ちょっと発表



福島浜通りのいわきから中通り・会津の旅

2018.05.4   7組 山本哲照

<旅がらす四人衆四たび結集>

小田高11期の常任幹事佐々木洋さんがWEB11の「素晴らしきミニ・マイクロ同窓会」(2014年10月2日)で触れた通り11期の佐々木洋、望月郁文(3年生時はともに3組)、中澤秀夫、水口幸治、山本哲照(同7組、以下我々については敬称を省略)は在学中から親交を結び、大学を出て社会人になってからもずっと変わらぬ友情を育んできました。なお、7組にはもう一人藤井暉生さんがいましたが彼は2016年10月22日鬼籍に入ってしまいました。
 5人のうち望月は最近まで曹洞宗・宝安寺の住職を務め、今でも社会福祉法人宝安寺社会事業部の理事長を務めていますが、他の4人は2000年には勤めていた会社を定年退職し、2001年にはカナダ・アメリカ、2007年にはイギリス・フランス・スイス、2012年にはタイを4人で連れ立って旅してきました。いつの間にかつけられた呼び名が「旅がらす4人衆」です。この連中がこのたびいわきを起点に「福島」を旅するために四たび結集することになりました。本稿ではこの一泊二日の旅をお話したいと思います。

<佐々木がいわき訪問を提案>


佐々木はずっと藤沢市辻堂の家に住み、そこから東京の会社に通っていましたが、2000年頃から奥さんの実家であるいわき市で生活し始めました。私(山本)は2002年10月に福島県の磐梯熱海温泉で会合があり、会合後いわきを訪れてその夜は彼の家に泊めてもらい、翌日彼の車で塩屋崎・小名浜港、木戸川などを案内してもらったことがあります。他のものは誰も今まで行ったことはありません。
 この度佐々木が生活拠点は辻堂とすることに決めていわきの家は処分することになり、私たちに「一度いわきに来ないか?」と誘ってくれました。余談ですが我々5人は皆パソコンを使っていて普段でも毎日のようにEメールで連絡を取り合っています。2017年12月23日のメールで彼が提案し、中澤・水口・山本もすぐにそれに賛同して「旅がらす四人集」は四たび結集することになりました。佐々木の考えは「花見シーズンにいわきを拠点として福島県中通り・会津地区まで駆け回る」というものでした。佐々木以外の参加者からは東日本大震災とそれに伴う原発被災の跡地見学などの希望も出ましたが、一泊二日ではとても無理だと判明、今回は桜の名所見物を主眼にして佐々木に計画をお任せしました。日程については当初(2018年3月25日頃)4月17日(火)、18日(水)で決まりました。

<桜前線の急上昇で日程変更>


ところが皆さんご存知の通り今年の日本列島の桜前線は異常にスピードが速く、福島も例外ではありませんでした。平年より2週間も早いという新聞報道を見ていわきで気をもんでいた佐々木から「日程を早められないか」という緊急メールが発信されました(2018年4月5日)。急きょメールが飛び交い翌日には1週間早めて10日(火)、11日(水)とすることに全員が同意、佐々木が予約してくれた「ホテル塩屋崎」の予約も変更できました。また今回原発被災地の富岡町を訪れることにし、同町の住民で現在は他の町で暮らしておられる佐々木夫妻のご友人江尻ヒロ子さんが富岡を案内してくださることになっていましたが、江尻さんも日程変更を承知してくださったということでした。

<佐々木のたてた計画>


10日(火) 熱海と小田原を出発した水口・中澤・山本は東海道新幹線・常磐線を乗り継いで10時過ぎにJRいわき駅に着く。佐々木宅で昼食後、江尻夫人と合流。以後は佐々木の車に我々4名が同乗。富岡訪問までは佐々木夫人が江尻夫人の車に乗って同行。富岡の後は塩屋崎へ行き、美空ひばりの歌碑や映画「喜びも悲しみも幾年月」の歌碑。塩屋崎灯台を見学。この日は「ホテル塩屋崎」に投宿。
11日(水) 佐々木の車で三春の滝桜・会津若松の鶴ヶ城・飯盛山を訪れて夕方JR会津若松駅で佐々木と別れ、我々3名は磐越西線で郡山へ。郡山から東北新幹線・東海道新幹線経由で小田原と熱海に帰着。

