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2014.03.30    3組 佐々木 洋

さくら狩人・湘南桜錯乱物語  Part 6〜10
 
この元原稿には地名・由来等にwikipediaへのリンクがありますが、当サイトでは外してあります。詳しくお調べになられる方は、Google等から検索してください。

Part 6   小田原城址・長興山(小田原市入生田)  探訪日:2013.03.27)   


小田原城址

桜咲く今は絶えたる“城内”に

 毎週水曜日は、西湘バイパスを一っ走りして早朝6時ちょい過ぎに小田原に到着。本町地内の箱根口にある実家筋の蕎麦屋「東喜庵」に立ち寄ってから、ラジオ体操仲間の「和みの会」に加わります。私が通っていたのは、歩いて2-3分の小田原市立本町小学校。現在では、同じ小田原市立の城内小学校と統合されて「三の丸小学校」になっています。この校名は、現校地が小田原城の三の丸だったことに由来しているのですが、二の丸だろうと三の丸だろうと“城の内”のはずですから、「もともと、本町小学校も城内小学校であった」ということになります。しかし、名前は変ったが所在地は変っていない我々本町小学校はまだしも、名前も所在地も変ってしまった城内小学校卒業生にとってはシックリいかない話なんじゃないでしょうか。そんな不公平感をとりのぞくかのように、両校出身者がともに“我が学び舎”とはシックリ思えぬほど堂々とした校舎が建てられています。白壁、瓦葺で武家屋敷風のデザインですが、規模が大きいのでむしろ城館という感じで、同じ本町町内にある漢方薬本舗“ういらう城”と並んで堂々威風を放っています。

 下の写真のソメイヨシノの若木の向こうに校舎の一部が写っていますが、本町小学校の面影はまるで残っておらず、僅かに楠の古木に昔を偲ぶ縁があるばかりです。因みに、ここが、現校地は江戸時代に小田原藩の藩校「集成館」(我らが小田原高等学校の前身!)のあった場所なのだと今頃になって知りました。中学校同期の女子たちが数多く通っていた城内高校も、小田原高校に統合され、こちらの方は校名まで合併先の「小田原高校」になり吸収されたような形になっています。城館校舎完成に当たって(平成7年)、小田原高等学校の前身の跡地への転向を強いられた現在25-31歳になっている当時の城内小学校在校生もさることながら、名実ともに、小田原高等学校に吸収され、“城内高校出身”の実態の姿も形もなくしてしまった城内高校の卒業生の皆さんの胸中は如何ばかりのものかと、余計なお節介とは知りながら我がことのように胸痛めております。


 


お前もと老いた桜に励まされ

 向かって右側が三の丸小学校で、左側が幼少のころから慣れ親しんできた「お堀端」です。この道の左側の「お堀端」までが小田原城址公園ですから、三の丸小学校は小田原城址公園の南側に隣接した形になっています(下左の写真)。「お堀端」の道路側のソメイヨシノ(下右の写真)は、私たちが本町小学校に通っていた頃から、ここで花を咲かせ続けてきているのですから、70歳は疾うに超えているはずです。老いてますます盛んに、華やかな花を咲かせる姿を見ていると、「お前も頑張れよ」と心優しく励まされているような気がしてきます。


 


これぞ桜の原風景

 お堀に面して咲き並んでいるソメイヨシノたちも負けていません。特に、水に映えたソメイヨシノの姿をみると「これぞ我が心の桜の原風景」という感じがしてきます(下の写真)。各地の桜狩りをしてきていますが、どこに行っても、幼い頃から慣れ親しんできたこの「お堀端の桜」を原尺として、無意識のうちに対比し続けてきたのかもしれません。「桜と水の取り合わせ」が何より貴いもののように思われます。最下段の写真は2009/4/10に撮ったものですが、花びらを浮かべたお堀の水面の風情もなかなかのものです。


 
     
 
     
 
     
     
 
     
 


趣添える古城の遺構たち

 石垣と桜(下の最上段左の写真は2011/4/8撮影)、石橋と桜の取り合わせも風情のあるものですが、我が幼少時からの「お堀端の桜」のイメージには、隅櫓と学橋(まなびばし)の存在が欠かせません。下の最下段右の写真に欄干が学橋で、ここを渡ると二の丸。ですから、この二の丸東掘の畔にある隅櫓は正式には「二の丸隅櫓」というのだそうです。明治に入ってから、小田原城は廃城となり、天主閣を始めとするお城の建物はほとんどが破却され、この二の丸隅櫓だけが唯一存続して“古城”の面影をとどめているものと信じ込んでいたのですが、実は、1923年(大正12年)の関東大震災により堀の中に石垣ごと崩落してしまったのだそうです。

 現在の隅櫓は、1934年(昭和9年)になって復興されたものですが、復興予算が乏しかったので、江戸時代のものと比べるとおよそ半分の大きさになっているのだとか。ですから、かつての隅櫓は、城主の居館(御殿)があった二の丸主部の南東の隅にどっかりと位置していて、堀をはさんだ向こう側の三の丸にあった大手門の真後ろを見渡していたわけです。櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や鉄砲を放つようになっていたそうですから、なかなか“隅におけない”隅櫓だったようです。しかし、桜との取り合わせの面では、現在の小ぢんまりした隅櫓の方が遥かに様になっています。昭和初期の小田原市の財政難が、現在の花見スポットとしての立地には逆にプラスになっているようです。


 
     
 
     
 
     
 


学童の庭変じて和みの場に

 かつての城内小学校の跡地の東南の隅に二の丸隅櫓があります。ですから、三の丸小学校として統合されてから新校舎ができあがるまでの3年間は、本町小学校の小さな後輩たちも“一時疎開”して、学橋を渡ってここに通っていたことになります。そして今、二の丸隅櫓と背中合わせの元城内小学校の運動場の一隅に、「和みの会」の皆さんが毎朝集ってラジオ体操をしていて、それに本町小学校大先輩の私も水曜日ごとに学橋を渡って参加させていただいているのです。かつて学童たちの歓声が湧きあがっていた場所は、すっかりと中高年の市民のための「和みの場」となっています。学橋を渡らなくなった学童たちが通っている三の丸小学校の校舎(下の2段目左の写真)も、お堀の反対側にある中層のビル(下の2段目右の写真)とともに、いつの間にかお堀の風景に溶け込んできました。変りゆく小田原ですが、お堀端のソメイヨシノは、華やかな春の彩りを添え続けていって、変ることなく、小田原市民の桜の原風景となっていくことでしょう。


