悟正さんの随想
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 手 紙
2016.04.19 3組 山本悟正

 近頃、益々、物忘れが激しくなり人の名前を思い出せなく、読める簡単な字がすぐ書けなくなっていることを始終感じるようになってきた。
 現役時代、仕事でワープロを使い、近年はパソコンで漢字変換し文章を作るのが習慣となってから適切な言葉やいい文字が浮かばなくなってしまっているのを痛感しPCで作る文章は紙に下書きし、たまには手紙を書くようにもしている。
 電子メールは便利で読んだら消してもらえる利点もあるが、情感が残らない味気無さがある。手紙は時が経つ程にじんわりと情感が湧いてくるから捨てがたい。
 今まであまり、手紙は書かなかったが手紙に纏わる思い出はいくつかある。 高2の頃、通学駅のホームで毎朝見かける美しい少女がいた。

 卒業した中学の一年後輩で地元の高校へ入学したばかりの女子高生だった。いつも、セーラー服の襟にしわがなく真っ白でスカートのひだも真直ぐアイロンがかかっている清潔感が眩しかった。時々、バイオリンのケースを持っていたので音楽部だなと思って遠くから見ていた。本当にきれいな少女だった。
 彼女に手紙を書きたくなった。ラブレターと言うより<ファンレター>に近いものだったものを一度書いてみたが、感情が表せず稚拙だったので破いた。二度目に書いたファンレターはやや気持ちは出せたが渡す方法が思いつかず、渡す勇気も出なかったので又も破いた。

 高3の春、修学旅行で九州へ行ったとき、長崎で自由時間、道を尋ね案内されたきっかけで地元の女子高生と知り合った。同じ高3でやがては東京の大学へ進学したいと言うことなので文通を始めた。
 始めは平凡な近況を交換していたが、次第に感情の入った手紙になっていった。 机の引き出しにしまって置いた手紙を母親に見られてしまい、母から「二人とも勉強に身を入れなければいけないので・・」旨の手紙がいったようで、「東京の大学に入学したら、また逢いましょう」という<男名>の手紙が届き便箋の間に長い黒髪が一本入っていたけれど返事は書けなかった。

 高校の卒業式を終え、大学に進学が難しい家庭状況を感じ自分の力で道を開こうとあてのない事を考えているとき中学の親友の友情もあり<通学可>の新聞広告を見て東京大岡山の新聞販売店に住み込んで予備校へ行くことを決心し「自分の力で学校へ行きます、心配しないでください」という置手紙を書きいわゆる<家出>をした。
 降り立った東京駅は大変な騒ぎで本当に驚いた。「皇太子殿下・美智子様ご成婚」の日だった。東京の激流を直観し、2度深呼吸し腹をくくった。予備校に通い慣れ、落ち着いてきたので「店主家族のこと店員は私一人のこと食事の量と味の違いなど」を書き消息を知らせた。手紙の末尾に「店主から、外で何か食べるときは店名の入った自転車を置いて行くようにと言われた」と特に意味のないことを書いたら、間もなく店主から「お母さんが倒れて入院をしたそうだから帰りなさい」と言われ止む無く実家へ帰ると母はピンピンしていて「お帰り」と迎えられ「支那そばもろくに食べさせないようなところは辞めなさい」と笑っているのには言葉が出なかった。

 店は辞めてきてしまったので戻れず困ってしまった。幸か不幸か予備校の後期の学費が納められないでどうしようか迷っていた丁度良い時期ではあった。父親の知合いの家2軒の子の「家庭教師」のアルバイトをやり収入は新聞店より多かったが、翌年の春になり、中学校先輩のお姉さんが川崎の朝日新聞販売店の奥さんであることを知り、頼って行くことにし2度目の置手紙家出をした。
もー帰らない覚悟だったから、それから、3年くらいは誰にも居所を知らせなかったため成人式は知らず、同窓会の知らせもなかった。

 大学を1年前期で中退、デザイン学校夜間部も中退しいろいろなアルバイトをして写真学校へ入り、アパートを借り本気で勉強をする気になり両親に居所を知らせた。電気や電話を止められることもある相変わらずの貧しい生活だった。母から時々手紙がきた。母の手紙は「悟(のり)ちゃん元気かい、風を引いていないかい、お腹空かせていないかい、ちゃんと食べているかい、少ないけどお金を送るよ、最後の500円は使ってはいけないよ、お腹が空いたら帰っておいで・・」といつも同じ文面で煩わしかっ
た。当時、川崎から実家熱海迄の片道切符は500円で足りた。

 所帯を持ち息子が大人になり孫ができてから親の気持ちがよく解るようになった。息子が小学校5年生なった頃、つくば「科学万博」があり、連れて行った。会場の郵政パビリオンに「15年後の自分」にあてた手紙を書きタイムカプセルに収め21世紀最初の元旦に届くという企画があり息子にも書かせた。
送り先の住所を書く段になり「今の家いつまで住んでいるの?」と訊かれドキとした。その時、自分たちは借家住いだった。送り先は実家の住所を書き専用ポストに投函した。
 その後父母が亡くなりそれが届いたかどうかは判らず終いである。小学生の息子の心配を知り「自分の家」を買うことを真剣に考えるようになり、息子が中学へ入る2年後にすぐ近所のマンションを買い引っ越した。
 結婚し家内のお腹に子供が宿ったころ、仲人の強い薦めでカメラ業を一時休止し、仲人が社長をしている会社に勤めることになり、新部門配属となった。その部門が独立することになり、新会社の設立から参画した。新会社は最先端「情報システム会社」で初代社長には親会社からの天下り役員が就任し成長産業の育成に意欲的であり、親身になって我々を育ててくれ、私の人生で大切なことをたくさん教わり最も尊敬する人となった。

 社長・会長・相談役を勤めて引退してから、自宅に出入りする機会が増えさらに知的で大切なことを学ばせてくれた恩人である。気品ある奥様とも親しくさせてもらい、恩人が亡くなってからも何かにつけてお宅を訪ねては愉しく話をさせてもらっていたが、昨年11月に94歳で亡くなってしまった。今も忘れられない人である。
 時々訪ねては自分勝手な話を喋りまくって帰ってくると必ず3~4日後に鳩居堂の和紙便箋と封筒で丁寧な礼状が届いた。文末にはいつも「悟正さんがそうゆう風に毎日を元気に楽しく暮らしていられるのは文子さん(家内)のお蔭よ、しっかり感謝なさい・・」と結ばれていた。 インターネット、スマホなどでコミュニケーションや連絡が簡単に敏速にできる時代で良いことではあるが電話や手紙のアナログ通信は捨てたくない。

 先日、写真の仕事で若い人たちと待ち合わせをしたとき、一人の青年から「スタバ なう」
というメッセージが全員に届いた。「早く着いたので、スターバックスでコーヒーを飲んで時間を調整してそっちに向かいます」という意味の連絡だそうである。 いやはや!


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