ちょっと発表



   2012.06.28    

石塚敬一
  震災被災地を訪れて

 6月18日から20日まで、東北大学経済学部の同窓生13名で岩手県沿岸部の震災・津波被災地を訪ねてきました。
実は、この企画は昨年9月、同窓生の1人が弘前出身で彼の故郷を訪ねようと弘前はじめ津軽地方を訪ねたその帰りに、「来年は岩手県出身者の故郷を訪ねよう」ということになりました。 その時は震災被災地を訪ねるという意識は余りなく、同年6月に平泉が世界遺産に登録されたので、平泉を久方ぶりに訪れようという気持ちでした(学校が仙台にあり、同窓生も東北出身が多く、全員が一度は平泉を既に訪れています)。

 そのうちに在京の岩手出身者だけでなく、現地北上市に在住のN君にも相談してみようということになり、相談したら是非来て震災被災地と彼の経営する釜石の食品工場(水産加工ではなく、発芽玄米や大豆蛋白(いわゆる大豆から作る肉もどき)を作る工場)を見てくれということになりました。震災被災地を訪れることについては「被災して困難な状況にある人達を高みの見物に行くようで気が進まない」という意見や、「歴史に残る大災害なのでこの目で現地をしっかり見て記憶にとどめたい」という意見などがありましたが、N君の熱意と世の中の雰囲気が「どうぞ被災の現場を見て欲しい。大勢来てくれることが経済復興の手助けにもなる」という流れになり、被災地を巡ることになりました。

 交通手段が限られているため、マイクロバスをチャーターして被災地を移動しました。
ベテランのガイドさんもつきました。実は、このガイドさんは町長が津波に流されて知られる大槌町の方で、自ら被災を見、体験された方で、更に話をしているうちに息子さんがN君の食品工場の社員だということも分かり、不思議なめぐり合わせでした。
 そのようなことがあって、被災地の詳しい状況を説明してくれました。なお、ガイドさんの家は高台にあって難はのがれたものの親戚で亡くなられた方があったそうです。


 陸前高田
 陸前高田に近づくと、山間に津波の押し寄せた後が残っています。その跡で津波の来たことが分かるのですが、前方を見るとはるか彼方まで平地が広がっていて、海は見えません。見えない遠くの海からこの奥地にまで津波が押し寄せるなどなかなか想像が出来ません。まさに予想していなかった出来事と思います。
 「奇跡の一本松」は土手の上に一本淋しく立っていました。 そばまで近かづくことが出来ず、遠くから眺めました。この松の延命に随分お金がかかったそうですが、結局救うことができませんでした。地元では松一本のためにこんなにお金を使うのが良いのかどうかという指摘もあったそうですが、ガイドさんは「癌で助からないと分かった人に、あなたは助からないから治療をやめます、といえますか。 最後まで最善を尽くすことでよかったと思っている。」と言っていました。
「一本松」の周辺は放棄された建物がいくつか見え、瓦礫の撤去も進みつつありました。

奇跡の一本松

 大船渡
 
山の中腹を走る道路から、バスの窓越しに街を見下ろすだけでしたが、大船渡湾の入り口は狭くそこから右に折れ曲がって湾が奥深くに延びている地形が幸いして、湾の奥側に広がる街はほとんど被害もなく済みました。


 釜石
 
津波で街の建物はあちこちやられ、ほとんどが営業を再開できていませんでした。そんななか、駅前とホテル周辺の飲屋さんは残った建物やプレハブで商売を復活していました。人々は真っ先に息抜き場所を求めているんだなと思いました。
 それともう一つ、釜石は山がすぐ海のそばまで迫っていて、そういう地形のところは釜石に限らず他でも比較的被害が小さかったそうです。被害軽微で飲みたくなる人がいるのが釜石とも思いました。他の地区は飲屋さんも営業再開できぬほど街はダメージを受けていました。
 尚、N君の工場は新日鉄釜石の構内にあり(数年前、新日鉄から譲受しました)津波の被害から免れました。ガイドさんの息子さんも元気よく工場内を案内してくれました。
 また、今回の岩手の旅が話題になったとき、N君が真っ先に考えたのは、皆をどこに泊めるか。被災地の多くはホテルも失われて泊まるところもなく、真っ先に釜石に残るホテルに予約を入れておさえてくれたそうです。
 現地の人でなければ分からない状況認識でした。

真っ先に再開した飲屋さんたち

 

 大槌町
 
ガイドさんの故郷、大槌町。
震災の前後は休みで、家で休養していたそうですが、いつもなら11日に街のスーパーに買い物に行くところ、牛乳の在庫がなくなって余り気が進まぬまま10日に買い物に行ったそうです。時間も津波の来た午後3時前後。もし、いつもと同じように11日にスーパーへ行っていたら自分も流されていた筈。11日は多くの人がスーパーで犠牲になったそうです。そのスーパーも今は営業再開していました。人々の生活の命綱です。
 大槌町では会議中の町長さんが多くの町職員とともに津波に流されました。その町役場も近くの大槌病院も廃墟となって建物だけが残っていました。
 山の中腹のある高さまでが被害にあったところ、ある高さから上は被害にあわなかったところ、その差わずか数十センチ。残酷な境界線。 「吉里吉里小学校」はぎりぎりセーフでした。そんな中、低いところにあっても難をのがれたものがあったそうです。
 それは神社。ガイドさんが見たところでは例え低いところにあったものでも津波は神社をよけるように通り過ぎて大槌町だけでなくどこの神社も無事だったそうです。「ひょっこりひょうたん島」のモデル、「ひょうたん島」も高さがいくらもなくて津波をかぶりました。島の灯台はこわされましたが、そばの祠は無事でした。「神様は自分だけ助かって人は助けないのか」とさえ思ったそうです。先人の知恵で神社の位置が選ばれているのでしょうか。
 大槌町で目を引いたのは山火事。1ヶ所に火がつくと数百メートル離れたところに飛び火したそうで、前からは海の水、後ろからは山の火、とても恐ろしかったそうです。山には今でもところどころの木々が赤茶けていて火の跡が伺えます。

廃墟となった県立大槌病院
瓦礫の片付けが進む 
 この度の被災地をめぐる旅は、多くの衝撃を与えられ、悲しい想いをさせられる旅となりました。この復興には数十年という歳月とその間の絶え間ない人々の努力が必要となります。天災とはいえ、余りにも大きな重いものを背負わされたことに、辛い想いをいたしました。犠牲となられた方々には哀悼の意をささげ、難をのがれた方々には「頑張りすぎるな。道は遠いから長いスパンで考えてゆっくり進もう。」とエールを送りたく存じます。


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