 
     
 


本丸も桜の装い

 お堀端から離れてなだらかな坂を登っていくと、目の上の方に白塗りの建造物が見えてきて(下の上段左の写真)、更に、赤塗りの常盤木橋(下の上段右の写真)を渡って石段を登っていくと常盤木門があります。この門は本丸の表門にあたるため、重要な防御拠点として、最も大きく堅固に造られたのだそうで、その名前も、城の永久不変の繁栄を願って傍らに常盤木が植えられたことに由来しているようです。そして、この常盤木門を入るといよいよ本丸。ここでも常盤木門(下の下段左の写真)と天守閣(下の下段右)がソメイヨシノに彩られていました。


 
     
 

 天守閣の構造は「複合式層塔型3重4階」で、城郭構造は「平山城」とされていますが、ソメイヨシノを下にした山城風の外観(下左の写真)と、ソメイヨシノが枝をかざす平坦なお堀端の情景(下右の写真)を併せ持っているところが小田原城の特別なところであり魅力でもあるのではないかと思います。

 


小田原城のあれこれ

日本有数の大きくて珍しい城郭であった
 ラジオ体操の後で、小田原高校3年3組同期同級の根岸俊郎兄に誘われて里山歩きをした時に、思わぬところに空堀があったのでビックリしました。小田原市に生まれ育っていながら「小田原城は日本有数の城郭規模をもった城であった」ということを知ったのはそれからのことでした。小田原城は、北条氏の本拠地として名を馳せたこと、そして、居館を現在の天守の周辺に置いていた北条氏が、後背にあたる八幡山(我らが小田原高校の現在地)を詰の城としていたことくらいは、おぼろげに知っていたのですが、江戸時代にその居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となり、八幡山の方は放置されたのだということも初めて知りました。そのために、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残っている“全国的に見ても珍しい城郭”なのだそうです。

広大な外郭に守られた難攻不落の城でも
 八幡山から海岸地区に至るまで、小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲む広大な外郭をもっていることが小田原城の最大の特徴なのだとか。これは、豊臣軍に対抗するために築かれたものですが、規模としては後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいるそうです。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒したためか、1614年(慶長19年)に徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてきてこの総構えを撤去させているのですが、なお撤去しきれず、現在も北西部を中心に遺構が残っているそうです。結局、豊臣秀吉は小田原を征伐したのですが、そのために石垣山に一夜城を築城するという大変な労力を通夜しています。全国区でビッグネームの豊臣秀吉や徳川家康さえ手こずらせたのですから、3代当主北条氏康の時代に、全国区ビッグネームの上杉謙信や武田信玄が押しかけてきても、その攻撃に耐え「難攻不落、無敵のお城」と呼ばれたのはむしろ当然なのかもしれません。豊臣秀吉が小田原征伐(小田原合戦、小田原の役)によって天下統一の仕上げをしたのも、小田原城自体は攻略されたわけではなく、圧倒的な物資をもって取り囲み、3か月間にわたる篭城戦の末ほとんど無血で開城させられたのですから小田原城の恥ずべきところではありません。しかし、この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかったために「小田原評定」という言葉ができてしまったのは、小田原市民にとってチョッピリ恥ずかしいことのように思えます。

北条早雲は小田原城主ではなかった
 元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館を、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、ここを基点として相模国・伊豆国方面に勢力を広げたのですが、後に、伊豆国を支配していた伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪って配下に収めたのが小田原城の起源のようです。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされていますから、JR小田原駅西口に銅像が建てられている北条早雲はその時期は小田原城主になったことがないということになります。そして以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城となり、小田原が南関東における政治的中心地となったわけです。更に、北条氏没落後に城主となった大久保氏が改易されてから、城代が置かれた時期もあったのですが、阿部氏と、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封されるといった城主交代歴がある小田原城に、江戸時代には小田原藩の藩庁があり、“入り鉄砲出女”といわれた箱根の関所の管理役を幕府から仰せつかっていたようです。主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城となっているのも、土塁のみの城の多い関東地方では特殊なのだそうです。それだけ、関東の入口としての小田原城が重要視されていたのでしょう。なお、現在のような総石垣の城になったのは1632年(寛永9年)に始められた大改修後のことであり、二の丸や三の丸、各種の曲輪などが設けられ、小田原城全体で、城門が13棟程、櫓が8基程建てられるようになったようです。




長興山のしだれ桜

樹齢約340年の若々しさ
 小田原市の郊外の入生田にある「長興山の枝垂れ桜」は、かねてから私の憧れの観桜スポットの一つになっており、2012/12/11に、小田原市内の辻村植物公園から入った長興山・石垣山ハイキングの際にも、「長興山の枝垂れ桜ももちろん季節外れですので心眼で見るしかありません。…ホームページ“さくら狩人”の西神奈川版を作成する予定ですので、春には再びここを訪れることになりそうです」とレポートしています。そして、念願かなって再訪し撮影したのが下の写真です。

 
 

 日本三大桜の一つとされる樹齢1,000年の三春滝桜を見慣れている私は、前回訪れた時に「艶やかさではこちらが一歩も二歩も譲る」と心眼で見ていたのですが、いざ実眼で見てみると、なかなかの艶やかさで、花が滝のように垂れ下がる姿は、元祖・三春“滝”桜さながらです。また、樹齢約340年と聞いて、樹齢1,000年の三春滝桜と比べると「若々しさが感じられる花姿」と心眼で見ていたのですが、まさにその通りで、いかにも“老優”然とした三春滝桜に比べると“若手”の雰囲気が漂っています。高さ約13m、株元周囲約4.7mで、既に「かながわ名木百選」に選定され、小田原市指定天然記念物になっているそうですが、樹齢約340年は枝垂れ桜の世界では“若手”のうち、いくいくは更に“修業”を積んで、日本三大桜クラスの全国区の名木ランキングに加わってくれることでしょう。因みに大先輩の三春滝桜の写真は以下のサイトに掲載されていますのでご覧になってみてください。

「さくら狩人…福島ふとどき風土記」http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/SakuraFukushima-a.htm
「About38三春分科会 & 2007/4例会メモ」http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/About38Miharu.htm


