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2014.03.11    3組 佐々木 洋

さくら狩人・湘南桜錯乱物語

Part 1   辻堂・桜花園通り  (探訪日2013/3/22)   


「湘南の中央」辻堂からスタート
 毎年春になると、「いつぞ桜咲くらん」と気がそぞろになって錯乱状態になってしまいます。2001年4月から2011年3月まで、妻方実家のある「東北の湘南」福島県いわき市を本拠としていた時には、福島県内を約2500kmドライブして回って、桜の名所40ヵ所余りの写真を撮って回って「さくら狩人…福島ふとどき風土記」http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/SakuraFukushima-a.htmをマイホームページに載せました。
2011年3月に、東京電力福島原子力発電所の事故発生によって研修生達が全て母国に帰ってしまって、それまで携わっていたビジネス日本語の研修の仕事がなくなってしまったため「本場湘南」の神奈川県藤沢市辻堂に本拠をもどしてからも、春恒例の「さくら錯乱状態」は続きそれが3年目になった昨年、「さくら狩人…福島ふとどき風土記」の湘南版を纏めようと思い立ちました。順次ご紹介していきますので、皆さまの今年のお花見に役立てていただければ幸いです。
東芝電材(現在のライテック)(株)に勤めていた頃に、JR辻堂から通っていた仲間を中心に「湘南中央会」を始めました。その略称「湘中会」が「焼酎」と同じ語呂だということもありますが、勝手に「湘南の中央は辻堂である」と定義したところに大きな意義(異議?)があるものでした。ですから、「さくら狩人・湘南桜錯乱物語」のスタートに当たっても迷うところはありません。当然、「“湘南の中央”辻堂から」となります。

往時は“辻堂の田園調布”だった
 また、辻堂には「桜花園通り」という美しい名前の通りがあります。箱根駅伝でも走る辻堂団地前を通る道との交差点からJR辻堂駅前に至る幅5mで距離1.5km程度の道ですが、かつては道の両側に大邸宅が立ち並んでいて、この界隈を“辻堂の田園調布”と呼ぶ人もいるほどでした。右の絵は、1980年に私たち夫婦の仲人の石垣貞一さんが泊りに来てくださった時に描かれたスケッチ画で、向かって左の手前側には大きな松林がありました。現在では、ここにタウンハウス状のマンションが建てられており、かつての大邸宅も、住人の世代代わりに伴って、土地が分譲されて、新しくてお洒落な住宅に“ダウンサイジング”されているところが多くなってきています。往時に比べるとずっと緑が少なくなった“辻堂の田園調布”は全体的な“建蔽(けんぺい)率”が格段に高くなったように思えます。  

「桜花園通り」とは言っても桜並木があるわけではなくて、下の写真のように生垣や石垣、門屏などによって囲まれた邸宅の敷地内に咲く桜が通りから見られるだけです。「“桜”花園通りの“桜”は、このあたりの大地主であった桜井さんの名前から来たものだ」という無粋ですがありがちな話を聞いたことがあります。どれでも私は、桜が咲く邸宅の庭こそがそれぞれ「桜花園」であり、それが道の両側にあるから「桜花園通り」なのだと自分に思い込ませてきました。しかし、残念ながら、大邸宅の“ダウンサイジング”化が進むにつれて、“辻堂の田園調布”らしさが薄れるとともに、行き来する人の目を楽しませてくれる“桜花園”も疎らになって、「桜花園通り」らしさもなくなってきたように思えます。

 
 

 モータリゼーションが進んでいなかった時代には、鉄道の駅の周辺に住宅や商店が集積するという傾向がありました。それだけ駅周辺の地価は高くなっていたのですが、桜花園通りもJR辻堂駅に近づくほどに、地価が高かったためか広壮な敷地の邸宅は影をひそめてきます。家屋と通りの間を隔てる“垣根が取り払われ”、屋根も瓦屋根からスレートが主流になり、モルタル塗装の家並みが続くようになります。しかし、そんな中でも、道沿いに根を下ろして、姿良く枝を広げた満開の桜が青空に映えて、僅かに“桜花園らしさ”を示していました。


