ちょっと発表




 知らざりき箱根の関所

 今回新たに11期学年幹事に就任された遠藤紀忠さん(3組:通称エンちゃん)がWeb11で紹介してくれていた小田原シルバー大学16期の会の11月定例講演会(11/12)に行ってきました。場所は、「小田原川東タウンセンター」「マロニエ」と案内にあったのですが、ともにカーナビに入力することができなかったので、人づてに近傍にあると聞いていた「ロビンソン」を入力し、付近に行ったら“勘ナビ”で探そうという算段にしました。しかし、案ずるより何とやらで、「ロビンソン」より早く「マロニエ」のありかが分かりました。到着が早すぎるかと思っていたのですが、エンちゃん達事務局の皆さんとほぼ同着。手慣れた様子で準備が進められているのを見ているうちに、三々五々、受講者が来場。小田原シルバー大学16期の会の主催ですが、受講者は16期生に限らずシルバー大学出身者全般にわたっている様子でした。常連さんが多いせいか皆さん和気藹藹としています。

 さて、我らが小田高11期生の受講者はと思って見ていたのですが、受付で名乗る必要がないこともあって、何人受講に来られたか分かりません。但し、エンちゃんを通じて予めビデオ撮影の許可を申請していた斎藤良夫さん(7組)が来られていたのだけは分かっていたので、お互いに初対面だというエンちゃんにお引き合せしました。しかし、エンちゃんはWeb11を愛読しているのでしょうか、斉藤さんの“持ちネタ”の一つの「狛犬」について講演してくれるよう早速“出演交渉”していました。これで、斉藤さんの講演会が実現すれば、先(8/20)の望月郁文さん(3組)に次いで2人目の小田高11期生からの講師“拉致”ということになりそうです。“灯台もと暗し”で、私たちは同期生の中に魅力的な講師役がいることに気づかなかったわけです。月例で行われているこの講演会の講師も来年6月分までは既に決まっているとのことです。講師フィクサー役としての経験豊富な新任学年講師として、OHCDの際の11期生主催の講演会の講師選びにも大いに貢献してくれそうです。

 一方、Web11常連投稿者の一人であるにもかかわらず斎藤さんはエンちゃんの案内記事は読んでおらず、私からのメール連絡によって今回の講演会開催を知ったとのことで、私は斎藤さんに感謝されてしまいました。やはり、情報連絡網にはこのようなポテンヒットが生まれがちなものです。今後とも、必要に応じて、多少の重複や錯乱を覚悟の上で、広報担当常任幹事として、11期生各位に対するメール同報発信を行なうことによって、同期会関連のイベント類の周知徹底を図るとともに、Web11に対する注目度を高めていこうと思い直しました。

 さて講演の講演者は箱根町教育委員会生涯学習課文化財係・郷土資料館主任学芸員(なんと長い肩書!)の野坂優介さんで、演題は「よみがえった箱根関所」でした。野坂さんが「よみがえった」という点に焦点を当てておられたのは、文化庁や国土交通省などからの支援を得て、総工費30億円を投じて、文化遺産として、そして、観光資源として箱根関跡を復元する事業に関られたからだと思います。この間に、箱根関所の歴史や役割、規模から手形・証文、建築技法などに関する古文書や、発掘調査の結果発見された遺構や遺物などをベースとして事実を踏まえ、また、分かり易い解釈を加えながら解説し、我が“知らざりき箱根関所”を示して下さいました。

 先ず第一に文化庁はいざ知らず国土交通省がなぜ 箱根関跡復元を支援したのかというと、もともと江戸幕府が発足して真っ先に手掛けたのが街道の整備であり、関所の配置がその重要な一環となっていたことと関係がありそうです。この箱根関所も古文書によると、他の場所にあったのですが、江戸幕府の全国約50カ所への関所配置計画の中で、江戸防衛の拠点として位置づけられ1619年頃現在の場所に移転されたと推定されています。そして、関所と言えば、人や物の出入りを監視する所に決まっていますが、ここ箱根の関については「入り鉄砲に出女」が重点管理項目になっていたということが知られています。

