ちょっと発表


2016.08.25    月村 博
 川柳のはじまり

 前回「俳句と川柳のちがい」で“俳句も川柳も、江戸時代の俳諧(連歌)から発したもの。
俳句は連歌の第一句、つまり発句が独立したものであるのに対して、川柳は、前句付の付句が
独立したもの”という説明をしました。
では、「前句付」とは何か。簡単に言えば、前句付とは「課題」のことです。これこれという> 題で作りなさいという指定です。

 現在、川柳には雑詠(自由吟とも呼ばれ、特に題を限定しないで作る)と、題詠(課題吟とも
呼ばれ、示された題で作るもの)がありますが、江戸時代の川柳(当時は、前句付と呼ばれていて、
川柳という文芸名称は明治時代になってから確立したものです)には、雑詠はなく、もっぱら今でいう
題詠で作られていました。

  前句付というのは、元禄年間より、宝暦、明和、安永、天明を通じて、最も広く行われた大衆の
文芸であって、人間中心の詩であります。当時の前句付は、興行の方式を採り毎年8月より11月までの
(陰暦)4か月間、毎月3回ずつ、開巻興行したようです。
前句付万句合*(まんくあわせ)を興行しようとする者は、第一に人気のある、ことに批評眼に秀でた
俳人を選び、点者(現在でいう選者)を依頼する。そして承知したとなると、募集の刷物をこしらえて
配布します。点者は何某、題は何々、何月何日までに主催者の方まで届けてもらいたい、という段取りに
なります。
*万句合とは、その集句がほとんど一万句の多数に及ぶというので、この句集に付けられた名称です。

 そしてその題の出し方も、今だったらたとえば「賑やか」と指定されるところを、「賑やかなこと賑やかなこと」というように「七七」の十四音字で出されました。この十四音字が“前句”です。この前句である七七の前に、適切な五七五を付けなさい、というわけです。この五七五が、あとから付けるので「付句」と呼ばれました。
  そして五七五の付句と七七の前句の、合計三十一音字・・・・つまり和歌(今の短歌)の形で楽しまれ、 鑑賞されていたのでした。
「賑やかなこと賑やかなこと」に付けられた名句としては、「降る雪の白きを見せぬ日本橋」が残っています。

  雪がしきりに降っても、人出が多いために雪が白く積もることのない日本橋の「賑やかなこと」が、この句から十分にうかがえるという趣向です。そして読者も「降る雪の白きを見せぬ日本橋 賑やかなこと賑やかなこと」と三十一音字、つまり和歌(短歌)の形で鑑賞していたのです。
 もう一つ例を挙げれば、「無いふりが金持至極上手なり」は「すましこそすれすましこそすれ」に対して作られた「付句」です。

  前句付から川柳がどうして独立したのかとなると、ちょうどその頃同じく発達をしていた俳諧が、その発句のみを独立させて平易に趣味をさぐることができたのと同じように、前句付もまた独立の機運に乗じてきていたからです。ですから、川柳は俳句とともにその発生の動機から変遷を等しくしていますが、その興亡はつねに時代思想を反映して、平行するときもあり、また常軌を逸する両者の失意時代、得意時代を展開させ、今日にいたっています。

 これは要するに、俳句にしても川柳にしてもその源を俳諧および連歌に有する、いわば血縁関係にあるからです。いずれもが十七字詩であり、大衆文学であるのを見ても、直ちにそれと察知せられるでしょう。
  この前句付の点者に柄井八右衛門(雅号を川柳)という人がいました。享保3年(1718年)江戸に生まれました。 俳諧に詳しく、談林派の俳人でしたが、前句付の点者としてもたいへん人気があって、その性格も温厚、多数の前句付作者から慕われていました。この人の選んだ万句合は、今日古川柳研究の至宝とされています。

 「川柳」という名称は、この柄井八右衛門の雅号に由来するのですが、彼の偉大な人格と、選者としての人望、追慕の念が、前句付より独立した五・七・五の付句をかく名称せしめたものと言えるようです。



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