ちょっと発表


知っていそうで知らない小田高エリア巡りレポート -1-
   新小田原城から箱根口へ
2016.08.27  3組 佐々木 洋

その1 小田原駅にて

 三木邦之(2組)、太田充、植田研二(ともに4組)と私佐々木洋(3組)の小田高11期生“朗人カルテット”は定刻午後1時に小田原駅JR改札口にキッチリ集合。折から駅舎の壁面には、オリンピック(400Mハードル)への参加を決めた小田高の後輩(62期)の松下祐樹選手のリオでの活躍を応援するポスターが貼られていました(下の写真)。そしてこの日、小田原ガイド協会から“朗人介護”にやってきてくれた桜木直子さんも小田高出身。実は城内高校出身ですが、「樫友会だ窓梅会だと言っていないで〝樫梅会”でいけばいいじゃないか」とする私たちにとっては堂々たる高校同窓生です。その上、城山中学卒業ですし、本町小学校と併合して三の丸小学校となった城内小学校の出身ですから、太田・佐々木とは小学校以来の同窓生。更に、お堀端幼稚園出身で幼稚園まで同窓だということですから太田さんの喜ぶまいことか。かく言う私の幼稚園体験は十字町の花園幼稚園で、遠藤紀忠さん(3組)と幼稚園同窓。一方、真鶴出身の三木さんと箱根湯本出身の植田さんは、「あの頃、うちらには幼稚園なんかなかったなあ」と、当時はあった〝幼稚園格差″を口にされていました。いずれにしても、ひときわ「昭和は遠くなりにけり」が実感される幼児期体験の話でした。

 自己紹介が済むとすぐに桜木直子さんから「ちょっと上を見上げてみてださい」という声がかかりました。見上げた視線の先に、多分、いや、きっと世界一デカイ小田原提灯が見えました(下の写真)。直径2m50㎝、長さ5mで重さが200kgもあるのだとか。ちょうどJRの改札口の真上あたりに、小錦クラスの重さの小田原提灯がぶら下がっていようとは。桜木直子さんの説明によると、小田原提灯は円筒状なので、上下の蓋の大きさに折りたためて、旅行鞄の中に収容しやすいのだそうです。さすが古の小田原の提灯職人、箱根路を行く旅人の旅姿に配慮したのでしょう。「そうよな、こんなに膨れていたら機動性がなくなっちゃうもんな」と、岐阜提灯ばりに膨らんだ我が腹部を撫でながら一人納得したのでした。

 小田原駅東口を出たばかりのところに「小田原高等学校発祥の地」という石碑があって「明治33年(1900年)にこの〝揚土″に神奈川第二中学校が開設されたが、大正3年に小田原駅開設のため、北条五代の小田原城址であり宮内省の御料地であった八幡山に移転した。」という旨の説明書きが彫られています。小田高のコチャエ節に♪伊勢の新九のあとうけて、小田高は♪という一節がありますが、伊勢新九郎(北条早雲の通称)の跡を受けたのは最初からのことではなくて、小田原駅開設の後を受けたものだったようです。桜木直子さんは、さすが小田高健女“だけあって用意周到でもあって、なかなか手に入りそうもない小田原古地図を広げて、我らが母校の在りし日の姿を見せてくれたうえで、〝望郷の想い”にひたる私たち朗人カルテットの姿を撮ってくれました(下 の写真)。なお、「揚土」については、「小田原高等学校発祥の地」のすぐ隣に「あげつち」という石碑があって、「小田原城三の丸の空堀を造成した時の土やそこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたことに由来する地名」という旨説明されており、その上、「揚土で植栽されていた梅の実は、種子が小さくて果肉が厚いため、〝揚土の梅“と呼ばれ、食用に珍重されたといわれる」と彫られています。古地図によると、現在は荻窪の奥地にある辻村植物公園も、当時は辻村農園の名で、小田高の前身である神奈川第二中と並んでここに存在していたようです。今にして辻村植物公園が〝梅の名所”と称されているのは、〝揚土の梅“が移植されたためなのかなと思ってしまいました。

