ちょっと発表



 日本の電力業の基盤を築いた男『松永安左エ門』
2016.08.28   3組 遠藤紀忠

 松永安左門は昭和21年(72歳)から亡くなる46年(97歳)まで小田原板橋に住み97歳まで現役で精力的に活動し大きな功績を残しました。
 松永安左門は茶人(近代三茶人の一人)であり古美術蒐集家(国宝「釈迦金棺出現図」等)であり、戦前は大手電力会社“東邦電力株式会社の経営者であり、戦後は日本の電力業の基盤を築き97歳で亡くなるまで日本の電力業の発展に尽力した財界人でした。
地元小田原では松永記念館を中心に多くの展示会や講演会が開催され、松永安左門について知る機会はありますが、往々にして茶人、古美術蒐集家である松永松永安左門がクローズアップされ、「松永の活動によって日本電力業の歴史は変った」といわれる松永安左門が日本の電力業の発展に大きな功績を残したことについて語られる事は少ない。
本日は“日本の電力業の基盤を築いた男『松永安左門』”についてお話をします。本日お話しする内容は①松永安左門の略歴 ②日本の電気事業の歴史 ③松永安左門と日本の電力業です。

 表題の「生きているうち鬼と言われても死んで仏となりて返さん」は昭和37年米寿の席の挨拶で松永安左エ門が述べた言葉です。

Ⅰ. 松永安左門の略歴

 慶應義塾へ入学

 明治8年(1875)長崎県壱岐に生まれる。 明治23年、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け15歳 で上京、慶応義塾に入学、福沢諭吉の朝の散歩のお供をすることで、福沢諭吉の薫陶を直接受けること  ができた。
 明治23年、在学中に、朋友であり共同事業者でありライバルとなる福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)を知る 。後に数々の事業で桃介と関わる事になる。 明治32年(1899)慶応義塾を中退、材木商、石炭販売、 コークス販売と事業をおこなう 。

 結 婚

 明治32年(1899)桃介の紹介で日本銀行に入る。明治33年(1900)日本銀行を退職。
 桃介、安左エ門は明治33年神戸で「丸三商会」を設立、材木の販売事業を行うも4ヵ月で破産。
 明治34年(27歳)桃介と500円(現在60万円相当)の小切手を元手に神戸に「福松商会」を設立。石炭 販売と株投資で財を得る。石炭販売で後の山下汽船の創始者山下亀三郎(後に秋山實之終焉の地小田原  “対潮閣”の主となる)と出会い事業を行い40年親交あり。

 明治37年(30歳)九州中津の旧家の娘竹岡一子と結婚。
 明治40年(33歳)炭鉱投資、株投資に失敗し挫折。スッテンテンとなる。
 明治41年大阪瓦斯のコークスの販売事業を手掛け軌道に乗せる 

 電力事業に参入⇒大手電力会社“東邦電力㈱”設立、拡大。電力業界の雄となる。            明治42年(1909) 福岡に市電を運営する福博電気軌道株式会社(後の西鉄)を設立、(社長:桃介、 専務:安左エ門)。後に九州電灯鉄道を設立し電気事業に参入する。

 大正11年、九州電灯鉄道は、関西電気(桃介が設立)と合併して東邦電力を設立、本社を東京におき、 安左エ門は副社長(後に社長)に就任。 
 その後東京進出を図り、地方の電力会社複数を傘下に収め、電力業界の雄となる。

 博多商業会議所会頭に就任、衆議院議員に当選

 大正6年博多商業会議所会頭に就任。福岡市選出衆議院議員に立候補し当選。

 電力事業より撤退、隠遁生活

 昭和14年 電力国家管理要綱が閣議決定
 「民間主導の電力会社再編」を主張していた松永は、国家による電力管理に反対した。
 昭和17年(68歳)に東邦電力を解散し、一切の事業・公職を退き、埼玉県柳瀬(現在の所沢市)に引  き籠り隠遁生活をおくる。
 隠遁生活中は還暦の頃始めた「茶の湯」に没頭した。松永安左門は昭和10年還暦の頃茶の湯を始めて 「耳庵」と号した。「茶の湯」は鈍翁(三井物産創始者益田孝)、三溪(横浜三溪園を造園した原富太   郎)の影響を受けた。

 小田原板橋に転居、民営9電力体制確立に尽力

 
昭和21年秋一子夫人の希望もあり気候温暖な小田原板橋の松下荘(後の老欅荘)に移る。以後小田原  を拠点に97歳まで活躍。
 昭和24年(75歳)電気事業再編成審議会会長に就任⇒現行の民営9電力体制を確立
 昭和26年(78歳)財団法人電力技術研究所(後の「電力中央研究所」)を設立、理事長に就任。

