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遠藤紀忠氏記 「北洋の開拓者『郡司成忠』(海軍軍人)」 読後ミニ感想
2015.10.07
7組  斎藤良夫

 多分、私もその一人だと思いますが、「実弟が幸田露伴----」との一文に接して、『郡司成忠』の名前を急に身近に感じるようになった方が多いのではないでしょうか。遠藤氏が指摘するように、かつて小田原には近代日本の礎を築いた人々が住んでいました。陸軍・官僚の大御所「山縣有朋」、小田原で民法を起草した「伊藤博文」、龍馬暗殺現場に駆け付けた「田中光顕」、小田原に没した『坂の上の雲』のモデル「秋山真之」等々----。福岡藩主直系の黒田長成侯爵の別邸だった「清閑亭」(小田原市南町)をベースに活動している「小田原まちづくり応援団」は「小田原、まちあるき指南帖」を出して、上記の小田原ゆかりの政治家、実業家、文化人たちを紹介したり、<邸園・別荘>などを案内しています。また、小田原市主催で 「ドラマの主人公たちと小田原」というフォーラムとガイドツアーが開かれたこともあります。

 そんな中で、「郡司成忠」の名前は意外でした。私は国府津在住で、JR「国府津駅」前や国道一号線沿いに何軒かのマンションが建っています。新しく国府津に住み始めた人たちの中に、国府津・小田原についての勉強グループがあります。遠藤氏の記事をメールに添付して、私は約30人の仲間に送りました。マンション住人ではありませんが、小田原市内で幅広く活動して時々新聞や雑誌に登場している女性から10月6日にメールがあり、「大変興味を持ちました。(記事にあった)参考文献を読みたいと思っています」と書いてありました。

 私が先ず興味を持ったのは幸田露伴(1867年8月~1947年7月=本名・成行)のこと。「食卓にあったそら豆を見て涙ぐみ、『文(あや)には申し訳ないことをした----』と、しみじみと話していました」。JR「国府津駅」前にある老舗割烹旅館「国府津館」(現在休業中)の館主・簑島清夫氏の露伴についての話です。簑島氏は今年4月に満100歳を迎え、今もお元気です。もちろん、昔の話ですが、「露伴が泊まる」と同行の新聞記者から旅館に電話があった時、読書家の簑島氏は露伴のそら豆好きを知っていたため、わざわざ食卓に並べたと言います。文は「幸田文」で露伴の娘です。露伴はある時彼女にそら豆を買いに行かせたが時期外れで、文が街中を駆けずり回ってやっと手に入れたという苦労話を露伴は思い出したらしいのです----。
 その後、幸田文、青木玉、青木奈緒と続く露伴の娘、孫、曾孫が小説やエッセイで賞を貰うと、必ず身内で国府津館に泊まって食事を楽しんでいたそうです。私は露伴が国府津館に泊まった縁とばかり思っていました。それもあるでしょうが、それにしてもと、内心割り切れない気持ちもありました。今回の遠藤氏の記事に、「露伴は兄の成忠と仲が良く、露伴は小田原の郡司成忠宅を訪れていた」とあり、目から鱗が落ちる思いでした。つまり、単に国府津館が気に入っただけでなく、そのバックグラウンドに前々から露伴と小田原を結ぶ絆があり、もしかしたら文も成忠宅に行っていた可能性もあります。それが露伴の子孫と国府津館が代々繋がっていたのだ、と私なりに納得したわけです。

 もう35年が経ちますが、私は読売新聞東京本社の社会部時代、1979年冬~1980年春までの「南氷洋捕鯨」にカメラマンと一緒に同行取材をしました。この時、南極関連で「白瀬矗」のことを書いたことがあります。記事内容は、南極行までの資金集めと氷上行の苦労話、それに帰国後の白瀬の行動が中心でした。

 郡司成忠は「報効義会」を結成し、千島列島の国防と探検と拓殖を試みた、と遠藤氏の記事にあります。「樺太という貴重な代償で得た北千島を放置し、外国船の往来を許し、ロシアとの国境の島々を無人、無防備な侭放置している日本政府の政策を憂いていた」のが「報効義会」結成の動機とあります。「報効義会」の主なメンバーは退役海軍士官兵だが、そこに陸軍出身の白瀬が参加し、白瀬が苛酷を極めた越冬隊員の一人だったことが紹介されています。遠藤氏の記事には、私が触れることができなかった白瀬の南極行前の話を紹介されていました。

 この遠藤氏の記事を読みながら、私は「白瀬取材」で都内の白瀬ゆかりの場所を巡ったことを思い出しつつ、現在の北方領土問題を考えました。最近、日本とロシアの外相会談が行われ、会談後の日ロ外相が別々に行った記者会見をテレビで視聴しました。ロシアの外相は「領土問題は会談で何も出なかった」と話し、一方で、岸田外相は「(会談の中身は)領土問題が大半でした」と<苦笑まじり>で話していました。記者会見内容の乖離(かいり)と、日本の領土の北方四島で進められているロシアのインフラ整備の現実。

 遠藤氏の記事を拝読しつつ、「小田原を終の棲家とし、大正13年8月に64歳の生涯を閉じた明治の男 郡司成忠の生き様」が、今、改めて私の胸を打っています----。


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