ちょっと発表



2012.08.04    瀬戸章嗣

  山歩き事始め

 71歳で富士山5合目からの登頂に挑戦して8合目で敗退しました。偉大な富士山で、やはり歳は年々にとり、体力はアンチエージング努力にも拘らず確実に低下している事を確認した次第です。

 そして、剣豪伊藤一刀斎ならば、「老いたり。」と言えば、遁世して、行方知れずになるところでしょうが、幸い私の場合、極めようと拘る道も名もない者としては、 これを機会に、改めて「老い」を悟って、時に体力相応の山を見つけ大山や丹沢・箱根などへ登ることを始めようかと思っています。

 その老いを悟った富士登山について報告してみます。
富士登山のトレーニングとして、急支度とは言え、2か月前から大山に3度と箱根明神岳に登り、直前2週間は休養して体調を整え、当日の体調もよく相当の自信を持って、練習通りの8㎏のバッグを背負って登り始めたのですが、標高3300メートルの8合目に着く少し前から、体力不足を痛感し、最後の道の30メートルほどは、男4人女2人のパーティーの隊から離れて、昔覚えた富士講の人たちの唱え歌「六根清浄」を唱えて登り、やっとの思いで赤岩の山小屋に着きました。

 その頃から手足に脱力感があり、息苦しさはないが頭が重いのを感じたものの雲の海を見下ろし、夕日影富士を初めて見て感動し、夕食のカレーが美味しいと思い、山中湖の花火がほおずきを見るような遠い小さな花火だと思っている時は、朝になれば頂上へ向かうことを疑いませんでした。

 ところが、18時頃から、梯子を上って2階の板床に敷かれた布団に入り、時々外に 出る時を過ごし、その間も手足の倦怠感が残っているのを感じていたのですが、雑魚寝とはいえ、皇太子も数年前に休まれたというところで、昔なら快適に感じてすぐ寝込んだであろう床にいて、8時間以上一睡もしないという初めての経験をして、事態が分かりました。

 9時消灯でも、夜半までは人の出入りの音があり、2時頃からは、早朝登山の人達の起き出しがあったのも事実ですが、普段は横になったらすぐ眠り、今回は耳栓で防音していた私としては、眠れないのは全くの意外でした。

 そして、寝る前にサロンパスをつけ、よくもんだ筈の手足の疲れが朝になっても消えず、頭がすっきりしなくて、快適感がない時間をずっと過ごしたのですが、4時頃起きる頃になって、別に胸苦しいわけではないけれど、この状態は20年来気管支拡張で、最近は月一度の検診で血中酸素を意識している自分にとっては、酸素欠乏の状態だろうと思い、何よりも、<疲れは朝に残さない>生活を続けて実行してきたつもりの私としては、調整できない<老い>の新事態であると、はっきり自覚したのでした。

 そうとなればと、リーダーに、ここで皆が帰ってくるのを待ちたい言い、了解を得て、頂上へ登る5人を送りました。山小屋で待っている間は、横になりながら、涼しい風を楽しみましたが、リュックの中を整理する間も倦怠感は消えず、予定では頂上でお鉢めぐりをするのを、待っている私を慮ってそれをしないで戻ってきてくれた仲間と下り始めててしばらくすると、リーダーが<待て>をかけ、八合目で買った金剛杖の端の一方を一人に後ろから持って貰い、砂利下りでの前のめりを防ぐ処置をとってくれました。
 それでも、しばらくすると、又<待て>が入り、腰が揺れているからリュックを下して歩くようにと言い、リュックの物を一部皆に分け、リュックをを背負ってくれました。しばらくして他のメンバーが代わってくれて、ずっと背負ってもらうことになりました。
 後で聞いたら、別の女性の山のベテランが、2つのリュックの括り付けなどで、手慣れた工夫をしてくれたとのことでした。

 下りは、宝永第一噴火口へ降りて5合目の出発点へ戻るコースでしたが、後の部分では、先頭役が替り、私はリーダーともう一人が作ってくれた2本の金剛杖の電車の中に入り、引張りと後押しの手助けを得て、5合目近くの食堂「雲海荘」へ着くということが起きました。真に仲間の助けがあってできた富士登山でした。良い仲間を持って 幸せだと思います。
 うどんを食べていた時、そこへ入ってきたのがメンバーの一人の顔見知りで、10年間に富士山に999回登り、8月5日に1000回目の登頂記念を予定しているという人で、これも得がたいめぐり合わせにあいました。
昔校長先生をしていたと聞く我々よりも年上で普通の感じの人ですが、すごい事をする人だと感心しました。

 帰宅してからすぐ爆睡して、今朝は元気です。ご来光も素晴らしかったですが、影富士と宝永山の写真を添付します。

         
     
  宝永山(赤岩八号館より)   夕日の影富士(赤岩八号館)  


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