 『産業計画会議』を発足16項目の勧告書を提出

 昭和31年3月 政・財・官・学界のトップ120名を結集し「産業計画会議」を発足させ82歳の安左エ門 が委員長を務めた。
 この会議は戦後日本の再建を目的に主宰した私設シンクタンク。政・財・官・学の重鎮が委員であった  ため、その影響力は大きく、事実上の政府の諮問機関であった。
 昭和31年から43年にかけて日本経済の将来構造に関し16次にわたる勧告が出され、その多くの勧告は  今日までに実現されている。

 「産業計画会議」の主な勧告

  1.日本経済立て直しのための勧告          
  2.北海道の開発はどうあるべきか
  3.高速自動車道路についての勧告
  4.日本国有鉄道の根本的整備(国鉄分割民営化等)を勧告
  5.多目的ダムによる水問題の解決
  6.あやまれるエネルギー政策
  7.東京湾の大規模埋立て
  8.減価償却制度の改善
  9.専売制度の廃止(日本専売公社の分割民営化等)を勧告
  10.海運業の再構築
  11.東京湾横断堤の建設
  12.新東京国際空港の開港を勧告
  13.本州四国連絡橋の建設
  14.原子力政策への勧告

 小田原転居後:(財)松永記念館設立、トインビー主著『歴史の研究』翻訳版の刊行会設立

  昭和33年(84歳)財団法人超高圧電力研究所設立、理事長に就任。
  昭和34年(85歳)財団法人松永記念館設立
  昭和36年(87歳)国宝「釈迦金棺出現図」入手
  昭和39年(90歳)勲一等瑞宝章を受章
  昭和41年(92歳)トインビー博士の主著『歴史の研究』邦訳版の刊行会を設け会長に就任

 

 

 97歳にて生涯を終える

 昭和46年6月16日午前4時 97歳で波乱の生涯を終える。 安左エ門は新座市平林寺に一子夫人と共に  眠っ ている。墓碑には「耳庵居士 松永安左エ門1875生 1971年6月16日死97歳」とあるだけで   戒名はない。 昭和54年(1979)財団法人松永記念館解散、財団より小田原市に土地・建物が寄贈   される。国宝「 釈迦金棺出現図」は京都国立博物館へ、他の主要な古美術品は福岡市美術館に移った  。
 昭和55年10月 小田原市郷土文化館分館松永記念館開館、現在に至る。


Ⅱ. 日本の電気事業の歴史

 電気事業の創業~発展期 ① ≪創業~日露戦争(明治37-38)≫

 明治15年(1882)世界最初の一般供給用発電所がロンドンで運転開始
 明治20年(1887)東京電燈会社(cf.1)が、南茅場町火力発電所の運転を開始し、初めて一般向けの電 気供給を行った。20年1月に最初に発熱電灯が燈ったのは当代随一の社交場として名高かった鹿鳴館で   した。尚、皇居に電灯がついたのは明治22年1月6日。

 (cf.1)東京電燈会社:日本初の電力会社。明治16年設立。現在の東京電力㈱の前身。
 東京電燈会社開業後、全国の主要都市で電力会社の設立が相次ぎ、日露戦争(明治37~38年)直前の  明治36年末には電力会社が60社存在していた。

 電気事業の創業~発展期 ② ≪日露戦争後~昭和初期≫

 日露戦争後に電灯の一般家庭への普及、工場電化の開始により電気需要が急膨張した。
 これにより電力会社は大容量の水力発電所の建設を行い、中距離送電技術を確立し、事業規模を急拡大  した。
 電源開発 日露戦争前:火主水従 (火力発電が主、水力発電が従)
 日露戦争後:水主火従(水力発電が主、火力発電が従)
 明治40年電気事業者数116、家庭への電灯普及率2%、昭和2年の電灯普及率87%

 電気事業の創業~発展期 ③ ≪日露戦争後~昭和11年≫

 明治44年 電気事業の発展促進を目的とした「電気事業法」が制定され電気事業は飛躍的に発展した。
「電力戦」 昭和7年 電気事業者:約850社
 事業者が乱立し値引き合戦⇒電力戦⇒電力連盟を結成、改正電気事業法施行⇒業界の自主統制、「電力  戦」の終息⇒大手電力会社の業績好転

 電気事業の創業~発展期 ④ ≪大正~昭和11年≫

「電力戦」が終息し、電気事業の企業統合が進み、昭和11年には次の五大電力会社のシェアが全発電量  の五割以上を占めた。  

 東邦電力(代表 松永安左エ門)  東海地域、九州地域

 東京電燈(東京電力㈱の前身)   関東地域   

 宇治川電気(関西電力㈱の前身)  関西地域

 大同電力(代表 福沢桃介)、日本電力(宇治川電気と大阪商船が出資)   関西地域

 電力国家管理体制昭和14年~昭和26年

 昭和11年 電力国家管理要綱が閣議決定 (日本に存在する全ての電力施設を国家が接 収・管理する という趣旨の法案である。)
 昭和14年4月 国営の日本発送電㈱設立。日本発送電㈱が発電と送電設備を管理・運営。配電は新設の  9電力会社が行なう。電力国家管理は昭和26年まで続く。