 「入り鉄砲」は、江戸幕府に対して謀反を企てるテロリストと武器の侵入を防ぐためですが、「出女」の方は、一種の人質として江戸に住まわせていた諸大名の妻女が国元へ逃げ帰るのを阻むためだったようです。ところが、奉行役から関所の役人に宛てた高札の文書「定」には、女性を識別するためのチェックポイントについては事細かに書かれていますが、鉄砲については鉄砲のテの字も書かれていません。箱根関所の管理責任に当たる小田原藩は「なんと“無鉄砲な”!」と思われがちですが、鉄砲を携えた不逞の輩は、「定」に書かれていなくても一目瞭然なので取り調べの対象になるに決まっているからだと思います。

 「出女」の方も、当時の箱根関を通った旅人の日記によりますと、実際は簡単なチェックがされていただけのようです。これも、“やんごとなき”大名の妻女とあらば、挙措動作からして一目同然であり、パスポートに当たる手形・証文の類も持ち合わせていないのですから自動的に監視の網にかかることになります。ですから、その他大勢の女旅人は、存外伸び伸びと「出女」することができていたのでしょう。しかし、建前としては「厳重な管理が行われている」ということを知らしめることが必要であったため、物々しく警備用の槍や弓などが目立つ場所に備えられていて、実際に関を通行する人たちに極度の恐怖感や緊張感、不安感を与えていたようです。

 このことは、その昔、小田高11期同窓の水口、山本、中澤(いずれも7組)と「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」(http://h-sasaki.net/CanadaAmericaDrive3.htm)をしていて、陸路米加国境を越えようとしていた時に通った国境管理事務所が物々しい雰囲気をしており、なんの咎められるところのない私たちさえ大いにビビったことからも、さもありなんと思えます。ヨーロッパでは、多くの国の間でシェンゲン条約が結ばれていて国境ので出入りが自由になされていますが、「入りテロリスト」の入国を防ぐことが焦眉の急を要する課題となってきました。「物々しい管理が行われている」と思わせる体制を作るだけでも十分効果があると思います。。

 ところで、“関所破り”と言えば、武力をもって警戒線を突破するような“勇ましい行為”だと思っていたのですが、実際にあったのは“関所をよけて通る”という“軟弱な行為”だけだったようです。“関所破り界のアイドル”とされている「お玉ちゃん」が典型的な例で、幼くして(多分)江戸に奉公に出ていたお玉が、伊豆の実家が恋しくなり、矢も盾もたまらなくて奉公先を出奔し、箱根山中で“関止め”を食ったという話です。飛び出してきたのですから当然通行手形をもっていないお玉は、仕方がないので厳重な関所の警備を避けて脇の山を越えて抜けようとしたのだとか。ところが、箱根の関所は芦ノ湖から山の上までずっと柵が巡らせてあるので、その柵を乗り越えようとして柵に引っかかってしまったところを見回りの関役人見つかって、“関所破り”の罪で捕まってしまったのだそうです。そして、当時、“関所破り”は親殺しなどと共に最も重い罪とされていたので、哀れお玉ちゃんは死刑に処せられることに。天下の大罪を犯したわけでもないのに、情状酌量されることもなく処刑されたのもやはり、「箱根関所では厳重な管理がされている」ということを周知徹底させるためであり、お玉ちゃんは一種の見せしめとして使われたのだと思います。二子山の麓あたりに「お玉が池」があることは知っていましたが、これが玉ちゃんに由来しているとは“知らざりき”でした。

 講師の野坂さんは、「発掘調査の結果発見された遺構は不動産、遺物は動産」と分かりやすい説明をされていましたが、遺物の中には“不揃いの茶碗”がたくさん含まれているそうです。箱根関は規模最大で、通常は20-23人の役人が詰めているのですが、これが大部分は普段は小田原城下に住んでいる小田原藩士なのだとか。そして、箱根関所勤務を命じられたものが、銘々食材とともに食器を持参して、1カ月間の“単身赴任”、そこに“不揃いの茶碗”の謎を解くカギがあると野坂さんは言っておられました。遺物の中には徳利もあり、寒い箱根山中で暮らすために大量の酒が飲まれていた様子が分かるとのこと。服務規程には「勤務中大酒禁止」とありますが、芦の湖上の夜間見回りなどの際には寒さ凌ぎに飲酒したことも考えられますが、「大酒はダメでも“小酒”だったら大目に見てもらえたのでしょう」と、野坂さんは、建前と本音との狭間の微妙なところにまで立ちこんで、往時の箱根関所にかかわる人たちの生活や行動について解き明かしてくださいました。