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「タシケントの日本庭園」を読んで

2015.04.10    6組 瀬戸章嗣

 ウズベキスタンは、最近のサッカーで日本代表が見ごたえのある試合を演じた相手国であり、「サッカーが強い国」と知ったところでしたが、今回小林さん投稿の<シルクロードのオアシス都市に新しく日本庭園ができ、その建設に小田高健児が参加した>というご報告は、素晴らしい庭園とそれが市民に愛されている様を示す写真とともに、東西交流の新しいモニュメントを見る思いがして感慨深く思いました。ありがとうございました。

 ソ連解体後に新しい国として独立した旧ソ連州が12あり、それとバルト3国が、1991年を境にして、新しい歴史を歩んでいるのだろうという、漠然とした認識はあったのですが、それぞれの国の過去と現在については何も知らないと思い、時間の空いた今日、<タシケント>、<ウズベキスタン>、<国地域・外務省の基礎データ>をキーワードにパソコン検索をして、<シルクロードの世界>の旅を楽しみました。

 クラブツーリズムの<アジア秘境の旅>の<ウズベキスタンと中央アジア>というサイトにも出会い、その中に、ウズベキスタンで世界遺産に指定された、サマルカンドやシャブリサーブス、そしてブハラなど、<青の都><ティムール帝国><ジンギスカン来襲まで栄えたイスラム文化の古都>などのイメージが浮かぶ、昔の栄華を伝える素晴らしい写真を見ることができました。

 サマルカンドが<青の都>と呼ばれたように、イスラム教モスクの青色と空の青さが印象的ですが、バザールでの買い物おすすめの一つの<焼き物>欄にあった大皿の模様と青色を見て、日本の陶器の青い大皿と同じように見えて、<青色>が結ぶ歴史のつながりを感じた次第です。

 タシケントは、地下鉄もあり近代建築も立ち並ぶ、人口230万人の大都市なんですね。横浜市の370万人、川崎市の150万、小田原市の20万と比べて、旧ソ連圏で、モスクワ、レニングラード、キエフに次いで、4番目というのもうなづけます。独立前の人口が190万程度で、主体のウズベク人が半数で、あとの半数がスラブ系のロシア人やウクライナ人であったのに対し、今は40万人も増えて、スラブ系の比率が激減して、代わりに、タジク人、クリミア・タタール人、アルメニア人、高麗人などで構成されている多民族都市になっているのを知りました。

 外務省の基礎データには、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王による制圧から始まるウズベキスタンの略史箇条書きがあり、グレコ王国、クシャーン朝、ソグド人化、8世紀イスラム化、13世紀モンゴル帝国支配、ティムール帝国、ブハラ国、ヒヴァ国、19世紀後半ロシア帝国支配、1920年ソビエト化、1991年独立とあり、独立以後は全方位外交で、日本とは要人往来も盛んなことがわかります。

 日本庭園工事視察の写真があったガニエフ大臣は、2010年に副首相兼対外経済関係・投資・貿易相として来日し、2013年にも3回、2014年3月にも経済関係・投資・貿易相として来日しており、日本からは菅副総理兼財務大臣、麻生副総理兼財務大臣、茂木経済産業大臣などが行っています。

 日本は、2008年の主要援助国5国の1位で、2009年2位、2010年4位と出た後、5位までのリストから消えており、2012年は、ドイツ・韓国・米国・スイス・英国が並んでいました。

 外交面では、旧ソ連邦解体後、ロシア依存を脱却する全方位外交を展開、情勢の変化の中で、国内空軍基地へ米軍駐留を認めたが、2005年米軍撤退、ロシアとの同盟関係条約締結、ドイツ軍が駐留し、最近は、欧州や米国が接近姿勢にあるという、大きな動きを解説する記事も見ました。

 驚きは1991年の独立以来20年以上実質的権力者の大統領が同じで、国民投票で任期の延長や再選を果たして、今年77歳のイスラム・カリモフ大統領体制が続いていることです。経済に強い同大統領のもとで、2007年から2012年まで毎年8%以上のGDP成長率を達成しているのも知りました。

 今後興味をもって、<砂漠を繋ぐシルクロードの拠点の一つでの東西交流の続き>を見ていきたいと思いました。砂漠の感覚は、昔、商社の食品担当者として行った、イラクやアルジェリア、サウジアラビアなどでの、車のボンネットで卵焼きができた灼熱感と、日陰に入ると打って変わった涼しい快適感として私の中に残っています。

 

 


大倉冨美雄さんHPの<明治維新は失敗したのか>を読んで

2015.04.01    6組 瀬戸章嗣

 WEB11で、大倉冨美雄さんのホームページのブログを覗いたところ、明治維新に関して大変興味深い視点からの歴史分析情報とコメントがあり、歴史を<中正理解>して、主張のぶつかり合いの暴力が横行する、正に今の世の中や世界の中で、間違えないように生きるため、極めて貴重な一面の情報が、同期から提供されたと思いました。ありがとうございました。

