悟正さんの随想


  望 郷 横 浜
2015.06.13
3組 山本悟正  

 先日用事で横浜へ久しぶりに出かけて東京駅ほどではないが横浜駅の変わりように驚いた。20代後半、横浜の人たちにいろいろお世話になり、横浜へ行くことが多く<浜っ子気質>が親しみ易かったのか昔の横浜に郷愁が湧く。
兄(プロゴルファー)が程ヶ谷カントリー倶楽部で修行をしていたので、写真学校を卒業した頃、プロのトーナメントの写真を撮り始め、多くのプロゴルファーと顔見知りになり、ゴルフ好きな横浜の人たちとの出会いが始まった。 当時、程ヶ谷カントリークラブは保土ヶ谷にあり、移転する新コースが上井川町に建設され完成後移転し旧コースの跡地は横浜国立大学になった。
 程ヶ谷カントリー倶楽部に所属するプロゴルファーは6人位いて皆<中村寅吉>の弟子だった。その中の長男格・同じ名前の中村プロは日本プロ選手権で毎年上位入賞し活躍しているトッププロであり、長者町にあるゴルフ練習場のオーナーでもあった。
 練習場にはレストラン、BAR、洋菓子店、ゴルフショップなどの若旦那、プロ野球選手、プロゴルファー、映画俳優などが練習やレッスンを受けに集まり、華やかなゴルフサロンとなっていた。

 中村プロがそこに私の撮ったプロトーナメントの写真を飾らせてくれて多くのお客も紹介してもらい私の営業拠点となった。前回東京オリンピックの時、第三京浜ができ、横浜出口の三ツ沢競技場が近くなり
京浜地区<新聞少年>の運動会が行われ、私の相棒たちだった中学生4人による800㍍リレーが大会記録で優勝し、感動の涙を流した思い出は今でも彼らと語り草となっている。 高校時代に観た映画の影響か<港ヨコハマ>は憧れの街だった。
 大さん橋は「青年の船」の大型船に乗って始めて海外へ行った思い出深い場所である。
県警音楽隊の演奏する<蛍の光>が流れ、大勢の見送りの中に5歳になった息子を抱いた家内が手を振る姿を紙テープの間から探したのは映画の一シーンのようだった。

 山下公園脇歩道の両側には縁日のような露天が軒 を並べていつも賑わって活気があった。日本大通り の色づいた見事な銀杏並木は最も好きな風景だった。 伊勢佐木町通りはモダンな店が並んでいるが東京 の繁華街とは違う地元商店街の味わいがあり少し古 臭く垢抜けない感じはあるが鴻池、有隣堂など高級 感のある店を始めおしゃれな店も多かった。通りの 中程にあった美空ひばりがオーナーのナイトクラブ「おしどり」が異様を放っていた。
 

写真を届けた帰りに吉田町や福富町飲食街によく連れて行ってもらい焼肉やおでん・茶飯をご馳走になり若干の小遣いを貰うのは切なかったがうれしかった。
 ゴルフをプレーしている写真を撮るアルバイトだったので、金に困っていない遊び人との交わりが多く、中にはその筋すれすれの人たちもいた。
 港の沖仲仕(港湾労働者)のドンで任侠肌の会長とはそんなに親しくはなかったのに息子の結婚披露宴のスナップ写真を撮ってくれと頼まれ「シルクホテル」貸切りの大披露宴を撮らせてくれた。港から「注射と暴力」を排除することに尽力した人徳のある人だったので息子の披露宴には港湾関係者、横浜の有力者の他、石原慎太郎、河野洋平、ファイティング原田、俳優等有名人も多数が招かれていた。
 司会は若い時から親代わりとなりアメリカに留学させてもらった<ミッキー安川> だった。息子とのことより<親父さん>への恩義を涙ながらに語っていた。元町に大きなナイトクラブ「クリフサイド」があり、そこで<青江三奈>が唄ってい て、最も私に目をかけてくれたプロゴルファーKさんは彼女と特別親しい仲だった。
 青江三奈は茶髪の先駆けをした独特な風貌とハスキーな声で唄った「伊勢佐木町ブル ース」が大ヒットしたが、吐息が色っぽすぎるとNHK紅白に出場できない年があった。
 いしだ・あゆみの<ブルー・ライト・ヨコハマ>が流れる伊勢佐木町通りで小型バンの前で<藤圭子>がビールの空きケースに乗って「夢は夜ひらく」を歌い新曲宣伝キャ ンペーンをしている姿を見たことがある。
 映画:伊勢佐木町ブルースを観に行き主題歌を歌う青江三奈がスクリーに映しだされると客席のホステスたちが「三奈・・いいぞ!」と一斉に声がかかったのにはびっくりした。 アメリカの人気歌手<アンディ・ウイリアムスが初来日し赤坂の高級ナイトクラブ「ミカド」に出演し、ホステスに大モテの歓迎を受けた後日、横浜の「クリフサイド」で歌ったが、全然モテなかったという話も「浜っ子」らしくて愉しい話だ。
 埋め立て建設の始まった「本牧埠頭」建設現場の写真をある時期撮っていたが、知り合いの朝日新聞記者が5回連続の夕刊記事にその写真を使ってくれたのも思い出だ。

 中華街は教えてもらった3舗ぐらいしか知らないが、サラリーマンになってから暮の賞与が出ると毎年子どもと家内3人で食べに行った嬉しい思い出は懐かしい。
 結婚する前、デートで中華街の有名なステーキハウスでステーキを食べていたら、ウエイトレスがデザートを持って来たので「頼んでいない」というと「マスターのサービスです」と云うので見渡すとカウンターで手をあげているマスターは何回かゴルフの写真を撮らせてくれた知り合いだったことが分り<横浜には知り合いが多い>と自慢していたことが証明でき鼻が高かった。家内は今でもそのことをよく覚えている。

 横浜の地名や橋の名前は気のせいか何となく情緒 を感じる。中村橋、瑞穂橋、黄金橋、旭橋、阪東橋、 桜木町、長者町、福富町、若葉町、日ノ出町、花咲町、藤棚、元町、関内、伊勢佐木町などなどである。 私の横浜は唄の文句にあるような素敵な港町の印象とは違い、ちょっと危なげで不潔なところがあり、深入りしたくはない<ヤバイ>ところもあり、異国情緒のある風景、気取った洋式風情などそれらが渾然一体となった雰囲気が私の体質に合っていたのだと思う。 
 近年、会合などで<みなとみらい21>へ行くことがよくある。展示会や美術展、音楽会なども時々行く。ランドマークやスイカ型のホテルで食事をすることもあり、赤レンガ倉庫、日本丸、夜景、食事など愉しく・安全・清潔感があり、素敵であるけれど、あくまでも感傷に過ぎない私の「望郷横浜」ではなく全く新しい街の認識となり、懐かしい人や場所もなくなり、郷愁を感じない単純に遊びに行くモダンな街となった。自分の故郷や母校も同じで懐かしさ・思い出とはそういうことであろうか。


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