<いわきから富岡町へ>


10日(火)午前7時過ぎ東海道新幹線の車内で水口・中澤・山本が合流。電車を乗り継いで10時過ぎにJR常磐線のいわきに到着。出迎えた佐々木の車で彼の家に向かいます。彼の家では奥さんが朝から大車輪の活躍で昼食を用意して待っていてくれました。食卓には我々3名がぜひ食べてみたいと要求を出しておいたいわきの地魚「メヒカリ」のから揚げと「どんこ」の煮付けが並び、みんなで「うまい」「うまい」と頂きました。これらの魚はメールの中ではどこかの食堂かホテルの料理で食べたいなどと言っていたのですが、時間的余裕がなく無理ではないかということで落着していました。ところがどうしても我々に食べて欲しかった佐々木が奥さんに頼み込んで自分の家で昼食に出すことにしてくれたのです。
 食後今日の案内役江尻ヒロ子さんと落ち合い、富岡町へ向かいました。江尻さんは原発事故で住み慣れた富岡町を追われ、現在も家に帰ることができずにいます。先ず常磐線の富岡駅に行きました。海辺に近いところにある富岡駅は改修が終り駅舎は見違えるほどきれいになっています。現在竜田~富岡間で運転が再開され一日に何本かの電車が発着しているということです。特別に駅員に頼んでホームに入らせてもらいましたが、人影の全くない駅周辺に原発事故の恐ろしさを実感しました。
 その後富岡町の「夜ノ森桜並木」に向かいました。有名なこの桜のトンネルは現在ほぼ真ん中あたりで区切られ、一方は依然として放射能の数値が高く立ち入り禁止になっています。但し期待していた桜は満開の時期を過ぎほとんどが葉桜となっていました。そして現在は暮らすことができない江尻夫人の住まいに案内していただきました。閑静な住宅街でしたが今は人影のない「死の街」そのものでした。江尻さんの心境を察すると言葉もありませんでした。

 
いわき市の佐々木邸の前で左から水口・中澤・

山本

  JR常磐線富岡駅前で 左から水口・江尻さん・

山本・中澤・佐々木 

<塩屋崎へ 灯台と歌碑.>
富岡で江尻夫人と佐々木夫人と別れ、ここから先が「旅がらす四人衆」の道行となりました。車は佐々木の愛車「ホンダN Wagon」です。こうしてひとつの車にこの4名が同乗して旅をするという図式が始まったのは思い起こせば2001年7月10日カナダ・バンクーバーでした。フォード・ウィンドスターをレンタルしてカナダ・アメリカを3週間旅してきました。運転したのは水口・佐々木・中澤で運転できない私(山本)は横で茶々を入れてはうるさがられるだけでしたが・・・
さて、閑話休題。富岡町から常磐自動車道に乗り、楢葉町・広野町を経て塩屋崎に向かいました。塩屋崎には美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑、映画「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌の記念碑、その舞台となった白亜の灯台があります。灯台は参観可能ですが到着したときは17時を過ぎていて入れませんでした。2002年に訪れた時はらせん階段を上って外回廊に出て眺望を楽しむことができました。この時佐々木が外回廊に出てこないので彼の「高所恐怖症」という弱点を知りました。今回私がその話をして、灯台に着いたらみんなで佐々木を回廊に引きずり出そうという相談がまとまっていたのですが、その計画は泡と消え、佐々木が胸をなでおろすという一幕がありました。宿泊した「ホテル塩屋崎」の夕食は全員が楽しみにしていた「あんこう鍋」です。ほかに刺身、てんぷらなどもあってあんこうを食べつくすことができ、皆大満足でした。

塩屋崎灯台と「みだれ髪」の歌碑

 <三春滝桜 >
翌11日(水)は磐越自動車道でまず田村郡三春町のしだれ桜に向かいました。通称「三春滝桜」は国の天然記念物に指定された名木で、樹齢千年以上、四方に伸びた太い枝に薄紅色の小さい花を無数に咲かせたその様は、まさに滝が流れ落ちるように見えます。例年なら満開の時期には道路も大渋滞、駐車場探しにも大いに難渋するということですが、今年は開花が早くて我々には幸運でした。道路の渋滞もなく、駐車もすぐにでき満開の桜を心ゆくまで見ることができました。この頃から雲行きが怪しくなってきました。