 正しいと信ずることの実現の為に、自分の命だけでなく、人の命も犠牲にする行動をとる人が、昔も今もいるのが事実だと思います。そういう私は、人の命は別ときちんと整理していますが、侍の血筋を受け継ぐものとして、価値あることとの引き換えに、自分の命にはあまり未練を感じていません。
 そして、歴史書は勝者が書いてきたものですから、敗者から見た歴史を知ることは反面を知るうえで、とても大切なことではないでしょうか。

 薩摩から幕府へ嫁いだNHKドラマ「篤姫」も、<一方聞いて沙汰するな>と言っていますし、それはだれも認めているけれど、「理」だけで実行できないのが人間の「性」なのかと考えざるをえません。<愛国心><郷土愛><負けを拒否する心><やりかえし><かたき討ち><コンプレックス><盲目愛>などなどが絡むと行動への確固たる勇気に代わるというわけです。

 特攻隊、全学連、オーム真理教、イスラム過激派の自爆テロ、果ては自称近代国家でも、などなど。
<希望環境整備>、<対話による解決>、<法による解決>が、求められる所以だと思います。

 私は、明治維新の革命的功績とプラス面を評価する立場ですが、同時に、維新によって失われた日本の良さが見直されているのも、最近の世の中ではないかと感じているので、こういう歴史分析に出会うのも、一つの縁かと思った次第です。

 <よいものは良い>が、必ずしも<万人に共通してと>いうことではない、と思っています。


「塩のとり過ぎはよくないか」を読んで

2015.03.28    6組 瀬戸章嗣

 何事も、人それぞれで、ほどほどが良く、総合的なバランスが大切ではないか、栄養も摂取した物の体内での生化学的変化やその変化に運動や心の働きが影響していることも、段々科学の進歩で明らかになっているようだ、と思っており、<健康お宅>を自認する私ですが、同期から出された、最近の風潮に対する警鐘は、真に貴重だと思いました。

 <塩がなければ生きていけない><塩の味はありがたい>という世の中に生まれ、それを実感しながら育った我々です。<敵国の甲斐の国へ塩の道は解放した上杉謙信> の話や、昔世話になった人から、フィリピン・ジャングル敗走生き残り兵としての思い出で、<フィリピン島縦断の敗走兵士として、出発時、軽い塩を持って逃げたが、仲間から米やその他との交換を頼まれて食べ繋ぎ、多くの仲間が途中で、塩がないために力が出ずに 生き倒れて、自分は最後まで生き残った>と聞いた時、その判断に感銘し、マンションの管理人として、還暦を過ぎて、夏の暑い日に草刈りをしていて、<塩振って水飲む今日の暑さかな>と五七五を詠んだこともありました。塩の大切さは変わらないと思います。

 今でも、夏に運動するときは、水ではなく、スポーツ選手が飲むように、塩分が入っているソフトドリンクを飲むようにしています。

 物事の一面が、強調し過ぎて伝えられ、或いは受け取られて、それがそのまま伝えられるという、情報伝播のあり方に、同期から率直な警鐘が発せられたと思いました。ありがとうございました。改めて、<中立>を思ったところです。

 30数年前商社の食品担当として、福田首相訪問をきっかけに対日貿易を活発化させた フィンランドから、<塩分が少ない新しい塩>を輸入し、これは、日本の湿気に対する 準備がなかったために、ビンの中で固まってしまい、数年で輸入品販売を中止する結果になりましたが、その時、素人ながら専門家の情報を得た時の話をします。

 その時の専門家は、当時は島根大学におられた塩の人体への影響研究の新鋭第一人者と聞いた家森幸男先生で、その後京都大学の教授・名誉教授で、今も世界的なレベルで 長寿研究情報発信をされていると理解していますが、基本的には、平均レベルの話として、まだ、日本人に減塩の必要性を発信していると思います。

 だから言葉通りの<塩分のとり過ぎはよくない>というのは真実だろうと、私は思っています。

 問題は、<今の自分はなのか>、<10年間でなのか><1年間でなのか、1月でなのか、今日でなのか、今なのか><食べ合わせ抜きでなのか><カリウムやマグネシウム、たんぱく質その他の摂取が少ない時なのか><中和や排泄が進んでいる時なのか>などなど、総合的な<とり過ぎなのか>どうか、ではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

 ちなみに、昔専門家から聞いた話で、自分は専門家でないから伝え話ですが、東北の人は、冬の間を含めて塩分が高い漬物を多くとるから高血圧での死亡率が高いが、青森県のリンゴ産地では、リンゴのカリウムの影響で、塩素がカリウムと結びついて、悪さをしなくなるから、死亡率が低いと聞いて、今も、リンゴやカリウムを含むバナナを食べることが習慣になっています。

 また、塩素(-CL)とカリウムが体内でうまく結びつき易くする働きが、マグネシウムにあると聞いて、輸入した<新しい塩>が岩塩を精製した塩(NACL)が、普通の塩の75%で、残り25%がカリウムやマグネシウム等であることから、マグネシウムの働きを伝えるために、マグネシウムは、塩素(CL)をカリウムに運んで結びつける<運び屋><タクシー>だと宣伝した思い出があります。

