ちょっと発表



小田原蒲鉾の話し

1組 石黒駒士
本稿は2019年5月12日の樫友際に石黒さんが講演した原稿を頂き、編者がWEB用に編集したものです。大変量が多いものなので分割して掲載します。
明治~大正〜昭和

  明治明治36年になると、第5回勧業博覧会の水産製造部門で、二等賞に高瀬善八が蒲鉾で、三等賞に小峰徳次郎がイカの塩辛で、日比谷藤助が鰹節で、褒状には石黒清次郎が二番スルメで、日比谷与八が鰹節で、石田弥五兵衛・山口留吉が干しシイラで、日比谷藤助が乾カツオ、日比谷与八がサメ油、石黒清次郎が鮪節で、それぞれ入賞して表彰されている。

 明治37年の水産製造品の生産高は、蒲鉾が56,000貫、95,200円でトップ。次にイカの塩辛、鰹節となっている。この年蒲鉾は、安定した生産と供給が行われていた。しかも生産量の75%が東京送りだと云われている。東海道線の開通により、東京への安定した供給が可能になったと思われる。

  明治42年(1909年)5月の新聞に、当時の駅弁の記事が載り、大船・国府津・山北駅、静岡の弁当に蒲鉾と卵焼きが使われているので、蒲鉾が一般に食されていたことを伺うことができる。この頃の蒲鉾の原料となる魚は、オキギス・ムツ・ハモ・タイは、ダボ網という底延網で、東町(昔の山王原)や浜町(昔は新宿)の漁師達が小船から大きい船までを使い、漁をしていた。この漁法は、漁獲高が安定していたマグロの浮き延網と一緒に使われ、漁場は初島沖から大磯沖にかけてだった。

   明治43年7月30日の横浜貿易新報に小田原物の蒲鉾の品質が低下して、その原因がオキギスやムツが獲れなくなったためと載っている。これと同様のことが、「明治小田原町誌」にも載っている。

   明治41年には、根拵網が大敷網に、大正元年(1912年)には、大謀網が伝えられ、小田原沿岸の漁獲物の王様はブリになったため、仲買人としては、二の次にせざるを得ない状況になってきた。

 大正大正元年から8年にわたり、ブリの大漁が続き、加えてマグロも大漁に獲れ、小田原の町中を大いに賑わい立たせた。 大正4年足柄下郡役所が小田原名産に「蒲鉾・塩辛・梅干し・わさび漬」を発表している。この背景には、大正9年の熱海線、小田原駅の開設計画があり、小田原箱根地方は避暑地や別荘地ブームに火がついたため、名産品を指定すると共に、この地方の産業振興とも強く結びついた。

 大正5年の新聞に、小田原蒲鉾の声価富に騰がり、京浜の市場に於ける一勢力たるに至り、小田原に吸収される金額15万円に達せりと書かれている。この頃より沿岸の原料であるオキギスやムツの水揚げが減ってきている。グチを原料にした製品づくりに変わってきている。

 大正11年2月20日 山田又市、山田小兵衛の市場と株式会社小田原魚市場、大一水産の4つが合併し、新会社株式会社小田原魚市場が設立された。

   大正12年、蒲鉾製造過程で出る魚の残滓を、ウナギの幼魚の餌に利用する養魚場を計画、実行したが、9月1日の関東大震災で大打撃を被り放棄、後に鴨宮に養魚池を造り成功。グチを原料にした製造法の開発に、丸うさんが成功。弾力、白色度、旨味がオキギスと遜色ないまでに漕ぎつけ、静岡からグチを仕入れ始める。

※ 関東大震災によって、相模湾沿岸の漁業一大中心地であった小田原は、最も被害が大きく、網船・漁具・倉庫・漁業施設が破壊され、蒲鉾工場・鰹節工場の倒壊や火事で、壊滅状態となる。

○ 氷→製氷工場 

○ 昭和10年採肉機が開発された。家内工業から機械生産へ。

和11年8月23日の新聞には、小田原の特産名物で、第一に屈指される物は、蒲鉾の年産300万円、次が箱根物産の270万円、梅干しの100万円、塩辛50万円とある。戦時色の一層濃くなり始めた昭和15年には、食料品の統制に加え、砂糖・調味料が割当切符制に。蒲鉾の原料魚も割当制が適用になり、その生産は危機的状況に追い込まれた。生産者は、組合を組織せざるをえなくなり、組合員25名で組合設立。

 昭和18年、戦時経済統制が益々強化され、博多からのグチの入荷が減少し、年に2・3貨車しかなく、組合員は蒲鉾の生産が困難となり、地元の魚を使ったツミイレ・ハンペン・揚げ・竹輪をわずかに生産し凌いだ。しかし、それすらもできなくなり、営業不能か転業か廃業か組合解散かを選択せざるを得ない状況に追い込まれたと、12月の新聞は報道している。

しかし、幸いなことに戦時下の食料生産、供給という役割を担うため、水産局からグチの原料魚供給を受けることが出来るようになったため、組合員は共同生産という決議をして、3つの工場で共同生産をして、竹輪・ハンペン・揚げ・ツミイレを製造し、これを配給所に送り、その売り上げを組合員に分配する方式をとって、戦時下に生き残り、組合員の廃業、転業者を出すことなく終戦を迎えた。

  終戦後になっても九州地方では、漁業海域にマッカーサーラインが引かれ、日本漁船の操業海域が狭められ、グチの漁獲量を回復できない状況が続き、蒲鉾業界は地元の漁獲物に頼らなければならなかった。小田原沿岸でも漁獲量は少なく、蒲鉾の生産を直ぐに回復出来る状況ではなかった。

 食糧難が頂点に達した昭和21年(1946年)には、食料の安定供給を協議する対策会議が小田原警察署長の発案で結成された。この対策会議は、特産物蒲鉾・梅干し・わさび漬・塩辛は統制枠で完全に閉め出されているため、このままでは姿を消しかねないので、価格は質に考慮し、生産意欲を高め、資材・原料等は、県の応援を懇請する運動を始めたということが、当時の新聞に記載されている。この措置が蒲鉾の復興を早めたといっても過言ではないだろう。

 

マアジ ムロアジ

サバ

ゴマサバ
カツオ ソウダカツオ ハモ タイ
底はえ縄 明治小田原町誌

マグロの浮き延網


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