そこはかとなく漂う古の歴史と歌心
 この長興山の枝垂れ桜は、江戸時代の小田原藩主の稲葉正則が植えたと言われているそうです。植えられているのが長興山紹太寺というお寺の境内だそうですから、「長興山」というのはお寺の山号なのかもしれません。確かに、桜に出遭うのに、坂道や階段を登る結構ハードな“山”歩きをしなければなりませんが、「どこが長興“山”なの?」と思えるような土地柄です。もっとも、長興山紹太寺自体がどこにあるのか見当がつかなかったのですが、後にネット・サーフィンをしてみたところ、「小田原藩主・稲葉家の菩提寺であった長興山紹太寺が“かつてあった”場所」という記述がありました。この枝垂れ桜から程近いところに三代将軍徳川家光の乳母春日局と、その血を引く稲葉一族の墓も近くにありますが、立て看板の説明によると、ここにある春日局の墓は本墓ではなくて慰霊塔なのだそうです。小田原藩主であった稲葉正則は「春を忘れぬ形見に」と吟じながらこの桜を植えたのだとか。そこはかとなく古の歴史と歌心が漂う枝垂れ桜の艶姿でした。



Part 7   平塚市総合公園  探訪日:2013.03.29)   

桜の園があったとは
 毎週水金曜日恒例(隔週月曜日も)の平塚市総合公園コートでのテニスが終わった後で公園の奥に脚を伸ばしてみますと、索莫としたテニスコートとは様違いの、春爛漫の華やかで穏やかな別世界が広がっていました。テニスコートの他に、野球場、競技場、総合体育館や温水プールを備えた本格的な“スポーツ総合公園”であることは知っていたのですが、こんなところに広大な桜の園があろうとは思ってもみませんでした。

 
 
 

桜の楽園と化した海軍火薬廠
 以前ここには、筑波研究学園都市へ移転していった農林省の果樹試験場があり、その跡地ではノコギリクワガタ、シロスジカミキリ、オニヤンマ、アオダイショウなど非常に豊かな生態系が見られたそうです。そしてここに市制施行50周年を記念して、1982年(昭和57年)に総合公園が着工し1991年(平成3年)に完成する際に、メタセコイア、クスノキ、スギ、ウメ、ツバキ、バラ、竹などとともにサクラが植樹されたのが,現在の「さくらの広場」の起源のようです。なお、マツ、クヌギ、サワラ、イチョウなどの存在感のある大木がところどころに見受けられますが、これは果樹試験場の頃からあったものがそのまま残されたものだそうです。更に遡ると、果樹試験場の前は海軍火薬廠があり、そのために空襲を受けのだそうです。かつての武器・弾薬の貯蔵地が、果樹と昆虫たちの棲み家となり、今はスポーツマンと桜の楽園になっているわけです。子供連れが多くて、明るく健康的な雰囲気が“漂って”いって、花見とは名ばかりの花飲みで“ただ酔って”いるだけの人たちは、この桜の楽園には不似合いのようにみかけました。

 
 
 

面積も用途も心も広園であった
 子供向け施設の「ふれあい動物園」の他に、木製遊具のある「わんぱく広場」や「日本庭園」があるのも今回初めて知りました。
 この平塚市総合公園の総面積は約30haですから、東京ドーム6.4個分の広さですが、その物理的な広さもさることながら、「総合公園」の名にふさわしい用途の広さ、そして何よりも、この広大な土地を工業団地とも住宅団地ともせず、もっぱら市民の福祉のための公園として再開発した平塚市政当局の皆さんの心の広さに改めて感動しました
 
     
 

 

平塚市再発見

人口右肩上がり増の謎

 平塚市の人口は、1970年の163,671人から2010年の260,776人に至るまで一貫して増え続けています。昭和7年にいち早く市制をとって商工業都市としての発展を目指してきたためか、神奈川県内の市では厚木市とこの平塚市だけが昼夜間人口比率が100%を超えていて、その商工業都市としての存在感を示しています。リゾート地域としての「湘南」のイメージは薄いのですが、かつて存在した湘南市構想が出た時には中心的役割を果たしたそうで、神奈川県南部の中心都市として革新のリーダーシップを発揮しようとする心意気もなかなかのものと見受けられます。大規模な空襲(*)を受けたことが逆にプラスになって、大胆な道路網の整備が行われており、早くから国鉄(現:JR)との立体交差化も推進されていて、現在のモータリゼーションのための道路行政を先取りした形になっています。自動車での通勤・通学が容易である上に、都心にもほど近くJR東海道線の東京発平塚行きの便数が多いこともあって、東京の住みやすいベッドタウンとしての評価が高まり、しかも、定住率が高いのが人口の右肩上がり増の一因となっているようです。
 (*)1945年(昭和20年)7月に、 陸軍戦闘機「疾風」を製造していた日本国際航空工業や、第二海軍火薬廠、横須賀海軍工廠分工場、第二海軍航空廠といった軍直轄の軍需工場が密集していた平塚市は大空襲を受け、当時の市域の面積の約8割、戸数の約6割を焼失し、死者237名、重軽傷者268名、罹災戸数7,678戸の大被害を受けたそうです。この時に落とされた爆弾(主に焼夷弾)の数は1162.5トン、447,716本で東京都八王子についで第二位だそうですから、平塚市が日本でも有数の重大な軍事基地であったかが分かるとともに、軍事基地の町に住んでいたために、銃もとっていなかった数多くの平塚市民が悲惨な目にあわされていたことを改めて知って胸が痛みました。

