江戸時代の平塚は、農業が盛んであった他に、東海道7番目にあたる
宿場町として栄えたそうです。現在の箱根駅伝でも東京から3番目の中継地になっていることは平塚が交通の要衝であることを象徴しているようです。しかし、1887年(明治20年)に開通した東海道本線の駅が設けられ、更に、市域の南部を横断する国道1号線と相模川沿いに縦断する国道129号が通ってからは、単なる中継地ではなくて商工業地としての立地条件が大きく改善されたものと考えられます。これに加えて、1905年(明治38年)に軍需工場が設置されたことが呼び水となって、数々の商工業企業がここに生まれたり誘致されたりしたことが、我らが小田原市などをさておいて平塚市だけを商工業集積地とする大きな要因になっているようです。工業都市としての発展ぶりは、日産車体、JT、横浜ゴム、キヤノン、古河電工、関西ペイント、三菱樹脂、パイロット、第一三共、不二家、高砂香料工業などの名手たちが平塚テニス選手権で活躍しているのをみれば一目瞭然です。
しかも、こうした製造企業の中には、戦前戦中に市域内にあったいくつもの巨大な軍需工場が戦後解体された跡地に移転・新設されたものが多いのだそうですから、平塚市は戦争の傷跡を巧みに癒し逆にそれを成長の糧にした都市であると言えるかもしれません。商業施設も平塚駅とその周辺や国道129号などの沿線に集積しています。我らが小田原市でも、鴨宮地区に商業施設の集積が進みましたが平塚市の比ではないように思えます。軍需産業自体は投入産出計数ゼロで何の付加価値も産み出さないのですが、その供給連鎖(サプライチェーン)に加わらんとしてこの地に参集した民生企業が、それぞれ大いに付加価値を算出し続けてきたことが、平塚市の経済成長と人口増加を陰で支えてきたものと考えられます。