 私は、血圧が100前後と、正常範囲としては低血圧人間ということもありますが、梅干しを美味しく頂いている毎日です。それでも、焼きバナナを美味しく食べたり、マグネシウムを含む牡蠣も心して食べながら、時に減塩効果を思ったりしているところです。




「安藤軍治生誕100年展」で小田高時代の世の香り彷彿

2015.03.18     6組 瀬戸章嗣

 同期斎藤さんのWEB11でのご案内を見て、彼岸日和の彼岸入り前日、「安藤軍治生誕100年展」に行き、斎藤さんとの初めての出会いを楽しむことが出来ました。部屋にいた人が、大山の獅子山の獅子を彫った人だったという奇遇もあり、会場蓮台寺の住職にもお目にかかることが出来ました。ありがとうございました。
 
 武蔵小杉から湘南新宿ラインの国府津行に乗り1時間足らず、平安中期の相模国国府が大磯町国府におかれ、その港となったことが地名の由来という国府津駅から15分ほど歩きましたが、会場の一遍上人ゆかりの時宗蓮台寺へ予めパソコンから取り出した地図をみながら、1㎞ほどの道沿いに、時宗海向山光明寺、菅原神社安楽院、蓮台寺の先に實金剛寺、八幡神社などがあり、先ず感じたのは町に残る歴史でした。
 
 蓮台寺の新客殿へ入ると、先にいた2組の参加者に熱心に説明されていたのが斎藤さんでしたが、作品を見て、何か懐かしい感じを覚えました。どれも見たことがあるように思い、それも、若い時に<良い>と思ったり、<女性の美しさ>と思っていた女性像だったと思い出しました。
 
 説明文によると、軍治が<現代の女性の美しさは、顔だけをアップした美人画ではとらえられない。動感のある肢体と表情を描いて・・・>と昭和32年から34年まで「主婦の友」の表紙を画いたとありますが、我々の高校時代と重なり、小学教師の私の母親が「主婦の友」を購読していたのを覚えていますから、懐かしい訳だと了解しました。当時の映画女優などがモデルで、15回掲載されたとあります。
 
 高校時代の自分の感じ方を振り返ると、<女性に恋をしたり、男女交際をすることは、未だしてはいけないことだ>と割り切っており、女性の顔を見たり、褒めたりすることも下品であると思っていたこと、ただし、<美しいものは美しいと認める>というようなこころの状態で、その頃の日記は手元にありませんが、<御殿場線で・・・と乗り合わせたが、・・・の脚が美しいと思った。>と書いたような記憶があります。作品の伸び伸びとした脚が符号します。穏やかな昭和皇后謹写も皇后様を懐かしく思いました。
 
 帰りに、斎藤さんから勧められて、駐車場側にある、「踊り念仏」の石彫レリーフや一遍上人・真教上人のレリーフ、いくつかの地蔵をみて、感動しましたが、それが、大山の獅子山を彫った同人物の作だとのことでした。
 
 昼前に会場を辞し、彼岸前の墓の草取りをしようと思い、御殿場線で山北へ向かいましたが、途中の松田で降りて新松田駅近くの中華「こまち」でランチを食べたのは、中学同級生の女将がやっている店で、中学同期がよく集まる店と聞いているからで、自分は2年振りですが、偶々、富士登山のリーダーしてくれた小田高同期の田中文一君が、ウロウロしながら店に入る私に声をかけてきて、今昼飯を食べたところだと言いながら、女将と3人で、軍治の話から、昭和19年に山北に疎開して10年住んだ画家「蕗谷虹児」の藤棚のあった家の話などして昔を語り合いました。
 
 墓参りを済ませ、帰りにも乗った御殿場線の車掌が若い女性だったのも新しい発見でした。


奥津紀一さん叙勲「3年3組3人目の栄誉」を読んで

 奥津紀一さん叙勲のお知らせをありがとうございました。3年3組の誇りをごもっともと思うと共に、小田高同期として共に慶びたいと思います。

 web11の奥津さんのホームページを開いて、「けんこうニュース新聞」「湧言飛語」「糖尿病にまけないために」「ターミナルケア文集」などを読み、そのお人柄が想像できて、楽しい出会いをさせて頂きました。

 診療時間設定などにも、工夫されているのを感じました。「けんこうニュース」の1月号に、勲章について、医師会長と校医についての短いコメントがありました。

 記憶に思い出せない人だったので、卒業記念のアルバム集を見ると、住所欄に足柄上郡<南足柄町炭焼所>とあるので、金太郎と共に我が郷土の誇りである二宮金次郎の、薪を背負った姿を思い出したりしながら、昔の<炭焼所村>が何処だろうかと探すことをしましたが、大雄山線和田河原駅近くの熊野神社がある生駒地区が、昔<炭焼所>と呼ばれ、馬に関係した職業の人達が住んでいた土地で、源頼朝の愛馬「する墨」も<炭焼所>の産という伝説があるのを
知りました。