 次いで、お堀端通りに入るまでにも、桜木直子さんに教えられて初めて知った〝知らざりき小田原の装い″がいくつかありました。後日、植田さんから送られてきた感想文メールには「小田原駅が新しくなってからも、小田原はたびたび訪れていますが、駅の真ん前に‘小田高所在地跡石碑’があるのは知りませんでした。また駅の天井から‘小田原提灯’が吊ってあるのも、駅前アーケードの天井梁に、’歴代小田原藩主’の紋所が描いてあるのも気が付いていませんでした。いったいどこに目をつけて、歩いていたのでしょうか。やはり(ボランティア)ガイドさんに同行していただいて、説明していただくと、小田原城そのものはもちろんの事、周辺についても、初めて知ったことが沢山ありました。」とありましたが、「いったいどこに目をつけて、歩いていたのでしょうか」は私もまったく同感です。路上のマンホールの丸い蓋にも小田原の風情が彫り込まれているのですが、何も気づかずに何回も何回もその上を通り過ぎてきたのですから。





その2 お堀端通りから新・小田原城入り

 お堀端通りに入ってしばらく行ったところで桜木直子さんから「ちょっとここに立ち寄ってみましょう」と声がかかりました。「えっ、何があるの、こんなところに?」と訝る私たちの目の前には、右から左へ「幸田門趾記念碑」と漢字が彫り込まれた石碑が置かれていました。北条3代氏康の代に上杉謙信や武田信玄の攻撃を受けた時に、この幸田門から攻め込まれ、二の丸まで進入を許したのだそうですが、篭城策を用いた氏康が守り抜いたのだそうです。相次ぐ戦国名将の攻撃を撥ね退けたため、小田原城は“難攻不落の城”の名を我が物としたのだとか。こんな史跡があることにも気が付かず、“いったいどこに目つけて”この前を何百回となく行ったり来たりしていたことでしょう。ここも〝知らざりし幸田門″だったわけですが、太田さんの発した「ああ、そうか、“幸”町という地名は“幸”田門から来ているんだ」という一言は桜木直子さんにも受けていたようです。木漏れ日浴びた案内板(下の写真)を見ると、ここから郵便局のところまで土塁が残っています。また、ここにも水堀が掘られていたようですから、往時の小田原はちょっとした“水の都”だったことでしょう。


 私たちが幼いころから馴染んできた「お堀」は、かつての水堀の一角であり、水堀に囲まれた部分が「二の丸」で外側が「三の丸」になっていたようです。また、二の丸は「城内」だったらしく、城内高校も城内小学校もかつてはここにあり、二の丸にあった城内小学校は城外の本町小学校と合併して三の丸小学校になったわけです。その城内小学校跡地で、お堀に美しい影を落としている「隅櫓」の裏あたりに「和みの会」の本拠地があって毎朝“朗人たち”がラジオ体操をしています。根岸敏郎さん(3組)が副指揮官クラスですし、私も水曜日には辻堂から参加しています。お散歩を兼ねて一度気楽に立ち寄ってみてください。それぞれに人生経験豊かな“朗人”たちと出会えますよ。

