悟正さんの随想


  事 始 め
2015.02.09
3組 山本悟正  

  暮れには新しい年に向けて片付けておくべきことを忙しく片付け、大晦日には「年越しそば」を家族で食べ、除夜の鐘を突いて煩悩を消して、新しい年へ気持をリセットする。
 元旦には分厚く束ねた<年賀状>の一枚一枚を読んで「お久しぶり」の人たちに思いを馳せる。正月が明けると、「初夢」「初詣」「書初め」「初荷」「出初め式」「初釜」など何事にも「初」が付いた恒例の「事始め」が行われる。何かを境に新規な気持ちに切り替え、やり直す気概を持つのはいいことで、正月は正にその時だろう。
 近年は暮も正月もあまり<らしくない風情>があるが、世の中の動きが忙しく、明るいニュースや話題に乏しいのか、今年は一層「正月らしくない正月」を感じた。
 随分昔ではあるが、自分が子供の頃の元旦には料理人である父親が一年に一度だけ「黒紋付・袴」姿で旅館へ出勤し、昼近くに帰って来ると隣・近所へ年賀の<手ぬぐい>を持って挨拶廻りをし、父の帰りを待って遅い<お雑煮>をみんなで食べた。
 父が客に料理を出す仕事なので家族全員の食卓は本当に一年一度だけだった。 母は晴れ着の上に新しい白い「割烹着」を着けていくらか化粧をしていて、綺麗だった。
 私が年男の正月には「今年は悟ちゃんの辰年だから作ったんだよ!」と黒字に金・銀の 龍の刺繍が織り込まれ新しい帯を締めていたのは嬉しかった。
 正月、切れたり、小さくなった子どもたちの衣類を新しい物に新調してくれて、一人一人に何か一つプレゼントもあった。手袋、襟巻き、足袋、下駄などだったが、新しいものは友達に冷やかされそうで気恥ずかしかった。
 父が子どもたちにくれる「お年玉袋」の裏には小さく名前が書いてあった。それぞれの中身の額に差があったのだろう。

 火鉢で「雑煮」の餅を焼く係りはいつも私だった。母は私に「焦げ付かないように上手く焼くんだよ!」と命じた後<餅焼きは乞食にやらせろ>と笑いながら云うのが毎年の決まり文句だった。乞食は腹が空いていて早く食べたいから、せかせかと裏返すから<焦げずに上手く焼ける>ということのようだった。 正月二日になると近所の悪餓鬼小学生が集まって、こま回しを競い合った。年玉でコマを買うからだろうか。
 コマは硬い木の本体の縁に厚い鉄の輪がはまり、太い鉄芯の大きな「鉄輪コマ」だった。コマとコマ紐は各自が秘策の手入れをしていて、手入れの仕方は先輩から後輩へ伝授されていた。コマは古く傷のついた汚い物が貫禄で新しいものは「新コマ」と言われ、間違えないように名前や個性的な印を付けてあった。コマは2〜3個持っているのが普通だった。
 鉄の芯が緩んだりしないように母親に内緒で<ぬかみそ樽>の中に漬けて鉄を錆びつかせているのが見つかりひどく叱られた。 コマ回しの初めは全員が訳の解らない歌を唄いながら、紐をしっかり巻きつけ最後に「妙な掛け声」で一斉に投げつけ勢いよく回す。次からは早く死んだコマから順に回し初め、強いコマが順にぶつけて回っているコマを殺していく「し烈なゲーム」であるから、準位を上げていくのは至難の技だった。
  女の子はよく覚えていないが、長い二本のゴムをダンスするように跳び越える<ゴム跳び>だったような気がする。コマやゴムは近所のおばさんが店番の駄菓子屋で売っていた。
 コマ回しの時、悪餓鬼は口端に「干し芋」とか「スルメの足」を咥えていたのも特徴的で、打順を待つプロ野球の選手がチューインガムを噛んでいるのをTVで観ると今でもそれを思い出す。「スルメの足」は暮に作った正月用<松前漬>の残りをくすねたものである。

 女の子の楽しみは<ぬり絵や着せ替え>、<おはじき><お手玉>などかな?
 男の子のポケットには「チエの輪」、女の子は「綾取りの紐」が入っていた。

 3学期が始まる直前に「どんど焼き」が行われる。小学校の校庭に門松、玄関飾り,しめ縄など正月飾りが集められ燃やされその火で神棚に飾った柳の枝や細い竹に指した白やピンクの団子を火にかざして焼き、煤だらけのあまり美味しくない団子を食べたものだ。
 その頃の「熱海」は旅館が沢山あり、各旅館・ホテルは大きな門松や玄関飾りがあるので、校庭は地区ごとに縁起物の山ができる。各地区とも町内で集め廻った縁起物の山の大 きさを競うので町内協力団結の「事始め」であった。縁起物の山に火がつけられ天に向かって炎と煙が上がり、門松の孟宗竹が「パン、パン」と弾けて景気良く「神を迎えた飾り」は火の粉とともに昇天していった。
 今の家族や子ども達はどんな風にお正月を楽しむのだろう。両親の実家に里帰りし、スーパーに予約した「お節」を食べTVやDVDでアニメやゲームを愉しんでも直に飽きてしまい2~3日後に混んでいる高速道路や新幹線で帰って来るが、それも想い出にしてしまう子どもの柔軟さは凄い。お年玉の額は昔と桁違いだ。
 海外へ旅行をした家庭の子は暖かい外国のホテルや海岸、珍しい風景、食事や英会話体験は強い刺激となって心に残るであろうし、外国の状況を垣間見る機会にもなるだろう。家族スキー旅行やドライブなどは今の子供達の愉しい想い出になるのだろうと思う。終戦間もない我々の時代は東京すら行ったことがなく家族旅行などはなく、近所の子どもが大勢集まって集団で遊ぶしかなかったが毎日実に面白かった。今はこどもが少なく集団で遊ぶ機会は非常に少ないので学校行事や部活、校外活動などが組織的に計画されている。
 豊かではなかったあの時代は、せこく、悪賢く、したたかで、いくらか残酷で、若干不潔な環境の子ども社会であったが、花粉症・アレルギー・イジメ・不登校などは知らなかった。少しくらい熱があっても、腹が痛くてもみんな学校へは来た。強い番長のイジメもあったが、悩むほどの事ではなかった。

 昨年、卒業アルバム用写真撮影の応援を頼まれ近隣の小中学数校へ行き多くの子どもたちと触れ合い、話をするいい機会をもらった。少子化の時代、親が介入しすぎ、面倒も見すぎている傾向はあるが、今の子どもたちは我々の時代より利発で、クールに判断でき、知識も広く、美意識も高いから心配しなくとも健全で個性的な少年・少女が育ってゆくことは間違いない。
 子どもにとっては毎日の出来事が「事始め」であり、成長の歩みであると思う。我々爺爺・婆婆世代としては子どもがもう今少し<粗野>でもいいような気はするが、ともかく孫たちの成長は楽しみだ。


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