ちょっと発表



 「東芝不正会計」についてのゴマメの歯ぎしり

2015.08.02  3組 佐々木 洋

 連日のように「東芝の不正会計」が新聞紙面やテレビ画面などで大きく報道されるようになった昨今、さすがに日頃はノ―天気で鳴るこの東芝OBも肩身が狭く居心地の悪い思いもしてきました。確かに、悪は悪であり、東芝は不祥事の摘発を神妙に受け入れなければならないのですが、一方、これを報ずるマスメディア側の論調の中にも、マユツバものの見解が入り混じっているように思えます。



 1. 許し難い“有識者”の言

 最も許し難いのは、某“有識者”による、「経営体制は変えることができるが、“東芝に深くしみ込んでいる企業体質”は変えようがない」といった趣旨の“まことしやかな”発言でした。もはや、死に体と化した東芝ですから、寄ってたかって叩かれるのはやむを得ないのですが、“見てきたようなウソをつく”のは許されることではありません。一体どこが“東芝に深くしみ込んでいる企業体質”なのでしょうか。私たちが東芝の現役社員であった頃には「経理のケイは警察のケイ」と言われるほどで、経理部門が、堅苦しいと思えるほどチェック機能を果たしていました。現に、経理畑一筋の東芝勤めをしてきた同期生のM兄なども「東芝の不適切会計問題は、はずかしさを通り越して、悲しくさえなってくる。いくらTOPから言われても、はじき返す位の“厳然さ”が必要ではないか。」と悲憤慷慨しています。それでも、「抜け穴のない法はない」と言われるごとく、経理による厳しいチェックの目をかいくぐって不正事件を起こした“悪人”もいることはいましたが、それは異端中の異端であり、“企業体質”の産物とはかけ離れたものでした。最近のはやりで、今回も設けられている「第三者委員会」などなくても、管理者層や一般従業員ばかりでなく、経営TOPの言動にまで物言いを付けることができる“厳然たる”自律的チェック機能が働いていて、寧ろ某“有識者”の言とは逆に、「不正」を忌避する企業体質が根付いていたと断言することができます。


 2. 東芝は“悪人の巣窟”なのか

 一方、今回の不正会計事件が企業体質によるものでは断じてないということを知っている人たちの間には、「社長にしてはならない人を社長にしてしまった」という論調が強まってきていて、東芝OBの間でも、目下すっかり“大悪人”になりきっている西田厚聡、佐々木則夫、田中久雄の歴代3社長の、社長としてあるまじき善からざる言動が今更のように取り沙汰されるようになっています。確かに、そうした話の中には、“東芝マンらしからぬ”奇行に近い不躾な言動を伝えるものなど、眉をひそめたくなるものがありますが、いずれもいわば“小悪”であって、歴代3社長の個人的な人格上の欠陥が、世間をお騒がせしている「大悪」に俄かに結びつくとも思われません。仮に「大悪人」が3代にわたって社長に選任されたのだとしたら、東芝はとんでもない“悪人の巣窟”だということになりますが、一人の「大悪人」に出遭うことなく38年間の東芝ライフを全うした私にはとてもそのようには思えません。東芝はそもそも三井系企業なのですが、同じ三井系でも給与や退職金のレベルがけた違いの三井物産社員などから「東芝の皆さんは収入が少ないのによく頑張っているなあ!」と感動(同情?)されるほど“清貧”を好む「善人の集団」なのです。そして、人間であるが故に、それぞれに多かれ少なかれ“小悪”の部分はあるものの、“善人”(お人好し?)過ぎる言動を多くの東芝マンが採ってきたからこそ「公家の社風」と揶揄される企業風土で知れ渡るようになっていたのだと思います。


