ、仏に供え、人にも授け、吾も食う」という考えを基にしていて現代社会でも大事な質素・倹約・謙虚・思いやり・献身・人との和・礼儀・節度など学ぶべきことが多いが実践はとても難しいことばかりだ。
 家の中にいつも一輪の花が有り、いつ客が来ても間に合う良質なお茶とお菓子を少々、そして楽しい話題を持っていることは心のゆとりと言えまいか。
 晩酌もいいが、時にはTV、携帯電話を消し、風の音を聴き、庭の花を眺め、何も考えず 独り静かにお茶を飲む一時があってもいい。

 「無事是好日」、何も起こらず、無事に一日が過ごせた日が「いい日」なのである。


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