戦争の傷跡癒し成長の糧に転化
 江戸時代の平塚は、農業が盛んであった他に、東海道7番目にあたる宿場町として栄えたそうです。現在の箱根駅伝でも東京から3番目の中継地になっていることは平塚が交通の要衝であることを象徴しているようです。しかし、1887年(明治20年)に開通した東海道本線の駅が設けられ、更に、市域の南部を横断する国道1号線と相模川沿いに縦断する国道129号が通ってからは、単なる中継地ではなくて商工業地としての立地条件が大きく改善されたものと考えられます。これに加えて、1905年(明治38年)に軍需工場が設置されたことが呼び水となって、数々の商工業企業がここに生まれたり誘致されたりしたことが、我らが小田原市などをさておいて平塚市だけを商工業集積地とする大きな要因になっているようです。工業都市としての発展ぶりは、日産車体、JT、横浜ゴム、キヤノン、古河電工、関西ペイント、三菱樹脂、パイロット、第一三共、不二家、高砂香料工業などの名手たちが平塚テニス選手権で活躍しているのをみれば一目瞭然です。
 しかも、こうした製造企業の中には、戦前戦中に市域内にあったいくつもの巨大な軍需工場が戦後解体された跡地に移転・新設されたものが多いのだそうですから、平塚市は戦争の傷跡を巧みに癒し逆にそれを成長の糧にした都市であると言えるかもしれません。商業施設も平塚駅とその周辺や国道129号などの沿線に集積しています。我らが小田原市でも、鴨宮地区に商業施設の集積が進みましたが平塚市の比ではないように思えます。軍需産業自体は投入産出計数ゼロで何の付加価値も産み出さないのですが、その供給連鎖(サプライチェーン)に加わらんとしてこの地に参集した民生企業が、それぞれ大いに付加価値を算出し続けてきたことが、平塚市の経済成長と人口増加を陰で支えてきたものと考えられます。

隣接自治体との間の“領土問題”
 平塚市は隣接自治体の数が多く、相模湾に面した南部を除く東西北の三方で、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、伊勢原市、高座郡寒川町、足柄上郡中井町、中郡の大磯町と二宮町の4市4町と境を接しています。さぞや“領土問題”で揉めることが多いのだろうなと思っていたところ、「境界未定部分」があり、「湘南平」が大磯町との間の境界未定地域だということが分かりました。“本家・湘南”を名乗る大磯町と“湘南の覇権”を争うためには「湘南平」の帰属が重大な問題になりますが、平塚市ではチャッカリと湘南平を「平塚八景」のうちの一つとして加えています。これもチャッカリと“湘南”を冠した「湘南ひらつか七夕まつり」も、仙台市の“本家・七夕まつり”をパクっただけじゃないのかと思っていたのですが、これは前年に開催された平塚大空襲の復興祭りを起源として1951年(昭和26年)に 第1回七夕まつりが開催されたものであり、今や集客数が約300万人に達し仙台の約220万を抜いて全国一位になっているそうです。また、12世紀の末に、相模川に架かった橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降、相模川に「馬入川」という別名が付いたそうですが、当時の流域は現在の茅ヶ崎市だったという説があって、「馬入川」の故事についても茅ケ崎市との間の“領土問題”がありそうです。

 

Part 8   弘法山 ・水無川(秦野)  探訪日:2013.03.30)   

弘法山公園

信仰の山から桜の名所に
 弘法山は、秦野市南東部にある標高235 mの山で、隣接する権現山、浅間山と合わせて「弘法山」と呼ばれることが多く、ここに神奈川県立自然公園に指定されている「弘法山公園」があります。この名は、弘法大師がこの山で修行を行ったとされる故事に由来するというベタなものですが、実際、江戸時代には既に「弘法大師の祀られる」信仰の山として知られていたそうです。ところが、日露戦争の勝利を記念して当時の大根村(現在の鶴巻地区)青年団が桜を植樹してから桜の名所ともなったのだとか。ガイドブックには、「公園一帯で約2000本のソメイヨシノ、50本のオモイガワザクラがあり、サクラの開花時期には山全体が春色に染まる」とあります。残念ながら、どれがオモイガワザクラなのか識別できませんでしたし、「山全体が春色に染まる」景色に出遭うこともできなかったのですが、「弘法山と権現山を結ぶ馬場道のサクラは鮮やかだ」というのは確かでした。
 

「景勝50選」にして花の名所100選」
 弘法山公園内を散策していると、桜の花越しに、秦野の市街を見下ろせたり、丹沢の山並みを眺望したりすることができます。これもガイドブック通りで、「展望台のある権現山山頂のサクラも鮮やか」でしたが、この展望台からは、秦野市街や丹沢だけでなく、平塚市街や相模湾が見渡せ、晴れた日には箱根の山々や富士山、もっと運が良ければ江ノ島、横浜ランドマークタワー、更に新宿副都心のビル群や房総半島に至るまで360度のパノラマが楽しめるそうですから、ここが「かながわの景勝50選」に選ばれているというのもむべなるかなと思います。また、秋には紅葉もあり、アジサイ、ヤマユリなども咲いて、四季折々の美しさがあるというのですから、「かながわの花の名所100選」に選ばれているのも何の不思議もないように思えます。

 
 
 
 
 
     
 麓には、同じ秦野市内の大山南西斜面に源を発する金目川が流れ、これが隣接する平塚市に流れ込んで、この「さくら狩人・湘南桜錯乱物語」Part3でご紹介した「金目川(花水川)河畔」につながっていきます。また、ここから弘法山公園・吾妻山ハイキングコースを辿って「吾妻山」まで足を延ばすこともできます。但しこれは、Part2でご紹介した二宮の「吾妻山」ではなくて、伊勢原市内の秦野市寄りにあって、降るとすぐに鶴巻温泉というところにある“別の吾妻山”です。弘法山公園は「神奈川の探鳥地50選」にも選ばれていますので、秋になったら再び訪れて、バードウォッチングと紅葉狩りを堪能しながら、山歩きを楽しんでから、鶴巻温泉の「弘法の里湯」で入浴と洒落ようかと思っています。

 

水無川緑地

美し過ぎる運動公園
 花見スポットとして私が予めテニス仲間から得ていたキーワードは「水瀬川」ではなくて「秦野中央運動公園」でした。確かに「水瀬川」では、小さい川ですがそれでも延長距離が11.5kmありますから花見スポットを特定するのが難しいことになります。そして、実際に行ってみて、「秦野中央運動公園」自体が素晴らしい花見スポットだということが分かりました。「水無川」の土手との間の道路が約1kmに渡る見事なソメイヨシノの桜並木になっており、桜祭り開催中でお土産や食べ物を売る屋台が立ち並ぶ公園内には端正な姿の枝垂れ桜まで咲いて花見客の出迎え役を果たしていました(下段右の写真)。これまでに桜狩りする中で運動公園も数々見てきましたが、このように妖艶な感じさえ漂う桜が立ち並ぶ運動公園は初めてです。秦野市のアスリートたちは桜の美しさに心奪われることなく競技に集中できるのだろうかと“老爺心”ながら心配してしまいました。

 
 
 


