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 腰折れ

2021.01.20

4組  今道周雄

  最近、河口慧海師の「チベット旅行記」を読んで大変感銘を受けた。河口慧海師は明治33年に当時鎖国をしていたチべットの大乗仏教を学びに、インド、ネパールを経て密かにチベットへ入国し、6年に及ぶ過酷な経験をして無事帰国を果たした僧侶である。
 氷の流れる河を裸になって渡つたり、雪原を食べ物も無く磁石さえなくて数日彷徨ったり、山賊に襲われ身包み剥がれたり、ヒマラヤの高峰を越えるときは高山病に襲われるなど、凄じい苦労の果てにラサへたどり着いて、念願の大乗経を學んだのだった。信仰心があると斯も人は強くなるものかと感嘆した次第である。
 ところで、本文は波瀾万丈の慧海師の冒険を紹介することが目的ではなく、「チベット旅行記」にしばしば登場する「腰折れ」について述べることを目的としている。
甚だ浅学のため、「腰折れ」とは何であるかを、この旅行記を読むまで知らなかった。広辞苑によれば「和歌の第三句即ち腰の句と第四句との間の続かない句」を「腰折れ」というのだそうだ。
榮師の手ほどきで和歌を読もうと努力するうちに、何度となく腰折れを経験した。五、七、五、七、七という鋳型にぴたりと言葉をはめ込み、しかも自分の想いを表現することがいかに難しいか、ほんの少しだが歌人の苦労を味わった気がする。
榮師と何回も議論をしながら、結局は不本意な形で終わったものもある。
恥ずかしながらその例を御紹介しよう。

(元1)みまほしと思う心も失せぬべし寄る白波の頭を見れば
(直し1)みまほしと想う心も失せぬべし寄る年波の頭(こうべ)を見れば
(直し2)みまほしと想う心も失せぬべし寄る年波の頭(こうべ)写せば
ここで「寄る白波の頭」を単なる「白頭の嘆き」と捉えるのはあまりにも芸がない、会おうか、会うまいかと揺れる心を表現したいと思い、次のように変えたところ、「腰折れ」になってしまいました。
(元2)みまほしと思う心も失せぬべし寄せては返す波がしら白きをみれば
早速榮師から早速次の指摘がありました。
(直し3)結びの歌ですが、下の句、寄せては返す波がしら白きをみれば、ですが、7・7の定型に対して12・7になっております。この12文字の表現はご検討されたらと思います。もちろん貴兄がこれでよろしければこれで決定といたしますが。
いくら考えても良い案が出ず、何の膨らみのない凡々たる案に落ち着いた次第。
(最終)みまほしと想う心も失せぬべし過ぎにし時のあまりの長きに

お粗末さまでした。



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