 さて、私たちは下の図に「正面入口」と示されている馬出門土橋でお城を渡って馬出門(うまだしもん)から堂々の入城です。そして、図の◦◦◦◦◦◦の線に沿って、桜木直子さんの解説を聞きながら、銅門(あかがねもん)、常盤木門(ときわぎもん)の造作を改めて鑑賞しつつ本丸に向かいます。この馬出門は平成21年(2009年)、銅門とその“新しいお堀”は平成9年(1997年)に、それぞれ復興されたものですので、小田高卒業(昭和34年:1959年)以降他の場所で暮らしていた私などにとっては“知らざりき”というより“非らざりき”造作だったのです。逆に、常盤木門に登る橋の下の平地は、現在は菖蒲園になっていますが、これも掘割の一部だったのでしょうか、何故か“あんま池”と呼ばれる池があって、私たちの小鮒やザリガニの釣り場になっていました。また、常盤木門の北方斜面の法面にアジサイが群生しているのも“知らざりき”ことでした。2008年に、東芝同期生10名余を招いて、塔ノ沢で沢村恭正さん(1組)の経営する「福住楼」に泊まって“箱根登山電車アジサイ鑑賞会”を企画したところ時期尚早でみんなをガッカリさせてしまいました。しかし、翌日帰途に小田原城址に立ち寄ったところ、私にとっても“知らざりき”「小田原のアジサイ」が法面いっぱいに咲きそろっていて、皆さんの感興を誘い大喜びしてもらったことがあります。


 暑い中、本丸まで歩いてきて一休み。懐かしいラムネを飲んでいる朗人カルテットを誘って、桜木直子さんは眼下に見える「御用米曲輪」について説明してくれました。私たちが小田高在校中は野球場になっていましたので、真鶴地区で野球少年として猛打をふるっていた三木さんからの野球場談を含めた当時の小田原野球事情論が話に花を添えます。その後、発掘調査が行われた結果、戦国時代の建物や池・庭園の跡などが見つかり、戦国期小田原城の中心の一つであったことが分かったそうです。「御用米曲輪」というのは、江戸時代には幕府の米蔵がここにあったからだそうですが、このことから、小田原藩が江戸幕府を忠実に補佐する立場にあったということが分かるとともに、小田原の平野が豊かな穀倉地であり、ここで米作に励む農民が、北条五代以来の小田原の優位な地位を経済的に支えていたことになるのではないかと思えます。

 リフレッシュしたところで、いざ天守閣へ。左から植田、太田、三木の朗人トリオと“噂の”桜木直子さんです(下の写真)。1年間以上かけて耐震工事をしてから、5月1日にリオープンされて以来“新・小田原城”と呼ばれることが多くなったようですが、耐震性だけでなく外観も“新”らしく清々しい風情です。そして、1階には江戸時代の小田原城、2階には戦国時代の小田原城、3階には小田原ゆかりの美術工芸品や甲冑・刀剣など、4階には明治時代以降の小田原城についての展示がそれぞれなされていて、漠然と描いていた「小田原城」のイメージを新たにしてくれています。そもそも、15世紀中頃に大森氏が築いた城に北条早雲(伊勢宗瑞)が乗り込んできたのですが、北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、現在小田高がある八幡山を詰の城としていたのだとか。後に、江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったのですが、八幡山の方は放置されたため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る“全国的に見ても珍しい城郭”になっているのだそうです。


 天守閣最上階5階の外壁沿いに設えられている展望デッキからの眺望は、相模湾あり箱根山あり酒匂川ありの壮大なものですが、このように風光明媚だけでなくて天然の要塞に恵まれた小田原に本拠を構えた北条氏の賢さを改めてうかがい知ることができます。しかし、北条氏はこれだけでなく、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートル土塁空堀で取り囲んで守りを固めています。この広大な「総構え」こそが小田原城の最大の特徴であり、これがあるために小田原城は日本で最大規模の城とされ、敵方にも難攻不落の城と評されていたものと思われます。約148,000人の軍勢を直接率いて周囲を取り囲んで小田原攻めに臨みながら、約34,000人の軍勢で籠城戦での応戦を選択した小田原勢に手を焼いた豊臣秀吉にとっても「総構え」は手強く見えたことでしょう。もし、「総構え」がなかったとしたら、巨額の戦費を投じて石垣山に一夜城を築く必要もなかったのではないでしょうか。当主北条氏直が降伏した後で、配下の大久保氏を小田原城主に据えた徳川家康は、自ら数万の軍勢を率いてこの「総構え」の撤去に着手したそうです。いったん意を翻して小田原藩が寝返ったとしたら、その「総構え」ゆえに再び攻略することは至難と考えたからだと思われます。