“水が無い”のに”流域”とは
 「秦野中央運動公園」と並ぶ「水瀬川」の流域が「水瀬川緑地」になっていて、この土手にソメイヨシノが立ち並んで満開の花を咲き競わせていました。夜目遠目ではありませんが、橋を渡って対岸から遠目で見ると(2-3段目の写真)、これがかなり端正な姿をした桜並木で「水瀬川」の“流域”を飾っていることが見てとれます。“水が無い”のに”流域”というのはヘンですが、いかにも「緑地」っぽく整備されていて、芝生や灌木の切り込みなども植えられていて、シバザクラなどの草花が緑地に彩りを添えていました。

 
 
 
 
 

 

由緒正しい「水無川」
 “水が無い”のに”水源”というのもヘンですが、元をただせば、この「水無川」も秦野市の北部に位置する丹沢山系の「塔ノ岳」に源を発し南流する「水有川」で、秦野盆地の扇端部で流量の大部分が地下に伏流しているのであって「水無川」は世を忍ぶ仮の姿なのです。するため中央部で南東に向きを変え、秦野市河原町と秦野市室町の境界で室川に合流する。「塔ノ岳」と言えば標高1490.9mで、世が世であれば(あと10cm以上高かったら)、標高1491m で第10位の 同角ノ頭・テシロノ頭になり代わって「丹沢の山高さベスト10」入りできた程の表尾根で最高峰の名山(因みに大山の標高は1251.7mです)なのですから、「水無川」は出自の由緒正しい川なのです。
しかしそれでも、前掲の写真をご覧になって、僅かな水量だとはいえ「水があるのに水無川を名乗るのは詐称ではないか」とお思いの私と同様にウタグリ深い方がおられるかと思います。不審に思って跡で調べてみると、これは、戦後になって“流域”に増えた工場や住宅から流入する水(排水や浄化処理された水)であって、本来の“清く正しく美しい天然水”ではないということが分かりました。「水無川」にしてみれば汚名ならぬ汚水を流されている上に詐称の嫌疑がかけられるのは迷惑千万なのでしょうが、下流で地上に現れる伏流水と“清濁合わせ”て、秦野市内で合流する金目川水系の室川に“水に流して”います。



秦野市についての一言

「はたの」でなくて「はだの」であった
 城山中学時代と小田原高校時代に秦野から通学している学友が数々ありながら、「秦野」が「はたの」ではなくて「はだの」なのだということを、桜狩りの時にもらったパンフレットに「はだのハイキングマップ」と書かれているのを見て初めて知りました。小田原高校の後輩でSGテニスクラブの会長をしている松並壯クンの“一家言”によると、この地名も大磯に上陸して金目川を遡ってきた朝鮮民族の秦氏に由来しているということになります。確かに、韓国に秦という姓はありますが、“大磯から金目川を伝って”というところは限りなく“いい加減”っぽく思えます。しかし、諸説があるようですが、どこかからの帰化人である秦さんが、この地に居着いて開いたというのは確かなことのようです。

三つの浅間山と三つの吾妻山
「秦野=盆地」という恒等(荒唐?)式は昔から頭の中にあったのですが、平野部を北側で囲むのが表丹沢山塊だということだけ知っていて、東南西の三方はどんな山並みが囲んでいるのか知らなかったので、この際に地図で調べてみました。すると、南側は渋沢丘陵が中央の平野部を囲んでいて、丘陵の上の足柄上郡中井町との境界近くに名前だけ知っていた「震生湖」があることが分かりました。先に訪れた弘法山は、市街地の東南東部にあって、ここから北北東の方向にある大山に向かって走る尾根筋が秦野盆地を東側から包んでいるということも分かりましたが、この尾根筋の大山寄りに「浅間山」があるのを“発見”して少々驚きました。権現山とともに弘法山と総称される「浅間山」とは“別の浅間山”がここにあったからです。更に、盆地の西側に目を転じたところ、頭高山や八国見山、竹山と並んで、ここにも“別の浅間山”があったので驚きの度合いが増しました。その上、秦野盆地を西側から囲む山並みの先には、弘法山公園・吾妻山ハイキングコース上のでも二宮のでもない“別の吾妻山”がもう一つあるのですからビックリしてしまいます。

知らざりき“湧水の町”秦野
 別にもらったパンフレット「秦野おみやげマップ」では、“水と緑がはぐくんだ”を「秦野のみやげ」の枕詞にしています。このうちの「緑」は四方を囲む山並みのもので、「水」も四方の山並みから湧き出た水を表したものと思われます。実際に市の南西部の渋沢丘陵の麓あたりには、「峠湧水」、「若竹の泉」、「谷津湧水」、「赤松沢湧水」といった名称が、それこそ目白押し状態で地図上に書き連ねられています。一方、弘法山の麓から小田急秦野駅を中心とした市街地にかけても、「河原町湧水」、「弘法の清水」、「向原湧水」、「今泉湧水池」、「荒井湧水」、「一貫田湧水」、「小藤川湧水」、「まいまいの泉」、「とうめいの泉」、「千年の杜の水」といった表示が至るところにされていて「秦野の街は湧き水だらけ」の感がします。パンフレット「はだのハイキングマップ」によると、秦野の水は環境省の「全国名水百選」に選定されていて、「そのおいしさの秘密は、丹沢山塊から流出した土砂層で形成された秦野盆地の地層と関わっていて」、「雨水などが地層に浸透し地下水となって貯水され、ミネラル分を大量に含む清涼な水となって湧出している」のだそうです。秦野湧水群の中でも、秦野駅近くの「弘法の清水」からは100トン前後の清水が湧き出ているそうですから、もし丹沢山塊が火山であったなら、秦野市は日本有数の温泉地になっただろうになどと“水臭い”ことまで考えてしまいました。秦野市の名産が、落花生やそば・うどん、お茶などになっているのも盆地ならではの良質の水に恵まれているからこそなのでしょう。これまでは、盆と水の関係は「腹水盆に返らず」くらいしか頭の中になかったのですが、今後は盆地に出遭ったらまず「良盆地に良水あり」を意識したいと思っています。

 

Part 9   幕山・南郷山(湯河原町)  探訪日:2013.04.09)   