これぞ桜花園
 私のお気に入りの花見スポットは、桜花園通りから細い道に入って行ってすぐのところにあります。精々40m四方程度の小さな公園で、普段は何の変哲もないのですが、周辺に10本くらい桜の木が植えられているという“桜密度”の高さで、いつも春になると心を癒してくれる憩いの場になります。いつもなら、右の写真のような椿とのデュエットは見られないのですが、今年は例年より開花が1週間余りも桜の開花が早いので、ご覧のような赤の彩が加わることになりました。

 公園内に立ち入って見上げてみると、咲きそろった桜の花が空を覆っていて、そこからふくよかな香りが漂ってきます。長年にわたって桜を追いかけてきた私ですが、桜の花がこのような芳香を放つものだと知ったのは初めてのことでした。心地の良さにしばし酔いしれて「いいなあ、ここは。これぞ桜の園だ!」と感嘆しました。そして、「ああ、そうか。ここが“桜花園”であって、ここにつながっているから“桜花園通り”なのだ。」という“新説”がごく素直に思い浮かんできました。

 長い間旧態依然としていた辻堂駅南口側も、ようやく北口側の大規模開発と呼応するような形で開発が進んで、下左の写真で桜の背景に見える新しいビルも建ってきました。この公園も、「藤沢市立駅前町公園」という変哲の無さ過ぎる名前が付いている(下右の写真)ということを今回初め知りましたが、“新生辻堂”にふさわしく、この公園の名を「桜花園」に変えたらいいんじゃないかとふと思いました。
     


湘南と辻堂のあれこれ   

様変わりした「辻堂」駅南北
 小田急「経堂」駅界隈で飲んでJR「辻堂」駅が最寄りの我が家に帰ってきた翌日、東京に出かけて行って、テニス仲間の若者に「昨日、経堂から辻堂と“堂々めぐり”してきちゃった」と話したところ、「佐々木さん、経堂は分かりますが辻堂ってどこですか」と聞き返されてしまいました。「辻堂」が無名であったために、ウケルと思っていたギャグが不発に終わってしまったわけです。しかし、そんな「辻堂」の知名度も、2011年11月11時11分に「テラスモール湘南」がオープンし、NHKが全国ニュースでこれを報じて以来大きく上がってきました。JR「辻堂」駅の北側に隣接するようにしてあった関東特殊製鋼の本社工場跡地にできた東京ドーム3.6個分の広さで281店舗が入居している国内有数規模のモールの出現によって、JR「辻堂」駅北口側の様相は一変し、これに呼応する形で駅舎や通路が改築されるとともに、南口側までもが活況を帯びてきました。

辻堂地区の今昔
 ところで「辻堂」とは、行政区分としては、横浜市(2013/2/1現在人口3,686千人)、川崎市(同1,440千人)、相模原市(同720千人)に次ぎ、横須賀市(同412千人)を僅かにしのぐ人口417千人の神奈川県第4位の都市である藤沢市の南西部にある地名ですが、この他に辻堂神台、辻堂元町、辻堂西海岸などといった「辻堂」を冠した地名もあり、更に西に隣接している茅ヶ崎市の浜竹なども含めた「JR辻堂駅を最寄り駅としている地域」が一般的には「辻堂地区」と呼ばれているようです。
 私たち飲み仲間が辻堂を勝手に「湘南の中央」と称しているのも満更見当外れではなくて、JR辻堂駅北口側には「テラスモール“湘南”」の他に私たちの「湘南中央会」を真似して名前をつけたかのような「湘南中央病院」まであります。更に、南口側を桜花園通り沿いに南下していくと「湘南ホスピタル」があります。その昔このあたりは海岸平野の湘南砂丘地帯の一角であり、辻堂駅近くからでも相模湾が見わたせたそうです。我らが湘南中央会の雑喉会長も「小生一家が辻堂に転居してきたのは昭和25年夏でした。駅を出ると文字通り「潮騒」が聞こえて「潮の香り」がしたのに驚いた記憶があります。」と述懐しています。
「空気のきれいなところで、栄養のある食事をとり、安静を守るという方法で療養を行う施設」として作られたサナトリウム(結核療養所)の誕生地も湘南海岸で、明治20年から昭和初期にかけて最も多い時で12の施設が存在していて、その一つが「湘南ホスピタル」(旧名・長谷川病院)なのだとか。辻堂海岸の砂丘地帯は、日本軍や在日米軍の演習地として用いられていたとのことですが、1964年に日本住宅公団辻堂団地ができてから住宅地に変容してきました。しかし、「空気がきれい」で、「(新鮮な魚介類によって)栄養のある食事をとり」、「安静を守る」ことができるというサナトリウム(結核療養所)の好適地条件が今に残っているのは住民として有り難いことだと思っています。