 明治の町村制施行で<炭焼所村飛地>を含む10村合併で南足柄村ができ、昭和30年に福沢村、岡本村、北足柄村一部と合併して南足柄町ができ、昭和47年の市制施行で南足柄市となったのも知りました。

 因みに、昭和53年に<金太郎音頭>が制定されたとのことです。

2015.03.12
6組 瀬戸章嗣

佐々木さんの「小田高ってスゴイんだねを読んで」

 佐々木さん 我が母校との縁に改めて感謝して、楽しむことができました。
ありがとうございます。昔、初代吉田倉三校長が吉田松陰の甥だと聞いて、倉三先生のことは知らないけれど、小田高ってスゴイんだなーと思ったことを思い出しました。

 この横山大観の絵は、見たことがあると思い、2012年のホームカミングデーに53年ぶりに八幡山に帰った時ではないかと思い、校史展示室にあったような気がしていますが、<昭和天皇戴冠奉祝作品>とは知りませんでした。

 その日の八幡山で同期杉山剛氏の「腎臓」講義を聞いて、肝臓の話は酒好きとしては以前から割りによく聞いていたものの、腎臓の話に疎かったので、<肝腎が肝心だ>と納得したのを思い出しました。その後、みなさんと、三の丸へ下る小峰大堀切を歩き、一夜城の石垣山を見て、昔私の2番目の叔母が嫁入り前の女中奉公をしたと聞いている、旧閑院宮家跡の女子大脇を、大昔を思いながら通り、小伊勢屋での懇親会に臨みました。楽しい会でした。

 改めて、手元にある2013年発行の小田高同窓会「会員名簿」を見てみると、<校宝>横山大観筆「初秋黎明の富嶽」を見ることが出来、初冠雪後の富士山の鮮やかさを楽しむことが出来ました。今年の初冠雪の前に大山から富士山を見た後、テレビが初冠雪を映したのを見ているので、絵が遠望の富士でなく、麓近くから見上げる角度で印象的に画かれているのが分かります。

 富士の高さが素晴らしいと思います。その前の数日間山北におり、昔小学校の行き帰りに眺めたように通りから毎日富士を眺めましたが、富士はいいですね。<ふるさとの山に向かひて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな>石川啄木の気持ちが分かる気がしています。

 絵描きの心と技は、小田高生に脈々と受け継がれているのではないでしょうか。WEB11でも、山崎泰さんの作品を見る度に、素晴らしいと共感しています。しかも、前職を勤めあげた後での学習と聞いているのは驚きであり、<心があれば、歳を超える可能性は大きい>という励みを貰っています。

 会員名簿には、校歌の歌詞にある「至誠無息」と「堅忍不抜」の<校訓>もありますが、「至誠無息」に<山形有朋書>とあり、「堅忍不抜」には、<東郷平八郎書>とあるのも、天下の小田高を示すものだと思いました。二つの扁額として、新しい体育館に掲げられている写真も見えます。

2014.10.27
6組 瀬戸章嗣

斎藤さんの<国府津の海と海岸>を読んで

 10月10日大山に登り、子獅子が増えたと思った斎藤さんの獅子山も見て、天候に恵まれ、
冨士山と江の島、烏帽子岩、小田原海岸の遠望を楽しみました。今回写真の美しい砂浜が、
小田原海岸の手前に見える位置かどうかわかりませんが、こういう国府津の海岸は、私が
昔抱いた松と石浜のイメージと異なる、高速道路と砂浜と山並みの取り合わせで、新しい
国府津の良さの一面を感じました。

 国府津は、小田高通学の乗換駅として親しみ、父親が勤めた蒸気機関区があった地でもあり、後年亡母が山近病院へ緊急入院していた時、川崎の自宅近くの病院へ移動するまでの数か月、月曜から金曜日まで付き添った弟に交替し、土日の付添に毎週通い、オムツ干し場の屋上で海と緑と風が心地よく、何故か西田佐知子の<アカシヤの雨がやむとき>を口ずさんでいた思い出があります。今多摩丘陵に住んでいますが、海岸住いには昔から魅力を感じています。

 国府津海岸での思い出は、今遊泳ができるのかどうか知りませんが、若い頃に人影のない
きれいな海に誘われて、石の浜から泳ぎ出し、海上でひっくり返ってしばらく楽しんで、
浅瀬に戻ろうとすると、引き波が強く、休み休みしてようやく浅瀬に着いて立とうとすると、
瀬が急で足元が沈んで引き戻され、何度も繰り返し、辺りに人影なく、一時はダメかと思い
ました。それでも、ひっくり返って休んだ後、平泳ぎで腹が砂に触るまで泳ぎ、手と足を使い
砂と砂利を掻いて生還出来た時は、我ながらよくやったと思ったことがありました。