幕山公園にて

やれ嬉し八重の桜のお出迎え
 私たちが湯河原駅から乗ったバスは「鍛冶屋行き」とありました。幕山公園がある「鍛冶屋」という地名は、その昔、湯河原で鉄鉱石を掘って地元の薪炭で製鉄や刀鍛冶が行われていたことに由来しているようです。鉄鉱石が採れていて、鍛冶職の人たちがここに纏まって住んでいたってわけですね。温泉と海水浴場を擁する観光地、ミカンの段々畑のある“農業”地、また精々福浦漁港を中心とした”漁業”の地だとばかり思っていた湯河原に“鉱業”があったとは初耳でした。しかし、もとをただせば、箱根の外輪山の南側の広がったスカートの裾の部分に「湯河原火山」というのがあって、これが浸食されてできているのが湯河原の地形なのだそうですから、鉄鉱脈があったり鉄分を含む溶岩が相模湾に注ぎこんでいたりしても何の不思議もないはずです。道理で、子供の頃に泳ぎに来た湯河原の吉浜海岸の砂が黒っぽくて重いように思えたはずだと、今頃になって分かったような気がしました。そう言えば、規模は違いますが、ハワイ島にも、キラウェア火山から流れ込んだ溶岩が砕けてできた黒砂海岸というのがあったっけ。

 

幕山の山露にて

山桜ゆかしく時に凛として

 幕山公園は梅の名所で、幕山の裾のあたりの斜面には約4,000本もの紅梅・白梅が植えられていて、早春には幕山の中腹から梅花が咲き乱れる豪華絢爛の光景を俯瞰することができるのだそうです。今は梅の花のシーズンをとっくに過ぎていますが、幕山の山路の路傍には、スイセン、ナノハナ、タンポポ、スミレ、ボケ、アシビなどが、それぞれ慎ましやかに咲いていました。しかし、やはり日本で花と言えばなんと言っても桜です。山路の随所で姿を見せてくれたヤマザクラは、ソメイヨシノの華やかさや八重桜のような艶やかさはありませんが、他の春の野の花に似たゆかしさがあり、それでいて時に凛として爽やかな存在感を示して私たちの目を楽しませてくれました。小田原高校同期同級の山本悟正さんがいつも送って下さる「Yamaメール」の2013年4月号に次のような一節がありました。

青葉の新芽が出始める山肌に楚々と咲く山桜を遠くから静かに眺めるのもいいものだと思う。萌黄色の着物に描かれた白紋のようで好きだ。
 いかにもプロの写真家らしい“フォトグラフィックな名文”だと思います。

 


おちこちに古(いにしえ)語る火山跡
 「なだらかな道なのに、路傍にゴツイ岩が時折路傍に転がっているのはなぜだろう?」とか「どうして“幕山”という名前が付けられたたんだろうか?」と疑問に思いながら歩んでいる私の目の前に、そちこちに転がっている岩の総元締めみたいに急角度に切り立っている岩壁が見えてきました(下の小田原高校同期同級の根岸俊郎隊長兼カメラマン撮影の2葉の写真)。たちどころに、「ああ、そうか、この岩壁が下の方から見ると幕に見えるんだ」と得意の“邪推”をしてみたのですが、これが存外正解で、この岩壁の名が「幕岩」で、これが山名の由来になったと後で知りました。併せて、幕山が湯河原火山脈の中の溶岩円頂丘であり、形成時には火砕流を伴う噴火が起きたとも考えられていて、幕山の斜面には大規模な柱状節理が発達しているということも分かりました。今はロッククライミングの練習場ともなっている幕岩を見ながら誰かさんが「きっと、土地が隆起したのよ。だから、この岩壁ももとは“海底”にあったのよ。」という“海底仮説”を口にされていましたが、どうもこれには“改訂”が必要なようですので、遅ればせながらここでダメ出ししておきます。

 

 

頂きに至りて一気に幕が開き

 野の花々を愛でながらゆったりと登っていって幕山山頂に出ると、それまでカヤトに阻まれていた視界が一気に開けて、相模湾や伊豆半島の山々が見晴らせるようになりました。しかし、いきなりのクライマックス・シーン幕開けに私たちが歓喜の声をあげたのはそこからの眺望のせいだけではありませんでした。見事な樹形のヤマザクラが山頂に立ち、ここでは“花の女王”の座を取り戻すかのように咲き誇って私たちを出迎えてくれたのです。


 接写してみれば楚々とした花なのですが(左の写真)、枝ぶりも豊かで凛としていて、背景に見える真鶴岬を従者として従えているようにも見えます(右の写真)。鼻(花)より(葉)が前(さき:先)に出ることから、「出っ歯」の人のことを「山桜」とする無粋な表現がありますが、ヤマザクラはそれほど派手(歯出)な花ではありません。もともと「山桜」は山などで自生している品種の総称で、山桜を人が交配させて園芸用に作りだしたソメイヨシノを代表格とする「里桜」とは違って、日本古来の桜、いわば“桜の本家”なのですから「出っ歯」呼ばわりなどしたら罰が当たろうというものです。花びらの形が端正であり、華美に流れず、しかも凛としているところから「山桜」が広く家紋として使われてきているのもむベなるかなだと思います。

 

南郷山の山路にて

ここにまた萌黄に映える白き紋
 幕山からの下り路もなだらかで、私たちは芽吹いたばかりの緑の中で南郷山をめざしました。すると、ここでもヤマザクラは、つかず離れずのゆかしさをもって私たちを迎えて私たちを迎えてくれました。改めて、我が畏友・山本悟正さんの「萌黄色の着物に描かれた白紋」という表現が言い得て妙なるものだと思われませんか。幕山から南郷山にかけてのヤマザクラ・オン・パレードには、加藤カンちゃんが「花咲か爺さんの写真も一応…」とかなんとか言いながら撮ってくれた自称さくら狩人の私(下段右の写真)も大満足でした。

 
 
 

 

海と島霞にのたりとたゆたいて
 やがてすると、これもカヤトに囲まれた南郷山の山頂に着きました南郷山も幕山と箱根複式火山の外輪山南麓に位置する火山なのですが、山が溶岩でできていることを見破ることができない素人目には火山らしき面影が見えません。標高は611mで幕山より低いのですが、幕山と同じく頂上がハゲていて灌木も生えていないので、格好の展望台になっていて、真正面に見える真鶴岬(下左の写真)をはじめ右手には春霞の中に伊豆半島の山々を一望することができました(下右の写真)。霞んでいない時には伊豆諸島まで見えるのだそうですが、この日は精々、熱海沖の初島とカメラに入らないほどボンヤリと大島が霞んで見えただけでした。なんとなく「春の海ひねもすのたりのたりかな」の句を思い起こすようなのどかな光景です。 
 
