ちょっと発表



2013.05.09    吉田明夫

「廣瀬龍一さんと古民家の保存

 4組の同期生故廣瀬龍一さんは、大手建設会社に勤め、当初は見聞を広めようと敢えて海外勤務を選んだ。クエートに4ヶ月、イラクに1年半、インドネシアに4年、シンガポールに5年、計11年間に及ぶ海外生活で彼は様々な文化に出会った。しかし、世界のいろいろな人々の暮らしに触れると、もはや日本では無くなりつつある人々の心の繋がりや古い物を大事にする精神、人と人との助け合いの習慣に感銘を受けた。

シンガポール時代の廣瀬さん シンガポール滞在中に訪れたインドの村

 その後、日本に帰ってきた彼は偶然訪れた東北地方のある村で衝撃を受ける。そこに在ったのは、日本で失われたと思われていた人と人との繋がり、お互いを慈しみ自然を愛する姿、残りの人生をこんな場所で過ごしたい、そう思った彼はこの村で過ごす決意をした。穏やかにゆっくりと畑を耕し、笑顔で暮らす毎日。

和賀郡沢内村の人達
田植えをする沢内村の人達

 そんな彼をまさかの事態が襲う。残りの人生を捧げようと決意したこの村の風景が壊されるかもしれないという現実、そのとき彼は古き良き面影を残すこの村の風景を守るために立ち上がった。築100年以上を経過し、建築学的民俗学的に価値あるいわれている古民家を解体するというのだ。当時彼が見つけた古民家は24軒位だが、その殆どは崩れかけていたそうだ。その内実際に人が住んでいるのはほんの数軒だった。
解体されるという古民家

 その時の村人達の反応では、「都会から来た何だかわからない若僧が保存しようなんて、馬鹿じゃあねえか」等と言われたが、村人との価値観の相違については廣瀬は当初から理解していた。彼は失われてからでは遅いということを村人達に理解して欲しかった。そして「残しておいて良かった」と言われる日がいつか来ると信じ彼は必死に頑張った。県庁から上役を呼んだり、一軒一軒の家を回り説得に回り続けた。しかし、村人達の茅葺き屋根の古民家に対する思いは「汚くて寒くて嫌だ」と思っていたので、こんなものを保存しようなんて馬鹿ではないかと言われた

村人達に必死に説明する廣瀬さん
時々集まり会合を開く村人達

 しかし、彼は一緒に古民家を保存しようと戦っている写真家の瀬川さんと共に古民家修繕の為の募金活動を始めたのである。募金は徐々に集まり、茅葺き屋根を修復する程度の金額は集まったが、業者に依頼すると高くなるので、自分たちでやろうと勉強をした。彼と瀬川さんは村人達の力を借りて屋根を葺き始めた。そのうち信じられないことか村人達が徐々に大勢集まり出し、作業を助けてくれた。
廣瀬さん自ら集めた茅
足場も組み上がった
廣瀬さんと瀬川さんの作業を助けてくれる村人達

 中でも一番難しかったのは、茅をどのように葺いていくかという問題であったが、運良く隣りに住む留吉(当時73歳)さんがこのことに詳しく先頭に立って作業をしてくれた。こうして古民家は立派に再生されたが廣瀬さん達が次に心配したのは、この立派な古民家を村の人達が使ってくれるだろうかということだった。

茅葺きの達人 留吉さん
文化遺産保存に協力してくれた写真家の瀬川さん

 だが、その心配はすぐに消え去った。2004年2月8日子供達と村人達が集まって来た。
彼はこうした文化財的なものの保存に尽力をされたが、同時に「西和賀の自然と文化」という雑誌を発刊し、岩手の自然を世に訴え続けていたのである。小田高11期の皆さんも彼のユニークな文章に感激されていた方もかなり居られたのではないでしょうか。
集まった子供達と小正月のみずき団子の準備をする村人
今後もこのようにみんなで利用出来る
いろり

廣瀬さんの沢内村自宅兼事務所
満足に微笑む廣瀬さん(右)
アップルのPower Book アプリはQuark Express
お馴染みの「西和賀の自然と文化」

 尚、彼が過労で苦しんでいる時には、いつも茅ヶ崎から駆けつけてお世話をされていた奥方の雅子さんにも拍手を贈りたいと思います。この記事は雅子さんの承諾の上、掲載させていただきました。


   廣瀬龍一さん 2009年9月15日逝去

   改めて廣瀬さんの冥福をお祈りいたします。





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