 しかし、江戸時代の小田原藩は、徳川幕府に忠誠を尽くしていたようですね。二の丸の箱根口への出口あたりにお茶壷橋という小さな橋が架かっていて、「江戸時代に、宇治(京都)のお茶を江戸に搬送する“お茶壷道中”が行われる際に茶壷を収納したお茶壷蔵があった」と案内板に書かれています。しかも、東海道と中山道の往復で、お茶は湿気を避けるため中山道を通り、小田原に収納されたのは空の茶壷だけだったということです。桜木直子さんのガイドによると、小田原城主の居館は二の丸にあって、天守閣はめったに訪れてこない将軍の寝所にあてられていたそうです。空の茶筒を保管することくらい平気の平左だったのでしょう。なお、これも桜木直子さんの説明によると、“お茶壷道中”の「茶壷」は童謡「ずいずいずっころばし」に出てくる♪茶壷に追われて♪の「茶壷」と同じなのだそうです。胡麻味噌を摩っていると、将軍様に献上する"茶壷道中が"通りかかるというので、庶民は粗相の無いようにと、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。そして、“(通り)ぬけたらドンドコショ”でやっと一息つけたという寸法だったのだそうです。どこでも敬遠されていた“お茶壷道中”も小田原城だけは居心地が違っていたことでしょう。



その3 箱根口のあれこれ

 お茶壷橋を渡るとすぐのところに「御感の藤(ぎょかんのふじ)」があります。改めて案内板を見てみると「大正天皇が皇太子の頃、“小田原御用邸”にご来臨の折、この藤の花の下に召し馬が駆け込み、花を散らしたので、“見事な花に心無きことよ”と、しばらく馬を止めて感嘆されたため、この名が付けられたという。」とあります。「えっ、“小田原御用邸”なってあったの?」という素っ頓狂な声に桜木直子さんは「ええ、二の丸にあったんですよ。」とのことでした。御用邸は天皇や皇族の別荘で、現在は那須、葉山と須崎にありますが、明治期には小田原のほか合計12箇所に御用邸が建造され取り壊されたようです。やはり、富国強兵を旨とする明治政府にとってみれば、御用邸が多すぎて国家財政の阻害要因となっていたのでしょう。しかし、皇族の閑院宮の別荘も小田原にあって、“カイノミヤ”の名は幼いころの私たちの耳になじんでいました。そして、閑院宮春仁王が私たちと同様に樫友会名簿に名を連ねているということも最近になって知りました。格好の居住地であり、天皇・皇族に限らず、高名な政治家・実業家・文芸家が小田原に身を寄せていたということも小田原の特徴のようです。追って、「知っていそうで知らない小田高エリア巡り」シリーズに加えることにしましょう。

 この「御感の藤」のところにある池も幼い私たちにとっては「藤棚」であり、小鮒やザリガニ釣りやトンボ狩りの場となっていました。正式には「南堀」と呼ぶのだそうですが、現在は大賀ハスの独擅場となっています。千葉県で入手された2000年前のハスの実が、植物学者の大賀一郎博士の指導によって開花され1979年にここに株分けされ、それが繁殖して水物すべてを覆い隠すような状態になっているわけです。夏の早朝には美しい花を咲かせてくれますが(下の写真:8/3撮影)、水辺に花を咲かせるスイレンとは違いますので、クロード・モネが描いた「水連」とは趣が違います。小鮒やザリガニたちはどうしたのでしょうか。いずれにしても、これでは釣り竿を振ることができません。かつて水面を飛び交っていたギンヤンマなどのトンボもすっかり見かけられなくなりました。ここだけの話ではなくて、小鮒やザリガニ釣りやトンボ狩りをする少年たちの姿が見られなくなったのも「昭和は遠くなりにけり」を示す一つの現象なのでしょう。しかし、現在は近傍の松の梢にアオサギが巣食い、また、ラジオ体操仲間であり桜木直子さんの友人でもある岡崎住江さんの説によると、早朝6時前に来てみれば、ここに飛来してきているカワセミの姿も見えるそうです。南堀の平成の装いなのでしょうか。 