「湘南中央市」として分離独立しちゃうぞ
 JR東海道線の「通勤快速」は、川崎駅も横浜駅も飛ばして大船駅に直結しているので、「湘南地区から東京に通勤する乗降客の便益を図ったサービス」というはっきりしたコンセプトが見てとれますが、一方の「アクティ」は、東京駅と平塚駅の間で辻堂駅を飛ばしているだけですので、「辻堂駅だけを飛ばすことによって、一体、どんな乗降客に対してどんな便益がもたらされるのか」さっぱりわかりません。以前は戸塚駅にも「アクティ」が停まらなかったので、“1市1駅”の原則でもあって、「同じ藤沢市に藤沢駅と辻堂駅があるのはけしからん」という見解なのかと思っていました。それがいつの間にか、「政令指定都市・横浜市内の戸塚区は市に準ず」などといったJR内の見解があったせいか、戸塚駅にも停まるようになり辻堂駅だけが“アクティ孤島”になってしまいました。JR辻堂駅に直結したテラスモールができて辻堂駅乗降客が大幅に増加した上に、辻堂駅の北部には計画人口45千人という大規模都市開発「湘南ライフタウン」もこれありで、「JR辻堂駅を最寄り駅としている」“辻堂地区住民”も大きく数を伸ばしています。これでもなお、JRが辻堂駅を邪険に扱い続けるのなら、辻堂は藤沢市からスピンアウトして「辻堂市」または「湘南中央市」として分離独立するしかない・・・などとアクティならぬ悪態をついて自分を慰めています。

“国字”の「“辻”堂」、“漢字”の「“湘”南」
 もともと「辻堂」は普通名詞で「道端に建つ仏堂」という意味です。しかし、これが由緒のある仏堂でしたら、その名前が地名にも用いられるはずですので、「辻堂」の場合には「道端に建つ“どこにでもある”仏堂や神社」ということになるようです。一方、この「辻」という字は、中国でできたいわゆる“漢”字ではなくて、「峠」、「榊」、「畑」などと同様に、それぞれに意味のある字画を組み合わせて日本人が作った“国字”です。「辻」は「辶(道)の十(交差点)」ですから、こちらも“どこにでもあるような寺社がどこにでもあるような道の交差点の近くにあるどこにでもあるような”土地柄ということになります。そのためもあってか、実際に、「湘南中央の辻堂」以外にも、北は福島県から南は山口県に至るまで、20カ所程もの「辻堂」という地名の場所が存在しているようです。湘南高校出身の慶応ボーイでもある湘南中央会会長の雑喉さんによると、藤沢市の辻堂の場合は、辻堂を冠する四つの町(元町、東町、西町、南町)が隣り合う「四つ“辻”」があって、その傍らに“堂”を構える「諏訪神社」(隣に宝泉寺)が現在でも夏祭りの中心になっているのだそうです。
これに対して、「湘南」の地名の方は、かつて中国に存在した長沙国湘南県に由来しているので、「湘」という字は“れっきとした漢字”だということが分かります。現在の湖南省を流れる“湘”江の“南”部のことで、中世中国の湘南では禅宗が発展し、そのメッカとなったそうです。その禅宗を鎌倉幕府が保護したために、鎌倉には「建長寺」、「円覚寺」などの鎌倉五山も建てられることになり、鎌倉が日本における禅宗のメッカとされ、このことによって、鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで「湘南」と名付けられたのだという説があります。実際に、鎌倉時代から南北朝時代に円覚寺、南禅寺、浄智寺など京都・鎌倉五山の住職を8回も務め、瑞泉寺や天龍寺など計6ケ寺を開山して歴代の天皇から7度にわたり国師号を賜与された名僧・夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見されるそうです。しかし、現在の鎌倉市民の持っている車は「湘南」ナンバーではなくて、なぜか「横浜」ナンバーになっています。「鎌倉」ナンバーならともかく「横浜」ナンバーで甘んじているところを見ると、「湘南―禅宗のメッカ―鎌倉」という仮説の説得力が乏しくて地元民にさえ受け入れられていないのかもしれません。それとも、重厚なイメージの武士(もののふ)の古都の住人と自負している鎌倉の皆さんは、「海」や「太陽」などが連想される若者好みの「湘南」のイメージがお嫌いなのかな。