 3. 諸悪の根源は「分社化」にあり

 逸早く、アメリカのGE(General Electric)社から学んだ事業部制を採り入れた東芝は、それを事業本部制に発展させました。更に、その家電機器事業、e-ソリューション事業、医用システム事業、部品・材料事業、電子管事業の五つの事業本部を、社内カンパニーとして分社化したのは、2001年に私たち昭和38年入社組が東芝を定年退職してから後のことでした(2003年)。事業(本)部制によって東芝は、事業(本)部長に事業経営の権限を移譲することによって、事業の独立性を高めることに成功していたのですが、各社内カンパニーの社長に事業運営の全権を委譲することによって、経営の自律性と自由度を一層高めるために分社化制度が採られたのでした。しかし、分社化制度には大きな落とし穴が潜んでいたようです。事業本部制の時代には、権限は移譲できても責任は移譲することができないので、社長は東芝の事業全体の運営状況に関する総責任者であったのですが、分社化によって事業運営の責任と権限がそれぞれの社内カンパニーの社長に全面的に委ねられるに及んで、東芝の社長は、事業の実態や問題点の如何にかかわらず、もっぱら、社内カンパニーに対して高度の利益増出を要求し、事業の成果としての収益数値を集計して、全体としての企業運営の実績を株主に対して報告するだけの存在になってしまった。つまり、事業(ビジネス)展開に関して、東芝の“全的最適”を追求する存在がいなくなってしまったからです。


 4. 粉飾決算の根因は市場競争力の低下

 本来、「利益」は目的として得られるものではなく、QCD(Quality / Cost / Delivery)特性を備えた製品・サービスを提供し、それをお客様が買って下さることによって、いわば、ビジネス展開の“結果”として得られるものです。ところが、分社化によって、東芝本社社長と社内カンパニーの社長との間では、結果としての利益だけが問題となり、それぞれの事業の実態や問題点、改善策などに関する情報交換が等閑視されることとなってしまっていたようです。この点では、同じように分社化したJR西日本が福知山線で大事故を起こし、JR北海道が随所に杜撰な安全管理ぶりを示しているJRに似ているように思えます。JR各社が、数値(結果としての利益)のみを競い合うようになり、旅客運送サービス業として最も重要なQ(Quality)である「安全性」が等閑視され、ATS(Automatic Train Stop:自動列車停止装置)の設置などの投資がなおざりにされていたからです。また、東芝が進めてきた“選択と集中”は、“全的最適”の見地から、ヒト・モノ・カネといった経営諸資源を事業単位(ビジネスユニット)毎に再配分することによって事業構造を変革するためのものでした。しかし、分社化以降は“全的最適”を期することができず精々個々の社内カンパニー内での“個別最適”を追求するにとどまったため、東芝の事業構造の変革は相当に遅滞したものと見られます。従って、東芝の提供する製品・サービスのQCD(Quality / Cost / Delivery)の全体的レベルも下がり、市場競争力も収益体質も弱体化していたものと考えられます。市場競争力が低下した結果得られる利益が減少し、粉飾決算をせざるを得なくなったのですから、東芝は分社化政策の功罪を改めて問う必要があると思います。JRが、最も重要なQ(Quality)要因である安全性を等閑視しながらもなお高経営業績を保っているのは、民営化されたとはいえ実質的には競争原理が働かない独占市場で事業を営んでいるが故と理解すべきでしょう。小泉元首相は「郵政民営化は改革の本丸」などと言語明瞭意味不明なことをのたまわっていましたが、企業の所有形態の変更(民営化)や機構の変更(分社化)だけでは改革が実現できないということは自明の理です。「改革」という言葉を無批判に用いているマスメディアの論調を鵜呑みにしていると物事の本質を見失いがちになるという警告をここからも得ることができると思います。