 海の怖さと共に、<美と危険は隣り合わせだ>と思い知った経験でした。

2014.10.18
6組 瀬戸章嗣

下赤さんの「思い出す旨かったもの」を読んで

 いつも、心和む話をありがとうございます。その時の情景が思い描けるので、自分も味わったつもりになって、旨かったに違いないと思っています。

 今回、四国の話が出たので、やはり40年前少し後に、松山でフグをご馳走になった時の話をします。5年の米国駐在から帰って、駐在の前に輸入食品営業の商社マンで、数年かけて開拓して取引が続いていた松山の得意先へ挨拶に赴いた時、場所は覚えていないが、それらしき料理屋で、梅酒かビールで乾杯のあと、フグの刺身から始まって、焼きふぐの入った湯呑でフグ酒を飲みながら、フグチリの美味を堪能し、他のフグ料理に最後のふぐ汁ご飯まで、フグづくしにびっくりしたのを思い出しています。後は、伴奏つきの歌場へ行き、<昴>熱唱のご披露も受けました。

 帰国した時、いくつかの帰国歓迎会に招かれ、サンフランシスコ駐在中に食べなかったものは何かと聞かれるので、桑港では日本食に不自由しなかったと言いながら、フグは食べられないと話していたのに応えてくれたらしく、感激した思い出があります。

 東京に戻ってから、高級料理店の案内板に確か<4~5万円>と出ていたのを見て、フグは美味しいが、いくら美味しくても一度食べれば十分で、あとは有難味が減って失礼などと、他からのサウンドに遠慮して答えたのも、今にして楽しい思い出です。

 旅先では、思わぬ味の喜びがありますね。やはり、40数年前に、フランスへ行った時、パリの駐在員が連れて行ってくれた昼飯屋で、氷の上に載った牡蠣が出てきて、1杯の白ワインで、レモン汁を絞って食べた時の感激は、いまでも覚えています。缶詰か干牡蠣しか知らなかったからです。

 南仏へ行った時に、ブドウ畑を下に見る丘の野外食堂で、当時缶詰の白いアスパラしか知らなかった私に、駐在員が勧めてくれた、茹でたグリーンアスパラの美味しさも、忘れられない思い出です。

 それでも、私が今、何が美味しいと思うかと聞かれたら、なんでもおいしく頂く幸せ者で、先日、山北へ帰った時、<わくわく広場>で買った<やまいものしょうゆ漬け>が新しい発見だったが、<1番>を聞かれたら、子供の時から今まで変わらないものとして、<茹でた里芋>と答えます。

2014.09.17
6組 瀬戸章嗣

川崎虔右君のご冥福をお祈り致します。

 川崎虔右君ご逝去の報に接し、謹んで、般若心経を唱えて御霊のご冥福をお祈り致しました。

 卒業後会っていませんが、入学し1年4組の同じクラスの時々に、川崎君の都会的で明るいスマートさが新鮮で、人柄にも好感を持っていたのを思い出します。卒業記念アルバムで昔を偲びました。

又、 昨年WEB11に出た、晩年の木工芸作品の、空母赤城・カティーサーク号・能面・ 法隆寺金堂・法隆寺五重塔・薬師寺三重塔・御輿・ロッキングチェアなど、素晴らしい 作品群や、お地蔵さんを彫っている写真を見て、自分が昔、年を取ったら木彫りをしたいと思っていた時期があったと思い出しながら、ご本人の気持ちはもっと先までだったかもしれないが、虔右君は、良い人生を過ごされたに違いないと思いました。今年新年のWEB11での短い挨拶に、作品のお地蔵さんが添えられているのが、今となっては印象的に思えます。
 WEB11に娘さんの送る言葉が出ているのを見て、今日見てきた近くのつつじ寺の満開のつつじの花を供えたいと思いました。携帯写真でつたないですが、添付します。 合掌

2014.04.27
6組 瀬戸章嗣
 
   

 佐々木さんの<戦争と平和を考えよう>を読んで

 佐々木さんの<戦争と平和を考えよう>を読んで佐々木さんの論文は、その調査、識見が素晴らしいと思います。又、分かりやすく、多くの人々に参考になるのではないかと思い、敬意を表します。

 昨日、(憲法改正をテーマにした)「トップフォーラム」というのが、東京大学本郷構内であり、偶々、日頃考えているようで考えていない一人として、最近の安部首相の急ぎ過ぎとも 思えるような政治手法に反論が強まっている中で、憲法改正論議に自分なりの理解と整理をしたいと思っていたので、学者はどう考えているか知りたいと思って参加しました。

 東京大学・明治大学・慶応義塾大学・伊藤塾・埼玉大学の名誉教授・教授・塾長の樋口陽一・辻村みよ子・小林節・伊藤真・長谷川三千子の各氏を演者とする講演とパネルディスカッションを聴き、帰りに、5氏の本を買って帰ったのですが、今朝、佐々木さんの文章を読んで、<梅津さんの戦争体験を聴いて><何のための戦争だったのか><戦争体験から学び直さなければ><国防は亡国に通ず>に感動しました。<平和目的>を掲げた戦争で、国が滅んできたのが歴史と思うからです。

 因みに、昨日のトップフォーラムは、改憲派・護憲派で分けられてはおらず、世に知られる改憲論者からも改憲の問題点指摘があり、護憲論者と評される方からも、

 政治としての護憲ではなく、憲法の考え方が述べられたものですが、5氏の著書を書いてみます。

  「いま、憲法改正をどう考えるか」  樋口陽一     岩波書店
  「比較の中の改憲論」        辻村みよ子    岩波新書
  「憲法改正と改悪」         小林 節     時事通信社
  「憲法の力」             集英社新書     伊藤 真
  「民主主義とは何なのか」       文春新書      長谷川三千子