「湘南」のルーツは小田原にあり
 一方、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫で小田原に居して“ういらう商人”となった崇雪という人物が結んだ大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだのが「湘南」という地名の由来だという説もあります。これも、湖南省の洞庭湖の近くを流れる“湘”江の“南”部の「湘南」に大磯近辺の景色が似ていることが起源とされ、このことから、江戸時代に大磯が「湘南の発祥の地」と言われるようになったようです。いずれにしても、少なくとも明治時代までの「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ大磯などの相模川以西地域に限られていたそうですから、「湘南」の本家は大磯であり、更にそのルーツを遡ればその名付け親が在住していた小田原だということになります。大磯と小田原の間を結ぶ自動車道路が「西湘バイパス」と呼ばれているように、今や大磯や小田原は「西湘」呼ばわりされていますが、もともと相模川以東地域は「湘東」または「新湘南」でしかなかったのです。民営化されてからわけが分からなくなってしまったJRも国鉄時代には、東海道線を「湘南電車」と呼んでいました。湘南電車の車体のデザインに、小田原よりもっと西側の海岸段丘を彩るミカン畑の橙色と緑色を配しているところにも当時の国鉄の“清くて正しい地理認識”が表れています。

“相南”(“相”模国の“南”部)の原点に戻って
 西欧で流行していた海水浴保養の習慣が真っ先に入ってきた大磯は「海水浴場発祥の地」ともされています。「本家湘南」の大磯ばかりでなく、逗子や葉山、鎌倉、藤沢など「湘東」または「新湘南」の相模湾沿岸が海水浴保養にも適した別荘地として注目されるようになりました。赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が海水浴を楽しんだかどうかは定かではありませんが、逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介したり、『湘南雑筆』として編纂したりしたことが、「湘南」を大きく東方にシフトするのに役だったようです。その上、鎌倉や江の島などが、観光資源が豊富で観光集客力が高いこともあって、いつの間にか相模川東岸側の方が「本家湘南」であるかのように思われるようになり、由緒正しい我が出身校“名門”小田原高校(もと神奈川3中)をさしおいて、新参の「湘南高校」まで相模川東岸側の藤沢市に開設されるようなってしまいました。しかし、石原裕次郎、加山雄三、桑田佳祐が広めた葉山~茅ヶ崎当たりの「海」のイメージの「湘南」を、中国の湖南省にある「元祖・湘南」を見たことがある人が見たとしたら、“似非湘南”どころか“非湘南”だと思うことでしょう。ですから、相模川の東か西かの議論は止めて、「“相”模国の“南”部の相模湾沿岸一帯だから本来“相南”とすべきところを、水のイメージのする“湘”の字を当てて中国の“湘南”にちなんだ」という説のもとに“一致団結”することにしませんか。かつて、平塚、藤沢、茅ヶ崎、寒川、大磯、二宮の6市町合併による湘南市構想(当時人口97万人)が持ち上がった時に、特に茅ヶ崎市民の反対が根強くて、結局構想がオジャンになってしまったことがあります。「辻堂」の住民は心が広いので、「茅ヶ崎が湘南の中央だ」と認めてあげるのにも吝かではありません。更に、逗子や鎌倉など 「相模国の南部の相模湾沿岸一帯」の住民の皆さんにも呼び掛けて、横浜市に次ぐ神奈川県第2位の「政令指定都市・湘南市」を作っていこうではありませんか。


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