 

 

降り行けば岬と海の迫り来て
 南郷山の山頂から、正面に真鶴岬の見える緩やかな山路を降っていくと、相模湾と真鶴岬がますま身近に見えてきました。海上も無風なのでしょうか白波が立つこともなく“ひねもすのたりのたり”とした晩春の海と、真鶴岬と手前に見える街並みの穏やかな佇まいが見事な調和を示しています。左下に“撮る人兼撮られる人”の根岸隊長、右上に名残のヤマザクラの一枝をそれぞれ配した加藤莞爾(通称:カンちゃん)名画伯兼名カメラマンのさりげないカメラワークにもご注目ください。(下の写真)
因みに、この「真鶴」という地名の由来は、この地を上方から見ると鶴の姿に見えるからなのだそうですが、凡庸な私の目には少しも鶴らしく見えません。ナスカの地上絵もそうですが、相当に高いところに心の眼の視点を設けなければ図形を見定めることができません。中途半端な高さの上部から見るのでは、精々「物見高い」とか「上から目線」、「上の空」とか言われるだけであって、真の意味での「大所高所から見る」ことにはならないのだと改めて悟らされてしまいました。 
 


湯河原のあれやこれや

湯の街に鉄(くろがね)の業ありしとは
 私たちが湯河原駅から乗ったバスは「鍛冶屋行き」とありました。幕山公園がある「鍛冶屋」という地名は、その昔、湯河原で鉄鉱石を掘って地元の薪炭で製鉄や刀鍛冶が行われていたことに由来しているようです。鉄鉱石が採れていて、鍛冶職の人たちがここに纏まって住んでいたってわけですね。温泉と海水浴場を擁する観光地、ミカンの段々畑のある“農業”地、また精々福浦漁港を中心とした”漁業”の地だとばかり思っていた湯河原に“鉱業”があったとは初耳でした。しかし、もとをただせば、箱根の外輪山の南側の広がったスカートの裾の部分に「湯河原火山」というのがあって、これが浸食されてできているのが湯河原の地形なのだそうですから、鉄鉱脈があったり鉄分を含む溶岩が相模湾に注ぎこんでいたりしても何の不思議もないはずです。道理で、子供の頃に泳ぎに来た湯河原の吉浜海岸の砂が黒っぽくて重いように思えたはずだと、今頃になって分かったような気がしました。そう言えば、規模は違いますが、ハワイ島にも、キラウェア火山から流れ込んだ溶岩が砕けてできた黒砂海岸というのがあったっけ。

湯河原は近くて遠い土肥知らず
 実は、湯河原駅でバスを待つ間の“閑中の閑”を利して、加藤カンちゃんと私は、好奇心の強さを競い合うようにして、駅舎を背にして立つ銅像の前まで行って、そこにある立て札を見て「土肥実平って、一体誰なの?」と異口同音に疑問の声を発していたのでした。名古屋生まれの加藤カンちゃんはともかく、ここから程近い小田原に生まれ育っていながら、私にとっては、その昔に金山があったという西伊豆の土肥が私の知る「土肥」の全てでした。ところが、湯河原の歴史を調べてみると、「現在の湯河原町」の本家筋である「旧の湯河原町」の前名が「土肥村」であり、更に遡れば、吉浜村や鍛冶屋村も含めて「土肥6ヶ村」と呼ばれていたくらいですから、まさに土肥こそ湯河原のルーツではありませんか。地名があって人名ができたのか、人名から地名がついたのか、しばしば問題になるところですが、湯河原の場合は、豪族土肥氏が平安末期から鎌倉時代にかけて、この地を治めたのは確かですが、土肥の地名は既に奈良時代から存在していて万葉集に出ているそうですから、地名があって人名ができたことになるのでしょう。南郷山から降りてきたところに「五郎神社」がありましたが、この社伝によると、天智天皇の御代に、加賀の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方は開拓されたのだそうです。そのうちに、こうしてできた土肥郷を「実効支配」する豪族が出てきて「土肥」姓を名乗ったものと思われます。同じ湯河原の幕山の南方に「城山」という名の山があるのも、山頂に土肥郷の豪族土肥次郎実平の城があったからだそうですが、「城山」は標高562mですから実際には「砦」か精々「出城」に過ぎなかったのでしょう。寧ろ、湯河原市街に「城堀」という地名あり、その「城堀」にはまた土肥一族の菩提寺とされる「城願寺」というお寺があるところを見ると、土肥氏にとっては土肥郷全体が「我が城」として意識されていたのではないでしょうか。

何語る土肥のカップル路傍にて
 そして、源頼朝が伊豆から挙兵した時に支援したのが、湯河原駅前の銅像のモデルとなっている土肥次郎実平なのだとか。珍しい夫婦(めおと)コンビの銅像で、石橋山の戦いで敗れた頼朝が土肥の山中に隠れて平氏側の大庭軍の追撃を交わした際に、尼に扮装してこっそり食事を運んだりして頼朝の再起に貢献したという実平の妻が、傍らに座して実平を仰ぎ見ています。しかし、小田原駅西口の北条早雲が駅に向かって、小田原への来訪者を迎えるかのように立っているのに対して、どうして銅像は、湯河原駅に背を向け、それほど車の行き来が多そうもない道路に面して立っているのでしょうか。銅像の足下にはスポットライトが設えられていてライトアップもされているようなのですが、銅像前を寸時の間に通り過ぎる車の車窓からでは、銅像そのものを見失いがちですし、たとえ見えたとしてもそれが頼朝による鎌倉幕府樹立を支援した土肥次郎実平夫婦カップルを顕彰したものだと識別できる人は僅かしかいないのではないでしょうか。現在でも、土肥次郎実平を偲ぶ「土肥祭」が行なわれているところから見ると、実平は古今を通じて、よほど地元民からの信望が厚かった武将だったのでしょう。また、1926年(大正15年)に「土肥村」が「湯河原町」に代わり、東海道線につながる以前にあった熱海線に1924年(大正13年)にできた駅名も「湯河原駅」となって、「土肥」の名が後退していくのが、殊に湯河原町内の土肥地区の住民には寂しく思えたことでしょう。“全国区”に打って出て鎌倉幕府初代征夷代将軍にまでのし上がっていた源頼朝を”地方区”で支えていた土肥次郎実平が果たしていた”縁の下の力持ち”としての地道ながら堅実な活動を地元の誇りと感じ、その精神を後代の地元民に伝えようとする、つまり、“地元民の地元民による地元民のための”銅像建立だったのかもしれません。

