ちょっと発表



 望月郁文さんの講演を聞いて 2015.09.02   7組 山本哲照

村山大仙と宝安寺の社会事業


 去る8月20日川東タウンセンターマロニエ集会室202号で小田高11期3組の望月郁文さんの講演会が行われました。テーマは「村山大仙と宝安寺の社会事業」。この講演を企画されたのは3組の遠藤紀忠さんが所属されている「小田原シルバー大学16期卒業生の会」です。講演を聞きに来られた方は43名。その内11期からは遠藤紀忠(3組)、根岸俊郎(3組)、山本悟正(3組)、太田充(4組)、中澤秀夫(7組)、山本哲照(7組)の6名が出席しました。

 望月さんと筆者(山本哲照)との関係
 
 この稿を進めるに当り今日の主役である望月郁文さんと筆者である私(山本哲照)との関係をお話しておきます。私の生家は昔の住居表示で小田原市万年四丁目、現在ファミリーレストラン「ロイヤルホスト」がある所です。望月さんの宝安寺とはつい目と鼻の先の近さです。今回の話に出てくる「小田原託児所」(現・小田原愛児園)を昭和22年(1947年)3月に望月さんとともに卒園し城内小学校に入学。1年から6年までずっと同じ4組でした。毎日のように一緒に登下校しました。お互いの家にもしょっちゅう行き来して遊んでいました。私の亡母は望月さんのことを「いくふみちゃん」と呼んでいました。これは余談ですが母は2000年5月に他界しましたが、亡くなる寸前は認知症にかかっていて私が「オレの名前が分る?」と聞くと「いくふみ」といっていました。それはさておき、望月さんとはその後第一中学校(2年時から城山中学校)、小田原高校と一緒に進学してきて、大学進学時に進路が分れました。しかし、城内小学校6年4組で机を並べた中澤秀夫・藤井暉生・水口幸治それと望月・山本の5人は親交を結び中学、高校で常に行動を共にしていました。小田高卒業後もこの5人は常に連絡を取り合い、顔を合わせていました。これについては小田高1年の時にこの仲間に加わった佐々木洋さんが、WEB11に2014年10月1日付で寄稿した「素晴らしきミニ・マイクロ同窓会」にも紹介されていますから、興味のある方はご覧ください。
 中でも私は望月さんとは幼馴染であり、小中高の同期生であり、菩提寺と檀家であり、住職と檀家世話人でもあるという二重三重の結びつきがあります。
望月さんから頼まれて2001年10月から2005年3月まで小田原愛児園園長室で社会福祉法人宝安寺社会事業部と宗教法人宝安寺の仕事を手伝うというアルバイトもしました。独学で学んだパソコンが大いに役立ちました。

 軽便鉄道の捨て子から始まった福祉事業

 定林山宝安寺は明応元年(1452年)に開基された曹洞宗の禅寺です。場所は小田原市万年(現・浜町)。国道1号線の現在はさがみ信用金庫本部の裏手に当ります。明治31年(1898)宝安寺の第32世住職となった村山大仙(望月さんの祖父)は妻の春子とともに、学校に行けない子供や青年を対象とした特殊夜間学校や女子の中等教育を目的とした和洋裁縫女学院を開設し、貧困家庭の子どもたちに教育の場を与える活動を行っていました。ところが明治45年(1912)7月7日、当時小田原から熱海まで相模湾の下田街道沿いに走る軽便鉄道(現・JR東海道線)のすぐ脇に生まれて間もない男児が捨てられていました。当時の小田原町長はこの捨て子を宝安寺の村山大仙住職に託しました。以来宝安寺は率先して薄幸な子どもたちを引き取って行き、境内に捨て子を受け入れる収容施設を作ることにしました。その施設は「四恩会」と命名されました。「四恩」とは仏教用語で父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝(仏法僧)の恩のことです。この稿は仏教の教えを説くものではないので詳しい説明は省きますが、「四恩」というのは社会福祉法人宝安寺社会事業部の経営理念とも言うべきものでいろいろな施設の名前に用いられています。