 

 私自身は、<軍国主義・全体主義で強力だったスパルタは滅び、民主主義のアテネは栄えた>と教わって育ち、民主主義が正しいと今も信じていますが、民主主義はベター選択であって、絶対的なものでなく、民主主義も弱さを持っており、 アテネもやはり滅びているのが歴史の事実であると思っています。

 3日前に、庭でのジャガイモ植えに山北へ帰り、墓参りをしましたが、寺の石碑に空海の<始まりがあり 終わりがあるのが 世の常>の解説と<生者必滅>の経文をみて、<その通りだ。>と思ったところです。現在の科学は、太陽さえも、将来消滅すると言っています。

 今朝のテレビの<サンデーモーニング>は、福島県の津波被害現場後の吹きさらしビルからでしたが、津波にしろ、地震にしろ、防災に絶対は期待できないと考えて、<自然と人に目を向けた減災(逃げる)><科学に絶対はないと考える>そして<混乱を救うのは政治しかない>と訴えていました。

 佐々木さんの文章が、<憲法は変えない><軍備は持たない><安全は警察力で>と言われているように受け取ると、私は、まだそこまで断言できない状態にいます。

 <成立時に国民のどこまでが平常心で納得したか不確かな現憲法は、絶対的なものとは考えず、憲法といえども、時代環境にに合わせて変えていくのが自然で、現在環境と将来の国民のために適切な憲法の内容はどうなのか、今の憲法に直すべきところが、あるのかないのか、広く国民からの意見を求める見直しをするのが良いと考える…変えないことも含めた結論の為にです。>


 ・・・・私自身は振り返って、戦後憲法を根拠にした教育で、憲法の正しい使い方かどうかを含めて、古くからの日本人が培って来た、自然や人に対する 向き合い方、 接し方が、世界的に見て、優れた文化と思われるのに、それが、結果的に軽んじられて来たと感じています。自然の変化や力への敬意、他者に対する思いやり、です。

 人権の利己的・反社会的使用への節制教育不足です。

<自衛隊は軍隊でないと言いながら、実質的な軍事力を持っている混乱は事実で、これが、世界平和の為に、他の国が軍隊を持っている状態よりも、レベルが上という理念を、どうやって国民が納得できるのか、わかりやすい文章に書き直すことが、国民みんなの憲法として必要と感じている>

<原発即時停止議論が盛り上がらなかった都知事選の結果を、民主主義の一つの限界と認めたうえで、原子兵器を比較的容易に手にできる(現存・潜在)テロリスト がいる以上、国としての軍事力放棄が起きた場合に、国民の安全は守れるのか不安に思うので、国境をなくし、世界平和の為に一元的に動ける軍隊=地球軍乃至地球警察軍のようなものがない現状で、国の国民を守る責務を放棄させるようなことが賢明かどうか、私はまだ、結論が出ていない。>

 佐々木さんの論文を、昨日のトップフォーラムの主催団体の一つの神奈川銀杏会の
役員で、昨日会った二人に紹介しようと思います。土井さんと羽田さんです。

2014.03.10
6組 瀬戸章嗣

 卒業記念湯呑について思う

 下赤さん投稿の小田高卒業記念湯呑ですが、私の場合は、毎日これで茶を飲んでいます。
いつから使っているかは不確かですが、多分、<凡才人生100年>の半分かと思った頃に実家の戸棚で見つけて以来かと思います。今日は、大型台風27号が伊豆大島に近づいているとテレビが伝えているので、午前中は外に出ないつもりでパソコンに向っていますが、朝食の後で勉強部屋へ持ってきたこの湯呑には、飲みかけのごぼう茶が入っています。

 改めて見ると、金縁の樫葉校章の緑色は今も鮮やかで、相模灘の波か風雲の急を思わせる
巻き模様の下地の赤い土色は、色あせた感じがしません。赤い土色は関東ローム層かな?
と思ってインターネットで検索すると、関東ローム層は、東京で5メートル、御殿場では100メートル積もった富士山などからの火山灰の中の鉄分がさびた色だとあり、鉄さびは服に付くと落ちにくいようにくっつき易いから保水力があり、一方、粒子が粗いことによる透水性があるので、保水性と透水性に優れるという二律背反性を実現して、関東ローム層は地耐力に優れている。そこに建つ家が地震に強い所以だと説明しています。

 樫と土の強さを表したとみると、この湯呑は小田高健児の強さの象徴ではないでしょうか。
<相模小田高健児>の心意気をいつまでも持ち続けて、しぶとく生き抜けという励ましにも見えて来て、小田高時代に中庭で聞いた(石川?)教頭先生の言葉を思い出しました。
私の部屋の壁にある<先生方の贈り物>にも入っているのですが、<鋳物のような固い頭は駄目だ。鋼のように丸くしなる、しなやかな、しっかりした頭に鍛えなさい。>
ずっと、時に思い出して心がけてきたと思い、今後も、時に思い出そうと思います。

