悟正さんの随想
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「クリーン」
2015.10.04 3組 山本悟正

 夏は各地で花火大会が催され大勢の人が集まり賑わい華やいで楽しい!
先日、花火大会翌日の早朝に電車内から多摩川の河川敷の清掃をする集団を見た。
 近頃、公共施設や公園、駅前などに汚れがなくとてもきれいに清掃されているのが目につく。今迄あまり感心がなかったが、駅のホーム、商店街の歩道などもゴミが落ちていない、たばこのポイ捨ても見ない。よく見れば道路、公園、劇場、ホテル、レストランやスーパーの床・店内もよく清掃されているのは毎日、誰かが・何時か清掃しているのだろう。 この間、早朝ウオーキングで出かけた時ゲームセンター前の道がペットボトル、空き缶、カップ麺の器、たばこの空箱・吸い殻が散乱していた。帰りがけに通ったらすっかり綺麗になっていた。今しがた誰かが掃除したのだろう。

 夏、人気ある海水浴場の砂浜は早朝に大きな金網のローラーを装着したゴミ収集車がゴミ回収をし
ているそうだが、細かいゴミは金網をくぐり抜け拾い上げられないという。ある小学校が臨海学校でやって来て、生徒が横一 列になり、細かいゴミ拾い行進で往復したら30分
くらいで砂浜が見事に綺麗になったそうだ。公園や河川敷を清掃するボランティア団体もあるよう
だがあらゆる施設の清掃は今や高齢者や主婦の健康とささやかな収入源の仕事となっている。私の親戚の老人がボランティアで駅前の清掃を長年している功績に対しJRから感謝され表彰状をもらったこと知り、にわかに清掃に感心が高まった。河川敷を清掃するボランティア・イベントに参加している人に聞いた話ではイベントに集まった若い人を始め家族連れなど多勢の手により大量の空き缶、ペットボトル、コンビニ袋などが回収されるという、イベントにはロックバンド、和太鼓、フラダンスなどのアトラクションがあり、清涼飲料・ビール会社のスポンサーが付き費用を援助しているらしい。


 富士山のクリーン作戦も有名だが、新幹線の車内7分清掃は一度見てみたい気がする。今、どこの地域でもゴミの細かい分別収集が行われ資源再生利用に役立っているようなので極力協力している。 昔、子どもの頃家では生ゴミは庭の片隅に大きな穴を堀り、そこへ捨て土を被せ肥料にし、紙や木くずは風呂の焚き木にして始末していた。その頃はどこの家庭でも今ほど卵を多く食べなかったが、卵は大きなリンゴ箱の米殻の中に入れられて店先に置かれ、買うと古い電話帳の紙で作った袋に入れてくれた。今のようにポリ容器に入っていて食べ終わると入れ物が即ゴミになる事はなかった。味噌や醤油は量り売りなので空き瓶を持って行って買ってきた。今のようにポリビンやガラス瓶詰めの小売がなかったのでゴミは最小限度だった。
 夏の飲物ラムネやサイダーの容器は回収され再使用していた。寝間着だった浴衣は古くなると赤ん坊の<おしめ>に使い回し更に古くなると雑巾になり、最後は燃料となった。
 今の商品は煎餅やクッキーなど一つ一つをポリ系袋に包み、それを化粧ボール箱に入れてお店の紙袋に入れてくれる。清潔で素敵だが過剰包装と言えないだろうか?
 掃除機が無かった時代には飲み終わった湿った茶殻を畳部屋に撒いて埃を吸い取らせ箒で掃き集め植木の根元に撒いたり乾燥させて燃やしていた。
 今、掃除機はフィルターでゴミを掻き集め結局新しいゴミを生産している。
 先日の朝、コンビニのゴミ出しをしているのを見た。大量の売れ残り商品(弁当、パン、おにぎり、惣菜など)の大きなポリ袋がいくつも台車で運び出され、飲料水の自販機の横のゴミ容器はペットボトル、空き缶で溢れていた。


 昔と今を比較するのは時代錯誤でナンセンスであることは承知しているけれど生活を便利で簡単にすることはいいことに違いないが少し深く考えると何か喜んではいられない。
 話は矛盾するが、家の近所に小さな公園があり、女子中学生がたむろし携帯などをいじりおしゃべ
りしたり、高校生が集まり、カップ麺を食べたり、缶コーヒーを飲んでふざけあって楽しんでいた。
昼間は幼児を連れた若いママ連がコミュニケーションをしていて、夜は若いカップルがブランコで「愛」を語り合っていた。時には老人会の人たちがゲートボールをするなどちょっとした「憩いの
場」であった。町内自治会が市の補助で公園を整備し土面を着色アスファルトに、砂場は「野良猫のトイレ」となり不潔と「お花畑」にし公園周りを鉄柵で囲い夜間は施錠し古い遊具を撤去しモダンな水飲みも新設した。その結果学生たちは集わなくなり、ママ連も敬遠し、アスファルトになったのでゲートボールもできなくなった。何でも清潔でモダンであれば喜ばしい訳でも無いのが人間の心理であるようだ。
 商店やレストランなど店舗を綺麗にするには強力な洗剤を使用するであろう。洗剤は水に溶かされ汚れた水は川や海へ流され微生物や藻などの植物が浄化することはあるらしいがほとんど浄化されない。ごみ処理には電気・ガス・石油を使い、燃やされたゴミはCO2を排出し空気を汚すからゴミを片付ける(清掃する)レベルとは違ったレベルに移行していく。精神論・感情論を言ってはいられないけれど、それではどうすれば良いのか、産業構造・景気に関係するので何とも言えない!
 原発事故のこれからも長年出し続ける汚染物質は何十年もの間蓄えられてゆくのだ。消滅させる方法は研究されるであろうが、未だ無いようだ。
 私の父親が料理人だったので仕事場である「調理場」を見たことがある。一日の仕事が終わると、ある者は器を洗い、ある者は床に水を流し油や汚れを落とす、また別の者は調理器具を点検・整備し全員で「明日の準備」を整えていた。片付け・清掃は「一日の終りの後始末であり、明日への始まり」なのである。
 原発事故の後片付け・後始末はどのようにして「明日の生活への準備」が出来るのだろうか。老婆心で産業・経済優先・効率主義・利便性の追求の方向には首を傾げてしまうけれど実際は電化製品、コンビニ、物流の進化は確かに便利でありがたいのでどっぷりとそ
の恩恵に与かりゴミ作りに参加せざるを得ない。


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