 小田原愛児園など諸々の施設

 こうして始まった宝安寺の社会事業は村山大仙師の娘光と結婚した望月正道(宝安寺第34世住職・望月郁文さんの父)さんに引き継がれました。正道さんは小田原市会議員や小田原市の民生委員としても活躍され、村山大仙師がはじめられた社会福祉事業を大いに拡大し、宝安寺中興の「大和尚」と呼称されています。現在「社会福祉法人宝安寺社会事業部」は「法人本部」を小田原市浜町に置き、「小田原愛児園」「小田原乳児園」「ほうあんりすのもり」「ほうあんのぞみ」「ほうあん生活ホーム」「ほうあんふじ」「ほうあんふじみのさと」「ほうあん第一しおん」「ほうあん第二しおん」「ほうあんホームシトラス」「こどもホッと相談カフェ」の12の施設に約270名の職員を擁して小田原市の社会福祉事業の中核を成しています。
 望月さんは昭和45年(1970)当時勤務していたNHK(宮崎放送局放送部)を退職し、知的障害児の通園施設「富士学園」(現・ほうあんふじ)の園長に就任。昭和57年(1982)11月宝安寺の第35世住職となりました。そして平成3年(1991)社会福祉法人宝安寺社会事業部理事長に就任しました。平成13年(2002)にはそれまでの功績を認められ、藍綬褒章を受章しました。

 宗教法人宝安寺では住職の座は娘婿の大水健晴師に譲られて、ご自身は東堂(禅寺における引退した住職の呼称)となられましたが、お寺の仕事は従来と変わらず勤めておられます。ただ、これは講演の中でご自身で述べておられましたが、数年前から腎臓を患い食事制限などで相当不自由な生活を強いられていました。我々友人同士がたびたび顔を合わせる談論風発の飲み会にも出られないという事が続きましたが、昨年(2014)2月から定期的に人工透析を受けることになり、元気を取り戻しました。悪友どもとの付き合いもすっかり元に戻り、酒の席にも欠かさず出てくるようになりました。

 そば屋のボランティア活動

 今回の講演に出席した11期生の内、太田充さんと中澤秀夫さんは旧城内小学校で望月・山本と6年生の時同じ4組で机を並べた仲でした。図らずも4人が顔を合わせることができたので一緒に食事をしようということになりました。私の提案で「マロニエ」のすぐ横にある「満留賀(まるか)」というそば屋に行きました。実はこのそば屋は私が2002年9月から2014年8月まで会員だった「ダイドー・スポーツ・クラブ」に行った時、毎週1回(火曜か水曜)必ず食事に立ち寄ったそば屋でした。これだけ通ったのだから当然店のおかみさんとも親しくなり、随分立ち入った身の上話などもしました。ある時おかみさんが「山本さん。今度の水曜は臨時に休みます」というので「そうですか。旅行でもされるんですか?」と聞くと「いいえ。そば屋の組合のボランティア活動で、施設を訪問してそこの利用者や職員にそばを食べて頂くの」「へえ。それはいいことをされていますね。なんという施設に行くんですか?」「それがはっきり覚えてないんだけど、『ワーク』なんとかとか『のぞみ』なんとかとか、言ってましたけど・・」「もしかして『ワークセンターのぞみ』ですか?」と聞くと「あ、それそれ。よく知ってますね」とびっくりしています。今度はこちらがびっくりする番でした。前述したとおり私は2001年から2005年にかけて宝安寺社会事業部の本部で仕事をしていて、昼食は本部敷地内にある「ワークセンターのぞみ」の食堂を利用していたからです。当然「のぞみ」の利用者や職員とも親しくしていました。そこへよく利用しているそば屋がボランティアでそばを打ちに行くというのですから、おかみさんも「へえ。世間って狭いわね」と言っていました。このボランティア活動は音頭をとっていたそば屋の店主が亡くなってからは、こちらから施設へ出向くのではなく、施設の方からそれぞれ活動を続けるそば屋に行ってそばをご馳走になるというやり方に変ったそうです。今回折角法人の理事長である望月さんが来たのだから、絶好の機会だと思って「満留賀」に誘い、望月さんとそば屋を引き合わせました。双方とも初対面でしたが、挨拶を交わしていました。

 講演が終れば友達同士

 私と中澤さんは電車と徒歩で講演会場のマロニエまで来ましたが、帰りは望月さんの車に同乗して小田原市内まで送ってもらいました。車中では講師と聴講者という堅苦しい関係は一切吹き飛んで小学校の同級生という関係に戻り、「オレ」「お前」の会話が別れるまで続きました。来る10月には旧城内小学校6年4組のクラス会が予定されており、また同じ顔ぶれが集まります。

最後にこの稿を書き進めるに当り下記の図書を参考にさせて頂きました。ここに記して感謝の意を表します。

「手から手へ 光る海のまちの物語」宍倉正弘著、神奈川新聞社発行

 

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