三春滝桜 

<会津若松 鶴ヶ城と飯盛山>
「三春滝桜」から今回の旅の最終目的地会津若松へ向かいます。磐越自動車道を西北に向かって快適に飛ばしていると、右手にはまだ中腹まで残雪に覆われた磐梯山が雄大な姿を見せてくれました。会津若松市に入ったのはお昼ころでした。佐々木によると普通なら鶴ヶ城周辺の駐車場に停めるのは苦労するということでしたが、この日は城近くの駐車場に簡単に駐車することができました。鶴ヶ城の桜はちょうど見頃でした。ただし、危なかった空模様がとうとう崩れて小雨が降り始めました。雨になったのともともとあまり時間的な余裕がなかったのでお城見物は早々に切り上げて、近くのそば屋で昼食をとり最終目的地の飯盛山に向かいました。飯盛山は鶴ヶ城と猪苗代湖とのちょうど中間点のあたりにあります。戊辰戦争でお城が炎上していると思い込んだ白虎隊士が自刃したところです。近くまで行って駐車場を探しているうちどこかの商店が運営しているらしい駐車場に入り込みました。そこの管理をしている20代の若者が非常に感じがよく、「山の上に店があるが、別にそこで買い物をしてくださらなくても結構です」と言ってくれた上に、傘のなかった3名にそれぞれ傘を貸してくれました。歩いたら難儀をしそうな坂道には有料ながら「スロープコンベア」という歩く歩道があり、白虎隊士の墓のすぐ下まで運んでくれます。自刃の地からは遥か西方に鶴ヶ城が見えます。考えていたよりずっとお城が小さく感じられました。
<サザエ堂>
すぐ近くにあるのが「サザエ堂」です。サザエ堂は三匝 堂ともいい、寛政8年(1796年)郁堂和尚が考案建立したもので六角三層高さ約16m、昇降別々のらせん形通路により階段がなく、一方通行で上下するという日本唯一世界にも例のない名建築とされているものです。六角塔状の建物の中に西国三十三観音像を二つのらせん状スロープに沿って配置し、正面から上りスロープを参拝しながら頂上に至り、別の下りスロープに移って参拝しながら裏口に降りれば、西国三十三か所をめぐったことになるというものです。(以上、配られた説明書から引用)
山上には駐車場の若者が言っていた店があり、我々は口々に若者のことをほめそやしながらその店でいろいろ買い求めました。下山してから若者に丁重に礼をいうことも忘れませんでした。

 

鶴ヶ城と満開の桜

サザエ堂 左が入口

 <結び>
これで今回予定していたところはすべて順調に回ることができました。予定よりは早めに終わったので会津若松駅には16時頃に着きました。お世話になった佐々木には3名全員がかわるがわる熱い抱擁をしてほほにキスをして別れようということになりましたが、佐々木がこれを固辞してかなわず、握手だけで別れました。佐々木は一人でいわきまで戻り、3名は磐越西線で郡山まで行き、東北新幹線、東海道新幹線を乗り継いで、小田原・熱海に戻りました。それぞれ20時半までには帰宅できました。
 
最後に「旅がらす四人衆」を始め本稿の冒頭に述べた6人が60数年に及ぶ水魚の交わりを結ぶきっかけになった小田高入学後1年2組の集合写真をお目にかけます。望月だけはこの時はほかのクラスだったのでこの写真には写っていません。但し中澤・藤井・水口・望月・山本は城内小学校で4年生から6年生まで同じ4組の同級生で、以後ずっと親交を結び、本町小学校だった佐々木は城山中学の3年時に私(山本)と同じクラスになり、親しくなりました。佐々木はその関係で我々5人と仲良くなったという訳です。

最前列右から2人目水口・4人目山本・2列目右から4人目佐々木・藤井・中澤

そしてもっとも最近の写真は2018年3月17日、小田原駅前「鳥ぎん小田原店」での飲み会です。

こういう飲み会には日頃多忙な望月も律義に顔を出します。


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