 戦後の電気事業再編成 ≪昭和24年~≫ }

 
昭和24年 電気事業再編成審議会(会長:松永安左エ門)発足
 昭和26年電力国家管理体制の廃止
 日本発送電㈱を解体し、9配電会社に発電送電設備を移管現行の民営9電力体制スタート。(後に沖縄  電力が加わり10電力となる)
 大量の電気需要に伴い、9電力会社は電気料金の大幅値上を行い、大規模な電源開発を行う。
 これにより電力の安定供給体制が整備され、高度経済成長の土台が築かれた。


 電力需要の急伸(昭和26年~48年)

 電力量 年率11.7%増加
 電力需要急伸の背景
 (1) 産業用大口需要の増大
    鉄鋼業、非鉄金属工業、電気機械工業、自動車工業の電力需要増が顕著
 (2) 家電製品の普及が急速に進んだ 。三種の神器:白黒TV,洗濯機、冷蔵庫の普及、都市化が進     み冷暖房設備の普及

 民営9電力各社の合理化競争(昭和26年~48年)

 
九電力各社の活発な経営合理化競争により電源の大容量化、火力発電の熱効率向上、火力発電燃料の油  主炭従化、水力発電の無人化、送配電損出率の低下が急速に進んだ。
 その結果日本経済の高度成長期に、「低廉で安定的な電気供給」を実現させた。

 石油ショック、原発の稼働(昭和48年~)

 二度(昭和48年1973年、昭和53年1978年)に亘る石油ショックで原油の供給は逼迫し、石油価格が  高騰。⇒電気料金を三度にわたり大幅値上げ

 「脱石油の切り札」として原子力発電の必要性が高まり、数多くの原子力発電所が次々に建設された。 (⇒図-1)

 石油ショック後も安定的な電気供給は確保されたが、「低廉な電気供給」には至っていない。

 原発事故、電力自由化 

 平成23年3月 福島第一原子力発電所事故発生
 平成25年9月15日~日本の原子力発電所停止⇒28年8月18日現在稼働中:川内原子力発電所1、2号機、 伊方原子力発電所
 平成26年4月~電力全面自由化

図−1 電源別発電電力推移(エネルギー白書 2016年より)

 

. 松永安左エ門と日本の電力業
  
  大正年11年、九州電灯鉄道は、桃介が設立した関西電気と合併して東邦電力を設立、本社を東京(丸  の内、東京海上ビル)におき、松永は副社長(後に社長)に就任。(⇒図-2)

図-2 東邦電力統合沿革図

 

 電気事業を拡大①(大正14年51歳~昭和5年56歳)

 大正14年早川電気(山梨)と群馬電力を合併し、東京電力(*)を発足、副社長に就任。東京進出。  (*)東京電力は現在の東京電力㈱とは関係なし
 東京電力は東京電燈と激烈な「電力戦」を展開
昭和3年東京電力は東京電燈に合併。東京電力は東京電  燈の筆頭株主となり、松永は東京電燈の取締役に就任。
 昭和3年東邦電力社長に就任。
 昭和4年東北電気を設立、社長に就任。
 昭和5年新潟電気社長、中部電力取締役に就任。

 電気事業を拡大②(昭和6年57歳~昭和17年68歳)

 
昭和11年(1936)中部共同火力発電所を設立し、社長に就任。
 昭和15年(1940)東邦電力取締会長に就任。
 五大電力(東邦電力、東京電燈、大同電力、宇治川電気、日本電力)の雄として覇を競い、各地の電力  会社を傘下に収め、電力界に重きをなして「電力王」と称された。(⇒図-3)

 松永安左エ門の水火併用の発電方式 }

 「冬季の最大負荷を目標として、水力設備を為せば、夏季に於いて益々剰余電力の増加を招来する結果  となり、而も、設備過大は金利の負担を重くし、引いて原価高を免れぬ」 (松永 1933)
 戦前の日本では電力の需要は冬季が最大であり、夏季の需要は減退する。従い夏の電気需要の一番少な  い時に合わせて水力発電所を造れば良い。さすれば冬場に電気が足りなくなるが、足りない部分は火力  で補う。松永は水力偏重の発電方式は発電コストを押し上げるとし、一貫して水火併用の発電方式を行  った。

図-3 東邦電力ならびに傍系会社の電力供給区域


 電力国営化に反対(昭和初期~昭和17年)
 