 ところで、元気が取り柄の私が、今夏今までにない体調不良に見舞われ、検査点検の結局、加齢に対するオーバーワークと結論付けました。歳相応の生活を、頭では分かっている積りでいても、いつの間にか、忘れていたことを知らされました。会合出席をキャンセルし、森林公園散歩を復活励行するなどして、復調中ですが、これからは、卒業記念の冷めない湯呑でお茶を飲みながら、食事にゆっくり時間をかけようかと思ったところです。
2013.10.26
6組 瀬戸章嗣

 下赤さんの「遊行寺の菩提樹」を読んで

 若い頃の学習で、<全国遊行して歩いた時宗の一遍上人>は知っていましたが、時宗が今に続き、その本山が藤沢にあるとは知りませんでした。
下赤さんの紹介文投稿に感謝致します。大きな菩提樹にも感動しました。
一度行ってみようと思います。遊行寺本山のホームページを見ました。

 そして、改めて、インターネットで、「時宗」を検索し、元は「時衆」と言っていたこと、<日常を、臨命終「時」と心得て>阿弥陀念仏を唱えて暮らす生き方で、中国仏教から浄土宗に伝えられ、鎌倉末期に独り全国歩きをした一遍上人を開祖として、後に藤沢に本山が定まり、隆盛の後、浄土真宗や曹洞宗などのの普及で目立たなくなっていたことを知りました。

 時衆の考え方が、<信ずる者も信じない者も、阿弥陀如来の絶対力で救われる>というもので、<神や仏を信じない、けれども不安を抱えている>現代人によって、再び受け入れられる時が来ているような気がしました。

 因みに、我が家の墓は真言宗寺にありますが、本家は曹洞宗、妻の実家の寺は、藤沢の浄土真宗です。私自身は、宗教信者ではありませんが、先祖が尊んできた「八百万の神」を尊ぶ心を自覚しており、<人事を尽くして、あとは、神様、仏様のご加護をお祈りする。>仕草が身についているのに気が付いています。
今日は、<臨命終「時」を心得た日常>に、改めて思いを致したところです。

2013.06.21
6組 瀬戸章嗣

 5月19日の小田高ホームカミングデイで遠藤さんの<鮭の話>で、放流鮭の回帰率が5%とか、放流事業での受精卵の孵化率が8割というとてつもない生命力や回帰能力などが、現実にあることに感動し、小田高に劇場のような視聴覚室があるのを知り、寄席やソプラノ声楽コンサートにびっくりした後、小伊勢屋での同期懇親会、魚河岸での46会に参加して、幸せでした。

2013.05.21
6組 瀬戸章嗣

「廣瀬龍一さんと古民家の保存」を読んで ・・・ 日本はいいですね!  

 私は、廣瀬龍一さんが<日本の良さ>に気付いて感じた喜びを、自分も共感していると、自分の体験を通して想像していたのですが、今回の写真で、具体的イメージを持つことができ、改めて、彼の純粋さと情熱にエールを送りたいと思いました。ありがとうございました。

 私も仕事で海外へ行き、日本とは違ういろいろの見聞をしましたが、そこに住む人たちが、与えられた自然と歴史環境の中で長い間に育んで、当たり前としている暮らしは、そこの人たちにとっては、最高なんだろうと結論し、違うことを認めて、お互いに尊重していくのがよいのだろう、というのが、商社マンを退職する頃の思いでした。

 最初にした5年の海外生活で、<最高!>気分だったサンフランシスコも3年を過ぎた頃、やっぱり日本の方がよいと思った経験があります。自分では四季があるからと説明していましたが、四季も含めた日本の文化が、日本人には、尊いのだと今は思っています。

 昔の良さを残しながら、新しい良さも生まれていくのだと思いながら、過ごしていきたいと思っています。

 ところで、連休明けの昨日、正月以来の大山に登り、しばらくぶりなので、前回の男坂でなく多少優しい女坂を登って、富士見台から富士山を眺めましたので、携帯写真を添付します。日本晴れの山頂付近で食べたおにぎりは最高でした。

 文化的世界遺産に認定された富士山ですが、一緒に申請した三保の松原が除外されたのは、富士山から離れすぎているからと聞きましたので、廣瀬さんが保存しようとした古民家を含めた<西和賀の自然と文化>も距離で認定条件には該当しなくても、日本の世界遺産の一角にあるといってもよいのかもしれないと思いました。

2013.05.09
6組 瀬戸章嗣
 

 山崎さんの「私の絵画」を見て

山崎さんへ
 素晴らしい水彩画をありがとうございました。本欄で、以前貴兄が、農作業と晩酌を楽しんでいて、6年NHKの絵画教室にも通っていると書いておられたのを読んだ時は、野菜作りと晩酌で同じ楽しみを持っている私としては、絵のことは気に留めませんでしたが、今回作品を見せて貰い、私のような素人にも、いかにも、基本の練習をきっちりとこなしたに違いないとわかる成果を見せて頂いたと思って、感動しました。
 素直で癖のない気持がよい水彩画だと思いました。貴兄の思いと才能はもちろんながら、多分、よい指導者との出会いと怠けない努力がもあったのではないかと想像しました。そして、幸せなよい時を過ごされていると思って、ご同慶の至りです。お互い、好きなことをしていくのが、一番だと思います。

