「報効義会」会員は主に退役海軍下士官兵で構成されていたが、後に初代南極探検隊隊長となる白瀬矗も陸軍出身であったが会員として参加していた。報効義会設立後は資金集め、船舶の手配、基地つくりの資材、漁具等の産業つくりの資材の手配積み込み、役所の手続き業務等多忙を極めたが、明治26年(1893)3月20日80余命の報効義会員が5隻のボートに分乗し、3600km離れた占守島に向け隅田川を出港した。船舶の不備(動力船が得られず風と人力で走行するボート)と悪天候により19名の会員と全ての船舶(ボート)を失い、民間船舶に便乗し漸く8月31日占守島に上陸し、探検や農商務相、内務省より嘱託を受けた水産・動植物・地学調査、気象観測を行い、一部の越冬隊員(この中に白瀬矗がいた)を残し内地に帰国した。越冬隊員も水腫病、海難事故等で大半の人命を失った。第1次の航海、探検、拓殖は、このように多くの犠牲者、物心面の損失を蒙った。
この犠牲を活かし、第二次拓殖、移住は明治29年(1896)再開され北千島に向かった。男女約200名が千島列島の最北端占守島を主とする北千島に着任し、定住し、拓殖事業(主に漁業・猟業・農業)と防備が開始された。定住生活も紆余曲折あったが安定し、漁業・猟業・農業の産業も小規模ながら進められた。島では島内で始めての結婚式も行われた。
明治34年(1904)日露戦争開戦にともない、成忠は義勇隊を組織し、占守島より海を隔てたロシア領カムチャッカ半島へ進撃したが、捕えられ監禁された。明治38年(1905)ポーツマス条約締結により成忠は解放され帰国した。島に残された会員、家族は大半が明治34年9月までに帰国し、8年間に亘る千島開拓は終了した。
成忠は帰国後政府の特殊任務に従事する一方、我が国の北洋漁業の発展に尽力した。
報効義会が北千島を去ってまもない明治40年に、北千島ではタラやタラバガニの漁業が開始され、昭和8年から昭和20年の終戦まで占守島と隣の幌莚島で複数のサケマス缶詰工場が操業し、サケマスシーズンには約2万人の日本人従業員が働く一大漁業基地となった。
この背景には郡司成忠率いる「報効義会」の観測、調査、漁業活動実績があったことは言うまでもない。
以上、小田原を終の棲家とし、大正13年8月に64歳の生涯を閉じた明治の男郡司成忠の生き様を紹介した。
後世の人々は無謀な北千島探検・拓殖、大きな犠牲を払ってまで得た開拓について賛否両論を唱えている。それではなぜ郡司成忠が尊い犠牲を払いながらも、北千島開拓に取り組んだのか。一つには前述したとおり北千島が我が国土であるにもかかわらず、全く無防備で外国船の密猟船の横行を許している日本政府の政策を知り、領土を守る行動にでなければとの愛国心が厚かったこと、さらに明治の男には気宇雄大、世界に日の丸の旗を翻そうという気概、志ある若者は海外雄飛の志に燃えており、郡司成忠もこのような明治の男の一人であったと考えられる。
なお『志士の碑』報効義会会員の慰霊碑(揮毫者 郡司成忠、大正8年建立)が今でも北千島占守島の丘で寒風に吹かれて存在している。
余談だが小田原天神山に住んだ瓜生外吉(海軍大将、男爵)は郡司成忠と海軍兵学校同期であり、外吉の妻繁子は津田梅子等と米国留学し西洋音楽を学び西洋音楽の普及に尽力した。瓜生繁子のピアノの一番弟子が郡司成忠の妹幸田延である。なお瓜生繁子(旧姓永井繁子)は板橋に住んだ三井物産設立者の益田 孝(鈍翁)の実妹である。
興味のある方は下記参考文献をお読みいただきたく。
郡司成忠については
『北洋の開拓者 -郡司成忠大尉の挑戦―』豊田穣著 1994 講談社
『濤』綱淵謙錠著 1986 新潮文庫
『郡司大尉』広瀬彦太著 鱒書房
『開拓者・郡司大尉』 寺島柾史著
成忠、幸田露伴の妹幸田延、安藤幸については
『幸田姉妹~洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』萩谷由喜子著 ㈱ショパン発行
占守島の戦いについては
『終わらざる夏』浅田次郎著 2010 集英社
『8月17日 ソ連軍上陸す』大野 芳著 2010 新潮文庫
瓜生繁子については
『瓜生繁子 もう一人の女子留学生』生田澄江 文芸春秋BOOKS |