ちょっと発表


先祖は小田原藩御料理人
2015.09.02
6組  瀬戸章嗣

 昔、私の父親が「農家に生まれ育ったが、武士の血は受け継いでいる。」と言ったことがあり、自分も侍心を誇りに継承しようと思ってきましたが、最近、子や孫に伝えたいと思うようになり、血の繋がりを確かめておこうと思ったところ、新しい出会いがありました。

 私の3代前になる曽祖父母8人の内の一人について、除籍謄本を取ったり、小田原市立図書館の地域資料室でのご教示を受けた結果、5人姉妹の次の子で養女に行った先の山北の農家から我が本家に嫁いだ祖母の実父が、<小田原藩の殿様近くで、執事として仕え、東京赤坂に住んで、家族が戦後も赤坂に住んでいた>と聞いてはいたのですが、その人は、侍名が<手島時冶>で、明治の戸籍名が手島兎喜二と分り、手島家は<本国肥前>とあるから、元は九州佐賀県辺りから出て、代々小田原藩の藩士で、「御料理人」として度々記録されていることが分かったのです。   
 享保9年(1724年)「小田原藩順席帳」に、私から8代前の手島市平が<御料理人>として載っており、安政5年(1858年)順席帳には、私から4代前の手島平治が65歳で、御料理人、参拾石、包丁代 銀拾五匁とあり、「御家中先祖並親類書」に、手島時治が平治の嫡子として、御料理方見習、外記流砲術小目当免許、の記載があるのを確認しました。

 明治になり、廃藩後の旧小田原藩関係者の連絡会が「小田原有信会」で、その「沿革会報」にある連絡先名簿に <肥州 花ノ木町 手島時治 兎喜二>とあり、下に<直行(「直」が3つの綴り) 東京>と続いているのは、兎喜二が改名後の名前で、下方は、息子名と連絡先住所であると、地域資料室で教えて頂きました。

  小田原藩に<執事>という役職はないとのご教示も得て、御料理人なら、廃藩前後の殿様の家事のお役に立ったのだろうと想像されて、執事と伝わったのも頷けると思いました。

 手島兎喜二と婿養子の(直)行を、除籍謄本で確認して、ファミリー・ヒストリー今回の探し旅を一旦休むことにしましたが、先祖が<御料理人>だったということは、私にとって、先祖のお蔭を感じさせてくれることでした。今後も、出会い旅をするつもりです。

 かって、私が商社を就職先に選んだ時、<これからの時代、東南アジアへ機械輸出するような仕事に就きたい>と思い、当時の金偏商社で、やや小粒でも機械金属に強い会社を選んだつもりで入社して、受けた辞令が食品課だったので驚いた思い出があり、それでも素直に受け入れて、定年退社までずっと食品営業に携わり、結果的に、いつも開発に取り組むという、楽しく有意義な人生を得たと思っていたのですが、今、これには先祖の縁があったのかと思う幸せに恵まれたのは、旅のお蔭と思うからです。
                                       以上

         
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