悟正さんの随想


  ピアノ
2015.03.09
3組 山本悟正  

 2013年5月に母校「小田原高校」のホームカミングデーがあり、クラスメイトが講演をするというので行ってみた。城の中にあった伝統ある女子高と統合され建物は建て替えられ、昔の面影は全くない近代的ビルとなっている。講堂とも言える「視聴覚室」は実に立派なホールで驚く。毎年このホームカミングデーには卒業生や在校生のイベントが企画され、今年は卒業生の落語家の落語で笑った後、やはり卒業生の女性声楽家のコンサートが行われた。舞台にピカピカのコンサートピアノが出て来た。何と「STAINWAY&SONS」のコンサートピアノである。自分たちが在学していた旧制中学のバンカラな校風が自慢の男子校では考えられなかったことなので驚きと喜びの強い感動を受けた。

 私が音楽に興味を持ち始めたのは中学3年の時、芸大卒の若い男先生が着任して影響を受けたからである。その男音楽先生に特段の恩恵を受け、高校へ進学して「吹奏学部」でトランペットを吹くようになった。高校の音楽の先生は小柄でチャーミングな女先生だった。その頃から興味が強くなってきたJAZZのト ランペット譜面を持って行ってピアノを弾いてもらうと「これはJAZZね」と云ってピアノの練習曲の譜面を見せてくれた。
初めて見るピアノの譜面は物凄く複雑で細かい音譜に驚愕した。そんな高校生活でピアノに憧れ、特にグランドピアノの不思議な魅力に取り憑かれてしまった。

 高校を卒業、上京し、新聞配達しながら予備校通いをする貧乏生活の中、予備校の勉強に身が入らず、JAZZ喫茶でJAZZを聴き、僅かな小遣いでJAZZの名盤を買う事だけが唯一の楽しみであった。トランペットなどの名演奏に聴き入り、黒人のピアニストの演奏にしびれ、ピアノが弾けたら、どんなに愉しいだろうと憧れとコンプレックスの思いが強かった。いろいろなアルバイトをしている内に、近くの倉庫会社のアルバイトがあり、そこの所長が私の音楽好きを知り、ヤマハ銀座店の商品管理のアルバイトの話を持って来た。

 初めはバラバラになった「交響曲」のスコア(譜面)や各種教則本などの整理であった。慣れてきた頃から都内楽器店や音楽学校の譜面の注文対応をする係になった。
次に与えられたのが「輸入管楽器」の入出庫管理だった。扱っている楽器の写真を見せられ、先ずは楽器の名前を覚えろと云われた。楽器の名前は大凡わかっていたが、製造国・メーカーの名前は知らなかった。興味があり、直に覚えたので、係長から「君は勘がいいね!」と褒められ、その頃販売され始めた「ヤマハステレオ」の配送助手兼機器セッティングの仕事が与えられた。オーディオ機器には若干の知識と強烈な興味があったので嬉しかった。お客さま対応の良さが買われたのか、エレクトーンの配送助手兼機器設置・使用説明の仕事に移行していった。たまにはピアノ搬入立ち会いも出てきた。

 ピアノの搬入は子供の隠し切れない「喜びの表情」が見られる実に愉しい仕事だった。
辛いのはピアノの「引取り」であり、若いお母さんの「子供のいない時に来てください」 の声は哀しかった。それからはピアノ搬入立ち会いが多くなり、自分もピアノを担ぐ作業を志願した。そんなある時、逗子の高級住宅にグランドピアノを搬入することがあった。 丘の上に綺麗な家の並ぶ私には別世界の住宅街だった。綺麗な芝生の庭から広いリビングに運び込む実に簡単な作業だったので鼻歌まじりで搬入作業が始まった。


 突然、陸軍大将にようなお爺さんの一喝が飛んだ!「何だそれは、うちのピアノか?!100円のキャラメルだって一つずつ丁寧に包まれている! 汚い足で家に入るな! ヤマハという会社はそんな会社か?」と激怒している。通常ピアノ搬入は作業員の使い慣れた特製の布団や毛布で養生して室内を傷つけず、作業員の怪我を防ぐようにして運び込む、見た目にはあまり綺麗な作業ではない。足も階段や廊下などで滑らないように裸足で直ぐ脱げるゴム草履の出立ちである。早速、丁重に謝り、ピアノを車に戻し、後日出直すことを約束し引き上げた。 グランドピアノは工場で新品の専用布団に梱包され、木枠で厳重に囲い輸送されて来て、ショウルームに展示される。倉庫に持ち帰った問題のピアノをヤマハのマークの入った綺麗な布で包み、新品の布団で養生し、新しい木枠で囲って日を改め指
定日に再度搬入することとなった。当日、搬入作業員を4名にし、私は<立ち会い係>に専念した。作業員にヤマハのジャンパーを着せ、運動靴を履かせ、私はYAMAHAのロゴ入薄紫のブレザーに白ズボンという格好である。

 部屋へ入るときは全員新しい白ソックスに履き替え作業を開始した。ピアノを選定した先生も立ち会っていた。お爺さんは今日も怖い顔をして睨みつけている。ピアノをフカフカのシャギー絨毯の部屋に運び込み、止め金具を外し、慎重に3本の足を取付け、設置が完了、きれいにクロスで磨き上げて終了した。初音はお爺さんが椅子に座り、お孫さんを膝に抱きお爺さんの右手人差し指で『G(ソ)』をお孫さんの左手で『C和音(ド・ミ・ソ)』を同時に鳴らした。その後、ピアノの先生が試弾するとお爺さんは俄に可愛らしい笑顔に変わった。 若奥さんが冷たい飲み物、そして大きな寿司桶を出してくれた。お爺さんは「このピアノは孫娘の七五三のお祝いなのだ、ありがとう」とご満悦である。 製造番号を示し、「工場、出庫日、購入者、搬入日、演奏者など」の記録がヤマハ本社に永久に保存されますと説明した。これが私の役目の一番楽しいところである。先生が「お祝い日までに調律を済ませます」と笑顔で念を押した。帰り際にビール券と過分なご祝儀が入った祝儀袋をいただいた思い出の搬入だった。 ・・・ピアノとは不思議な魔力のある楽器だ・・・

 我家は中古マンションであるが、完全防音室がある。深夜でも大音量でピアノを弾けるし、ステレオで明け方までJAZZも聴ける。以前この家は息子のピアノの先生の家で、その先生(音大)が一戸建てに引越しをしたので即、私達が購入したのである。 元、防音室にはグランドピアノが置かれ、音大付属の生徒たちの個人レッスン室だったのである。この部屋から国際コンテストに入賞した生徒が何人も巣立っているのが私の密かな誇りではある。今、完全防音室は私の部屋で、先生が選定してくれた息子のYAMAHAアップライトピアノが置かれ、そのピアノは私のおもちゃになっている。
 防音室の壁に自分の撮った気に入りの全紙白黒写真を何点か吊り下げ、海外旅行の土産などでいただいた洋酒や友人からもらった酒類などを置いてBAR気取りの遊び部屋になった。照明を自作し、入口のドアーに小さな看板を出した。看板は『Photo
BAR Swing』とした。案内を出さないので客は未だに一人も来ていない、その内、親しい友人を呼ぼう。

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