 

Part10   湘南平(平塚市&大磯町)  探訪日:2013.04.13)   
「東北の湘南」難民を癒してくれた「本場・湘南」の桜
 「湘南の中央・辻堂」から始まったこの「さくら狩人・湘南桜錯乱物語」の大取りは、やはり「湘南平」でなければ締まりません。但し、ここでご紹介する写真は2011年4月13日に撮影したもの。2011/3/11東北大震災に続いて起こった東京電力原子力発電所の爆発事故発生によって、天職の如く思えていた日本語教師としての仕事を失い、「東北の湘南」いわき市から「湘南の中央・辻堂」に避難してきた私たち夫婦は、約1ヶ月間の間、生活の張りとリズムを失っていたのですが、ここ「湘南平」を訪れて満開の桜に大いに心癒されたものでした。


「高麗山公園」は山名偽装であった
 「湘南平」は、平塚市と大磯町の境にある標高180m級の丘陵で、高麗山(こまやま)と泡垂山(あわたらやま)の山頂一帯を指し、都市計画公園としての名称は「高麗山公園」なのだそうです。確か、かつては「千畳敷」という垢ぬけこそしていませんが分かりやすい名前で呼ばれていたはずです。「千畳敷」という名前がいつの間にか聞かれなくなったのは、ここが公園として整備された際に「湘南平」と改名されたからだと分かりました。「高麗山公園」という名前にもあまりお目にかかったことがないのは、「高麗山公園」と称しながら、公園自体があるのが高麗山ではなくて泡垂山にあるというイカガワシイ経緯が背景にあるかららしく、公園自体も単に「湘南平」と呼ばれるようになることが多くなったからのようです。得体のしれないロブスターをブランド海老のイセエビと称する食品偽装が問題になりましたが、やはり得体のしれない山(泡垂山)にブランド山名(高麗山)を名乗らせる“山名偽装”も許されるものではありません。“山名偽装”を反省して(?)「湘南平」を名乗るようにした殊勝さ(?)が認められたせいかめでたく「かながわの公園50選」に選ばれています。

湘南平は平塚市が“実効支配”
  なお、都市公園としての「湘南平」(高麗山公園)は、Wikipediaによると、行政区分としては、平塚市(万田、高根)と大磯町(高麗、大磯、東小磯、西小磯)の各地区に跨っていて、面積は「(計画約140.8ha)のうち、平塚市:23.94ha、大磯町:3.70ha」だそうです。また、1957年(昭和32年)に、ここを自然公園とする計画を立て開発・整備したのが、平塚市と神奈川中央交通であり、ここを「湘南平」と命名したのも当時の平塚市長であった戸川貞雄氏だそうですから、「湘南平は平塚市が“実効支配”している」ということも、平塚市が湘南平を「平塚八景」の一つに加えているのも認めざるを得ないことのようです。個人的には、「湘南平」という垢ぬけした呼称は“元祖湘南”の大磯町の方がよほど似合うと思っているのですが。

まさに“湘南一景”の地

 ゲストハウスの屋上に上がると、360°展望が開けていて、羽白山(坂田山)越しに大磯港、大磯市街地、代官山が眼下に広がっています。南側には、相模湾と、眼下の大磯市街や大磯港から西湘バイパスの行く先にある江の島に至るまでの湘南の海岸線を一望することができます。北に目を転ずれば、“湘南の壁紙の山”大山に連なる丹沢連峰も眺望でき、まさに「湘南平」の名前通りの“湘南一景”の地です。また西側には、眺望に恵まれれば、富士山や箱根・伊豆の山々まで見渡せるというのですから「かながわの公園50選」の中でもかなりランクが高いのではないかと思います。

 
 
 
 
 


ここでも風化している戦争の爪痕
 華やかな春の装いをしたこの地にも暗い戦争の爪痕があることが分かりました。1941年(昭和16年)に千畳敷高射砲陣地が造られていたのだそうです。終戦前に、米軍機B-29が首都圏へ爆撃に向かう際に、目標にしていた富士山の上空から、この上を通って東京方面に向かうとおいうことが分かっていたために、ここで高射砲でB-29を高射砲で撃墜することが策略されたのだとか。しかし、実際には、B29に向けて高射砲が放った砲撃はB29に届かなかっただけでなく、逆に高射砲陣地が米軍の爆撃の対象となり破壊されてしまったそうです。爆撃の脅威に怯えながら、技術レベルが低く陳腐化した高射砲で、頭上の高性能なB-29に向けて空しい発砲を続ける高射砲兵たちの空しさや無念さは如何ばかりのものだったことでしょう。かつて、長崎の九十九島を眺望できる弓張岳に行った時にも同じようなエピソードをもつ高射砲陣地跡を見たことがあります。恐らく、日本全土のあちこちで、兵士たちが同様な脅威にさらされ、空しさや無念さを実感させられていたのでしょう。米軍機による爆撃によって死傷した兵士や民間人はもとより、このように陳腐化した武器・弾薬を整えるために血税を徴収され、挙句の果てに、極度の物資不足の生活を強いられていた日本国民こそ好い面の顔というものです。

 一旦、軍備をもつとなると、お互いに仮想敵国の軍備レベルに負けまいとすることから、必然的に軍拡競争に巻き込まれることになります。しかし、軍事投資は産業投入産出計数ゼロですから、経済成長に寄与するどころか、国民経済を疲弊させる一方ですから、戦争に勝とうと負けようと経済的には全くの愚策となります。また、たいていの場合、戦争は「自衛のため」とか「平和を守るため」とかいった大義名分を立てて“聖戦”の装いだてがなされて、挙句の果てに、敵対する両国それぞれの善良な市民が戦場に駆り立てられていってお互いに銃を向け合うという悲惨な結果につながります。平和憲法のもとに「武器よさらば」を世界に宣言したのにもかかわらず、今また日本は「集団的自衛権」の美名のもとに軍拡に向かおうとしているように見えます。すっかりと風化して大方の人々が意識しなくなっている戦争の爪痕が「湘南台」にもあるということを知って、日本が“いつか来た道”を辿っていきそうな不吉な予感が新たにしました。



 
おわり

 

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