 私は、今年は富士山に登って山に目覚め、これから無理のない程度の山歩きを楽しもうと思っていますが、今月初めに今年4度目の大山に登った時、山頂付近で4頭の鹿に出会い、口笛に振り向いてくれてしばし見つめ合い、感動しました。勝手ながら、会話が通じているように思って、童話の世界に入った気がしました。その時の携帯写真を添付します。

2012.12.13
6組 瀬戸章嗣
   
                 大山の鹿  

山崎 泰さんへ

 久しぶりに、日本橋四つ角近くの柳屋ビルにあった商社に入社して、その後白木屋裏の昭和通り側にあった鉄鋼ビルに移り、八重洲を含めた3か所で過ごした青春時代を思い出しています。日本橋のことはよく知らなかったので面白かったです。ありがとうございました。又、お願いします。
 ベースになる取引がない弱小の食品課で、新規取引開拓に夢中の日々でした。良い商売が出来たらキャバレーのコパカバーナで遊ぼうと、先輩に目標を貰ったりしたのを思い出します。従業員組合支部の文化部長になり、初めての社内ダンスパーティを開いたのも楽しい思い出です。

2011.10.08
6組 瀬戸章嗣

吉田龍夫さんへ
 うれしいお便りをありがとうございました。先日山北の実家から持ってきたばかり1959年卒業記念アルバムを見ています。1年と2年は貴兄と同じクラスだった記録もあります。好きなことをずっと続けて、素晴らしい活躍をされているのを知り、幸せなお人だと思いました。
 そして、親父から貰った3つの言葉の一つを思い出しました。私の信条でもあります。小田高に入学した時の言葉で、「小田高校長香川幹一は小学同級生だ。他成績は駄目だったが、地理だけは一番だった。好きなことを、夢中になってやるのが一番だ。」
 2月18日のカレンダーに、鎌倉行きをマークしました。高校1年だけ合唱をやっていて、受験の為にやめたのを思い出し、1986年にパリに駐在した時は、家族が来るまでの1年弱を、持って行ったカセットの都はるみを歌って暮したことを思い出したりしています。

2011.10.03
6組 瀬戸章嗣

月村さんへ
 今日の、貴兄のつぶやきは、我々にとって真に時宜を得た言葉だと思いました。ほんとに、今年は死と隣り合わせにいるのを知らせるようなことが続きますね。先日の台風の夜は、すぐ近くの大木が近所の家に倒れ、人に怪我はなかったけれど停電になり、深夜まで工事車が作業するようなことがありました。
 したいことは、出来るだけ実行して、悔いを残したくないですね。でも、一方で、死のことをあまり考えて仕方がないのも事実だと思っています。
 私も、相田みつをの言葉が好きで、近くに日めくりカレンダーがありますが、今日の26日は、< 悠遊 空をみあげてごらん ゆったり悠遊 雲もゆうゆう鳥も悠遊 小さな自分がわかるから > ・・・とあります。
 結局、人はみんな、したいと思ったことをできるだけして、そして死ぬのではないでしょうか? そして、それを、みんなが、それでよいのだと認めるのが良いのだと思っています。
 2011.09.26
6組 瀬戸章嗣

榮さんへ : お母さんへの思いやりあふれるエッセイありがとうございました。お母さんも喜んでおられることと思いました。谷峨から少し山北寄りの酒匂川の丹沢側246沿いに瀬戸という地区があり、ここが山北に多い瀬戸姓家族と関係あるかどうか知りませんが、名前が同じなので、私は以前からあの辺りの風景に親しみを感じています。
2011.09.11
6組 瀬戸章嗣

 私の東名ドライブは、長く通いなれた、川崎から大井松田で降りて山北の実家までの往復で、好きなのは、いまさらながらに気がついた、走行中に見えてきて、姿を変えていく、大山や富士山、そして、大井松田から山北間の足柄平野と箱根・丹沢の山、川、橋、雲、空、緑の故郷です。もう30年も長い間、年5回(盆暮両彼岸と室生神社の祭礼日)程の里帰りの時は、ドライブをたのしむ感覚が薄く、むしろ行ってからのことが頭にあったのに対して、最近は、2週間に1度程度の割合で、庭での野菜つくりに帰るようになり、ふと気がつくと、いつも良いとは思ってはいた、フロントガラスの向こうに見えて来る大山や、いろいろな富士の姿を眺めながら、車間距離を充分とりながら、スピード感を、安心して楽しんでいる自分に気がついている次第です。途中、海老名サービスエリアで朝蕎麦を食べたりして一休みしますが、帰りの中井では、ソフトクリームを食べるのも楽しみです。

2011.09.11
6組 瀬戸章嗣



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