9月2日(土)、「駅前10時集合」よりかなり早く箱根板橋駅を降りてみますと、既に本イベントの仕掛人である遠藤紀忠兄(遠ちゃん:3組)と、脇松雄さん(小田原ガイド協会)のお二人が待機しておられました。そしてそこに、三木邦之(2組)、辻秀志(3組)、今道周雄・植田研二・太田充(4組)、中澤秀夫・山本哲照(7組)の諸兄がいずれも予定時刻以前に参集。これで11期生はベースボールメンバーの9名総揃い。これに、板橋の住人で、私(佐々木洋・3組)のラジオ体操仲間の妹分の朝倉洋子さんと脇さんが加わったのですからサッカーメンバー11名がフルメンバーになります。そこで簡単な挨拶を済ませた後すぐにキックオフ。‴知っていそうで知らない"板橋地区散策が始まりました。
<「掃海台」別荘地があったとは>
脇さんはお聞きしたところ傘寿で、喜寿周りの私たちの先輩にあたります。しかしガイド生活を楽しまれているご様子でお元気そのもの。第一の訪問先「掃雲台入口跡」に行くのにも脇さんの速い足取りについていくのがやっとのことでした。そこで、「えーと、掃雲台…‴そう‴に‴うん“ねえ。そうするとここはもと早雲台だったんですか」という問いを発すると脇さんから「はい、そうです」との即答がありました。脇さんの口から何回も出てきた「マスダドンノー」というのが実は益田鈍翁で、三井財閥の領袖格であったこの人が巨富を投じて旧道沿いの南斜面丘陵に開いたのですから「早雲のお世話になったわけじゃない」というので「掃雲」に改名したのかもしれません。いずれにしても、国道から少し入ったところに、2万数千坪と言われるこんなに広大な別荘地があったなんて、小田原市で程近くの十字町に生まれ育っていながら初めて知ったことでした。
<国府津駅から馬車鉄道に乗って >
どうやらこの益田鈍翁が小田原の板橋地区を日本でも有数な別荘地にするきっかけを作ったようなのですが、以前に住んでいた鎌倉が海に近すぎるというので山7:海3の板橋の方を選好されたのだそうです。それにしても、東海道線が小田原駅を通るようになったのが、丹那トンネルが開通した1934年(昭和9年)からのことですから、この掃層台別荘の建築が始まった1906年(明治39年)はもとより、鈍翁が1914年(大正3年)に晩年の生活を始めた頃にも、鈍翁に誘われる形でここに別荘を構えた当時の要人たちは、国府津駅から馬車鉄道に乗ってこの地を訪れていたということになります。後代(昭和28年)に吉田茂が、大磯の別荘の草分けとなった吉田邸の交通の便をよくするためにワンマン道路を建設したことを考え合わせますと、明治期の財界・政界の大立者たちは、経済的ばかりでなく時間的にも相当のゆとりをもっていたものと思われます。
<小田原の栄華支えた小田原用水>
戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した‴日本最古の上水道‴と言われる「小田原用水」も、板橋地区西部にある小田原用水取り入れ口で早川の流れをとりいれており、「板橋」の地名もこの小田原用水にかかる橋に由来しているのだとか。東京の板橋区の「板橋」も小田原から移民が多かったため付いた地名かと思っていたのですが、こちらは石神井川にかかっていた橋の名前に由来しており、鎌倉時代から地名として存在していたそうですから箱根板橋とは無縁だということが初めてわかりました。しかし、まだ測定器が発達していない時代に、一定の勾配を保った水路を建設して、箱根の水を小田原東域を流れる山王川に流入させていた小田原の用水技術は見事で、日本の諸都市の見本とされたようです。主に市民の飲用に用いられたようですが、これがなければ小田原のかまぼこ産業の発展も、老舗「ういらう」の製薬業も成り立たたなかったことでしょう。「豊臣秀吉の仕掛けた石垣山一夜城による83か月間に及ぶ籠城状態に小田原藩が堪え得たのもこの小田原上水あらばこそだったのです」とガイドの脇さんも力を込めて語っておられました。 |