 さて次に私たちが向かったのは藤棚からすぐ近くの小田原市立三の丸小学校。本町小学校と城内小学校が統合した後の1995年(平成7年)に建築された校舎ですが、小田原城周囲の歴史的景観に合わせてデザインされたという白壁、葺の武家屋敷を思わせる風情は、昭和34年(1959年)卒の昭和族卒業生にとってはなんとも敷居が高いように思われます。しかし、在りし日の校庭の南側を走っていたのが三の丸の土塁の遺構であったということを今回初めて知りました。さらに、この地がまさしく小田高の母体であった小田原藩の藩校「集成館」の所在地だったということを知って驚きました。「集成館」は、農民・二宮金次郎を登用して農村復興を図った小田原藩主・大久保忠真が、財政再建のための人材育成目指して創設したものだそうです。その東側に剣道場一棟が配置されていたそうですが、これが私たちの記憶に残る柔道場・剣道場の「文武館」のルーツだったのかと今にして思われます。

 そして、三の丸小学校入口と並ぶ形で「箱根口門址」があり、江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されています(下の写真)。ここが、戦国時代から江戸時代初期まで小田原城の大手門として使われていたようです。しかし、私たちが意識していた「箱根口」は、ここから更に60-70mほど海和を走る現在の国道1号線上の箱根口交差点周辺のことでした。この国道1号線には、小田原駅と箱根板橋駅を結ぶ小田原市電が通っており、幼い私たちは“チンチン電車”と呼んでいました。もとはといえば、東海道線が御殿場経由だった明治21年に国府津駅から小田原、湯本への連絡を図る馬車鉄道として開業したのが始まりで、その後電化し、東海道本線、箱根登山鉄道の開通や関東大震災の影響を受けて、小田原町内の交通機関として特化されたのだそうです。私たちが城山中学校を卒業した昭和31年(1956年)まで運行されていて毎日見ていたはずなのですが、こんなチンチン電車の故事来歴については今回に至るまで全く知らずにいました。ただ、“京都に次いで2番目に古い市電”という言い伝えを受けていただけのことでした。新春に行われる大学箱根駅伝は、今も変わらずこの道を通っていますが、往時は行き交う車の通行も少なかったので、国道1号線でキャッチボールを楽しんでいたほどです。小田原IC - 西湘二宮ICが4車線で完成して西湘バイパスが完成したのが昭和46年(1971年)のことですから、私たちが小田高に在学していた昭和31-34年当時は、ものすごい勢いで車社会への進展が進んでいた時期ということができそうです。