 日中戦争以降軍部の力が増し「電力国営化論」が次第に力を増す。
 「民間会社の自由競争による産業界の発展なくして日本の発展はない」と考えていた松永は電力国家管  理案に猛反対であった。
 松永は電力連盟を結成して、反対論の急先鋒に立った。
 昭和11年、電力国家管理要綱が閣議決定   昭和14年国営の「日本発送電㈱」が設立。

 電力事業より撤退、柳瀬山荘にて隠遁生活(昭和17年68歳~昭和24年75歳)

 「電気事業再編成審議会」会長に就任(昭和24年 75歳)

 昭和24年通産大臣の諮問を受け「電気事業再編成審議会」が発足。吉田茂首相、稲垣通産大臣は率先  して会長に松永を推挙した。審議結果、三鬼隆(日本製鉄社長)他3名の推す「日本発送電存続案」と 、松永のみが推す「民営地域別九分割案」の両案が提出された。

 「電気事業再編成審議会」委員 松永安左エ門 、小池隆一(慶応大学法学部長)
 工藤昭四郎(復興金融金庫副理事長)、三鬼 隆(日本製鉄会社社長)
      水野成夫(国策パルプ株式会社副社長)

 松永の推す「民営地域別九分割案」を政府が採用(昭和25年 76歳)

 松永は「電気事業再編成審議会」審議結果提出後も池田勇人通産大臣(大蔵大臣兼務)及びGHQに   「九電力案」を執拗に説き理解を求めた。
 池田勇人の尽力により、松永の「九電力案」は国会に提出されたが、多くの反対があり審議未了となり  廃案となった。
 最終的にはGHQが松永の「九電力案」を支持し、昭和25年十月ポツダム政令を発令した。かくして  政府は国会審議を経ずに松永の「九電力案」を採用した
 松永安左門が生み出した「9電力体制」の特徴:①民営②発送配電一貫経営③地域別9分割④独占
 電気事業再編に当たり昭和25年12月総理府の外局に公益事業委員会(*)が発足し、松永は委員長代  理に就任。 (*)公益事業委員会:新しい電力会社の設立基準や今後の方向性を決定する役割を担う  。委員長元商工大臣の松本丞治

 


 

 電力料金大幅値上げ、松永は「電力の鬼」 と呼ばれた。(昭和26年 77歳)

 
 昭和26年5月1日新電力会社9社が発足したその日に、松永公益事業委員長代理は、各社に将来を見据え た採算可能な電力料金を算出するよう指示した。

 結果平均76%の大幅値上げが提示され、本案をGHQに提出した。最終的に大幅値上げは認められ、2年 で60%強の値上げが実施された

 この大幅値上げに産業団体、主婦連合会他各方面の反発を買い、松永は「電力の鬼」と呼ばれ非難の的  となった。

 松永は「10年先、20年先の電力需要を見通した投資をするためには、料金の値上げが必要であり、そ  れが日本の復興につながる」と主張し理解を求めた。

 電力再編成後の電力体制

 発送配電:戦中の日本発送電㈱廃止⇒発送配電一貫経営の民間会社9社の設立
 電源開発:「水主火従」⇒「火主水従」
 燃料:「石炭」⇒「石油」
 電気事業の国際協力:電気事業の国際的な協力と情報交換の必要性を提唱し、昭和44年「電気事業研  究国際協力機構」(IERE )を発足。(現在も継続されている。)
 電力再編成を成し遂げ、電力価格が大幅値上げしたことにより、電力の株価が回復し、海外からの資金  導入も可能となった。
 電力業界は活気を取り戻し、その資金により電源開発も活発に行われた。
 安定した電力供給体制の基礎が築かれたことにより、戦後の復興と経済発展が可能となった。

 「電力中央研究所」理事長に就任(昭和28年 79歳)

 昭和26年11月7日財団法人「電力技術研究所」(後の「電力中央研究所」)を設立
 本研究所は電気技術の調査研究、電力経済に関する研究、スペシャリストの養成を行う機関であり松永  は昭和28年79歳で2代目理事長に就任した。
 松永は亡くなる二ヶ月前まで週に一度は大手町の電力中央研究所本部に通っていた。


 主要参考資料

 小田原市郷土文化館 『耳庵 松永安左エ門』 2015
  橘川武郎『松永安左門 いきているうち鬼といわれても』ミネルヴァ書房 2004
  橘川武郎『電力改革 エネルギー政策の歴史的大転換』講談社現代新書 2012
 『私の履歴者-9』日本経済新聞社 1992
  白﨑秀雄『耳庵 松永安左エ門 上下』新潮社 1990
  小島直記『まかり通る 電力の鬼・松永安左エ門』東洋経済新報社 2003
 『自叙伝 松永安左エ門』 松永耳庵刊行会 1952

                                     
                                      (完)

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