 5. 裸の王様”が現出する土壌が

 事業本部制の時代の本社経理部門は、ゼネラルスタッフとしてTOP経営者を補佐する機能を果たしながら各事業本部内の経理部門を指導監督する立場にありました。当時の経理部門が「いくらTOPから言われても、はじき返す位の“厳然さ”」を保ち得たのは、経営の根幹である“事業”の実態を熟知していたからこそ、確信を持ってTOPに対して苦言を呈することができたからだと思います。管理機構が決して柔なものではなく、暴君の横行を許すようなものではなかったからこそ、東芝は創業以来140年の歴史を紡ぎあげてくることができたのです。ところが、分社化によって社長とともに本社経理部門が“事業離れ”してしまったために、強力な自律的チェック機能が喪失し、誰からも諫められることのない“裸の王様”が現出する土壌が形成されてしまったのです。確かに「東芝問題の根っこは、リーダーシップの質の低下にある」のですが、東芝の人事政策には時系列的な断点がなく、“悪人”の素養があるものが東芝社員として採用されるようになったとか、“裸の王様”の候補者が重用されるようになったとかいう事実は全く見当たりません。東芝が「公家の社風」から一転して「悪人の巣窟」に変わってしまったのは、組織機構史上の断点となった「分社化」に真の原因があるとしか考えられません。「リーダーシップの質の低下」という問題に対して「リーダーシップの質を向上させよう」というのでは、いかにも対症療法的であって真の原因を除去することができません。今回の不祥事について、未だに社員に対して然るべき説明がなされていないと伝え聞いています。相変わらず“清貧”を貫き続けて、もっぱら自分が担当する製品・サービスのQCD(Quality / Cost / Delivery)を改善することによって顧客満足度を高めることに心血を注いでいながら、“悪徳企業”の社員として白眼視されている後輩たちが不憫でなりません。


 
6. マスメディアの“偏向報道”の裏で

 仮に暴君が現れて自律的チェック機能を破壊してしまったとしても、商法の番人に当たる監査法人が「第三者委員会」に代わる機能を果たして企業の“非行”が食い止められる仕組みになっていて、現に東芝も相応の代償を払って監査法人に監査を委ねていたようです。しかし、現実には“非行”が食い止められず、結果的に株主の皆さんにも多大な迷惑をおかけして、その不信を買うことになってしまいました。ところが、東芝が犯したのが“殺人罪”だとすれば“殺人幇助罪”に当たる罪を犯した監査法人に対するマスメディアの風当たりは弱いようです。一事が万事であり、監査法人は、一東芝だけでなく随所で“殺人幇助罪”を犯していることが考えられますが、マスメディアは商法の番人の犯した罪については寛大なようです。マスメディアの視線が東芝に集中している間に、自ら犯した“殺人罪”と “殺人幇助罪”の証拠隠滅に奔走している企業や監査法人が随所にあるのではないでしょうか。監査法人はいわば司法機関ですが、マスメディアは総じて司法機関に対する批判が甘いようです。自民党が国会に招致した長谷部恭男教授も含めて、大半の学者が「違憲違反」を指摘しているのにもかかわらず、安倍内閣は安保関連法案を強行採決に導いてしまいました。ところが、憲法の番人である最高裁判所には安倍政権の“非行”を掣肘する姿勢が見られず、マスメディアにも黙秘を決め込む最高裁判所を批判する論調が見られません。もっとも、裁判所の立場は“専守防衛”ですから、原告が訴えるまでは作動しようとしないのかもしれませんが、時きたらば最高裁判所が違憲立法審査権を発動するのだろうか、発動しない場合にマスメディアは果たして最高裁判所に対して厳しい批判の目を向けるのかどうか甚だ心許ないところです。“悪”を犯したのですから、私たちOBも含めて東芝の関係者が針の筵に座らされるのはやむを得ないことですが、針の筵に座りながらも、マスメディアが、“まことしやかな有識者発言”も含めて、死に体企業に対する“偏向報道”に傾いてうちに、国家の将来を危うくする“巨悪”が然るべき批判を受けないまま罷り通っているのを心から懸念しています。所詮はゴマメの歯ぎしりに過ぎないのでしょうが。