 東海道沿いで発展してきた箱根口周辺は昔から商業の集積地となっていたようで「ういろう」の他に、「済生堂小西薬局」や「ちんりう」などの老舗が居を構えています。しかし、お店の名前と所在は知っていたのですが、その老舗ぶりは今回調べて初めて知り、“歴史豊かな箱根口”を改めて実感しました。「済生堂小西薬局」は、寛永10年(1633年)に武将・小西行長の弟が開業したもので、秀吉から豊臣姓を名乗ることが許されていて、伊藤博文や西郷隆盛も立ち寄ったことがあるとのこと。「欄干橋ちん里う」は明治4年創業の昔ながらの梅干屋で、創始者・小峯門弥が小田原藩主の大久保公に小田原城の料理長として京都から招かれその後漬物屋として創業されたのだとか。当日見学会が終わった後で私たちが懇親会のために立ち寄った蕎麦屋の「東喜庵」も、私の生まれ育ったところですが、「小田原で2番目に古い蕎麦屋」と聞いていました。私の祖先は小田原藩士の鈴木伴次郎だそうですが、おそらく明治期になって武家の商法で蕎麦屋を営んでいたものと思われます。ちなみに、この辺りには川もないのに「欄干橋町」や「筋違橋(すじかいばし)町」という地名が付けられているので不思議に思っていました。しかしこれも、前掲の「幸田門趾」の案内板を見て、「どうやらこの辺りにも水堀が掘られていたかららしい」と分かりました。改めて歩いて調べなおしてみると、新たな知覚が得られるものですね。桜木直子さんは、オランダで暮らしておられた経験がおありとのことで、普段は外国人のガイドをされていて、たまに日本人からリクエストがあると小田原から遠く離れた人ばかりだそうです。「小田原人は小田原のことはすべてお分かりになっているとお思いなんじゃないかしら」と、「ういろう」前でのお別れの際に少し寂しそうに話されていました。

 さて、大団円は「ういろう」の博物館見学です。お約束の4時ぎりぎりに「ういろう」の店舗に着くと、すぐさま外郎武社長が自らガイドしてくださいました。私自身はこの5月7日に訪問していて、その結果を「知っていそうで知らない小田原ういろうの巻」(http://odako11.net/Happyou/happyou_sasaki/happyou_sasaki_38.html)でレポートさせていただいていますが外郎武社長のお話には全く二番煎じと感じられるところがなく、始祖の中国人・陳延祐の来日、将軍・足利義満による外郎家二代目・宗奇の京都への招聘、更に北条早雲による五代目・定治の小田原への招致のくだりを新鮮に聞かせてくださいました。同じ箱根口で、100mぐらいしか離れていないところで生まれ育った私でさえ頓珍漢な理解しかしていなかったのですから、三木、太田、植田の“朗人”トリオの理解は知れたものであり、特に「お菓子の“ういろう”は名古屋が先」と思い込んでおられていたようです。しかし、外郎武社長のご説明によると、五代目・定治の小田原移住の際に、一子相伝の薬と違って菓子の製法は弟に残してきたが、京都の外郎家は兵火にかかり絶家し、その時に仕えていた職人らによって菓子の製法が全国に広まったのだそうです。小田原在住のエッセイスト・深野彰氏が編著された「ういろうに見る小田原」図書も新発行され、ここでも外郎武社長が座談会で卓見を述べられています。どうぞ皆さんも、ここを訪れて知見を広めるとともに、「伝統」を肌で感じ取ってみてください。

 外郎武社長(右下写真の中央)は、小田原市観光協会の要職も務めておられ、小田原城の改築工事も取り仕切られたそうです。今回の訪問に当たっても、黒岩神奈川県知事との緊急会議の予定が出入りしていて大変流動的だったのですが、幸運にも小田高11期同窓会との接点を持つことができました。今後、同様なコース設計で「ういろう」を訪問したい場合には私から外郎武社長宛てにお願いすることにしますのでどうぞその旨お申し付けください。




 また、小田原市観光協会会員向け講座を開かれていて、その中に以下のような企画があります。「知っていそうで知らない小田高エリア巡りPart2」に適合しそうな企画ですので、参加希望者は8月30日(火)までに私宛にご連絡ください。小田高11期同窓会グループ飛び入り参加につき外郎武社長のご了解を得ることになっていますので。
       ・企画      戦国北条時代、日本最大の大外郭を巡る
       ・期日      9月9日(金)  14-17時(受付13時30分から)
                小雨決行、集合場所:小田原駅西口三省堂書店前
       ・当日持参品  飲み物、雨具、歩きやすい靴と服装、保険証                                            以 上

   知っていそうで知らない小田高エリア巡りの会仮幹事 佐々木 洋    
   (hiroshis@peach.ocn.ne.jp)