悟正さんの随想


  弥 生
2015.05.13
3組 山本悟正  

 人には誰でも「三師あり」というが、私にも恩師が何人かいる。桃の節句の頃になるといつも思い 出す恩師がいる。
 自分の写真に限界を感じ、人の紹介でサラリーマンにドロップインした時に出会った「尊敬する人」 がその一人で有形無形の恩恵をいただき、数多くのことを教わり、いい話を聞かせてもらった恩師であり恩人である。写真が趣味で私の写真の話を喜んで聞いてくれた。
 恩人は東急沿線の新興住宅街に邸を建てて、自分の実母と暮らしていたが、奥様の手厚い介護の末、お母さんは亡くなった。
 その恩人も現役を退き隠居生活に入ったが、高齢な夫婦には広い庭と古い構造の家の維持が体力的に辛くなり、引越をすることになった。引越先が都心のマンションと聞いて驚いた。
 その郊外の家は二階建てで、夕方一・二階の木の雨戸計30枚を閉めて、翌朝早くまた直ぐに開けるのが老夫人には辛くなってきたという。庭の芝・草花の手入れも出来なくなってきた矢先、古くから来てくれていた庭師も高齢で働けなくなり紅白の梅の木、大木に実る大量の柿も悩みの種となっていた。
 六本木の中古マンションの続部屋二部屋を買い、一部屋に合体リホームして広い部屋にした。家内も訪ねて行ったとき扉が二つあり、一つは「勝手口」と書いてあるのを見て感心していた。トイレも二つあり一つが「来客用」だった。引越最大の問題である膨大な蔵書と書斎・美術品の整理が半端ではなかったので休みの土日、何週間か手伝うことにした。引越し後、奥様は「ゴセイさん、マンションは味気ないけど楽ね!」と喜んでいた。
 亡くなったお母さんはお茶をやっていて、亡くなった後、多くの茶道具を縁のある人たちに「形見分け」したいう。奥様は「ゴセイさんがお茶をやっているなら何か残して置きたかったわ」と残念がっていた。引越の準備をすっかり済ませ、最後にお母さんの部屋の仏壇を片付けると下の引き戸から古い<柳行李>が出てきて、大事にしていた帯、写真、日記などの脇に古い<茶杓と抹茶碗>が出てきたといって私にくれた。 
 その茶杓はお母さんがとても大事にしていて、いつも稽古していたものだったという。恩人の父親は土佐出身の士族で明治政府 第一次大隈内閣の大臣を勤めた政治家だった。その夫人だったお母さんが娘時代,鎌倉の「建長寺」
へお茶の稽古に通っていて、成人式を迎えた時、当時の管長がお祝いに削ってくれた茶杓であるという。包んである紫の絹の仕覆の先がぼろぼろに傷んでいることで毎日出し入れをして触れていた様子が伺える。当然、銘があり、箱書きも有ったはずだが、形見分けで誰かが持って行ってしまったのであろう。
 引越し後、マンションに時々遊びに行き、私がその茶碗で薄茶を点てたりしていたが、数年後恩人は亡くなり、奥様は一人暮しになった。奥様は質素・端正な人柄できれい好きで品格を重んじ凛とした人だが、冗談が好きで少女のようなところもある。お父さんは<華族>だったことを他の人から聞いて「なるほど」と思った。
 茶杓のことが気になっていたので、ある時、茶杓を持って建長寺に報告参拝に出かけ事情を話すと調べてくれて当時の管長は茶人僧としても歴史に残る高名な僧侶「菅原時保」であることが直ぐに判った。 恩人が元気な時、いつか「銘」を付けてもらい箱書きを書いてもらうつもりだったが叶わなかった。
 後年、私が茶道具屋に茶杓筒と箱を注文し、銘を『弥生』とした。亡くなったお母さんは三月生まれで名前は『弥生』だった。

 恩人夫妻のお嬢さんはアメリカの有名大学の教授(日本人)の奥さんで、毎月帰国して母親である奥様の身の周りに起る諸事をテキパキと片付け、整理をして、帰って行くことを繰り返している。恩人の死後数年もすると一人暮らしの老婦人には広すぎるマンションは掃除や片付 けも楽ではなくなってきた。 お嬢さん夫婦の勧めかも知れないが六本木の広いマンションを引き払い、すぐ隣街の超高層マンションの小さな部屋へ移り住むことになった。

 靴のまま入れるバリアフリーの床、トイレと浴室には救急ボタンと手すりバーが取付けてある。
 私は引越業者との段取りの打ち合わせ、引越の当日の立会い程度の手伝いをさせてもらった。
 遊びに行って能天気な近況を話すと必ず「内助の功のお陰ですよ、愛妻さんに感謝しなさい」と言われ る。奥様は我がままな主人に連れ添い、気を使う客も多く、長年お母さんを介護し、人には言わない気苦労も多かったであろうと思う。
 奥様と話をすると何故か<元気>が出るから不思議だ。 以前は訪ねる時、何か美味しそうな物を手土産に持って行ったが、近年はあまり食べられず喜んでもらえなくなってきた。家内が誕生日に蘭などを送っていたが、宅急便で届く大きな箱から花鉢を出すのが大変だし、鉢や土の処分が出来ない、入院している間は水もやれないというのでやめたが、いつも私が持って行く黄色いバラは喜んでくれる。
 毎月観に行っていた歌舞伎座や三越での買い物も出来なくなってきていて、お嬢さんが来たり友人が訪ねてくれると嬉しいがその後とても疲れてしまうと嘆いていた。今は定期的にデイサービスの女性の世話になっているという。私が尋ねた後には必ず 手漉き和紙の便箋と封筒で丁寧な礼状をくれる。

 季節の花の切手が貼ってあるのも奥様らしい。
 90歳中の奥様はいわゆる<老人施設>が嫌いで今でも病院と自宅を往き来し気丈にしている。来客が重ならないような日に顔を見せに行こうと電話をすると「暖かくなったらいらっしゃい」、「涼しくなったらいらっしゃい」といつ都合がいいか言ってくれないので行きそびれてしまう。
 
老いて来ると誰も行動半径に合った生活環境に移していくことを考えなければならいことを教えてくれている「師」でもある。


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